一《動揺》
鶴田嶺士(つるたれいじ 30)と亜弓(あゆみ 28)の夫婦は結婚して三年が経つ。嶺士は町の『海棠(かいどう)スイミングスクール』のインストラクターとして働き、妻の亜弓は専業主婦だ。
『海棠スイミングスクール』を経営する海棠ケンジは嶺士と同い年で、通っていた高校こそ違うが、どちらも水泳部の主力選手として活躍していた。ケンジとその妻ミカは大学の水泳サークルで知り合った。ミカがケンジよりも二歳年上。ケンジの地元すずかけ町に以前からあったスイミングスクールに始め水泳指導者として働いていた海棠夫婦は、そのセンスと指導力の高さが評価され、二年前にスクールの管理運営の全てを任され新しい経営者になったのだった。
ケンジには双子の妹マユミがいた。彼女はケンジの高校来の親友ケネス・シンプソンと結婚し、すずかけ三丁目に建つケネスの店『Simpson's Chocolate House(愛称『シンチョコ』)』で働いている。
そのマユミは亜弓の高校の時の先輩にあたる。亜弓が通っていた「すずかけ商業高校」の水泳部に同じマネージャーとして所属していたのだった。亜弓が一年生だった時マユミは三年生で、その控えめな物腰、無駄のない的確なスケジュール管理と部員の栄養管理、誰にでも分け隔てなく接する態度や気遣い、そして抜群の愛想の良さで、部員はもちろん顧問の教師からもコーチからも絶対的な信頼を得る伝説の名マネージャーだった。亜弓は彼女の背中を見てマネージャーとは何たるかを学び、成長した。今でも亜弓はマユミを心から尊敬し慕っていた。
そのマユミの同級生だった鶴田嶺士は当時バタフライの名手として県の水泳界でも有名だった。マユミの双子の兄ケンジは嶺士やマユミたちとは違う「すずかけ高校」に通っていたが、彼もその水泳部の中で群を抜いて優秀なバタフライの選手だった。そのため多くの大会でも嶺士とケンジは顔を合わせ、同じレースで何度も戦ったライバル同士だった。
高校時代、入学した時からずっと憧れの先輩だった嶺士に亜弓が告白したのは彼女が二十歳の時、嶺士が大学を卒業して地元に戻り、数年ぶりに開かれた高校時代の水泳部のOB会での席だった。それから二人は順調に愛を育み、五年間の交際期間を経て友人や家族の祝福を受け無事に結婚した。
二階にある寝室のど真ん中に大きなベッドが置いてある。その夜、風呂から上がった嶺士がTシャツと短パン姿でベッドに腰掛けた時、亜弓はケットを首までかぶって顔を赤らめていた。
「ん?」
嶺士はそのケットをそっとめくった。
「なんだ、亜弓、何も着てないじゃないか」
「ねえ、嶺士……」
嶺士は亜弓を見下ろした。
「やろうよ……」亜弓は恥ずかしげに小さな声で言った。
嶺士はそのまま亜弓のそばに横になると、彼女を抱いて柔らかなキスをした。
口を離した嶺士は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめん、亜弓、今日も休ませてくれ」
亜弓は口を尖らせた。
「ここんところ、疲れてるね。その気にならないんだ、嶺士」
「ごめんな。なんなら指と口で」
嶺士は全裸の亜弓に覆い被さりその唇を吸った。
んん、と甘い声を上げた亜弓は嶺士の背中に腕を回した。
嶺士はそのまますでに硬くなっていた亜弓の乳首を交互に咥えて舌でころがした。亜弓は次第に息を荒げ始めた。
それから嶺士は亜弓の脚を抱えてその秘部に舌を這わせ、指を差し入れてゆっくりと動かした。
全身を上気させはあはあと喘いでいた亜弓はその手を嶺士の股間に思わず伸ばした。
「ごめん」嶺士は囁くような声で言った。「今日は勃ちそうにない」
はあ、と大きなため息をついて、亜弓は身体から力を抜いた。そして傍らに脱ぎ捨てていた黒いショーツをそそくさと穿き直して、バタンとベッドに仰向けになった。
「わかった。ごめんね、嶺士、無理言っちゃって」
「気持ち良かったか?」
「気持ち良かったけど満足しないよ」
亜弓はそう言うと嶺士に背を向けた。
嶺士は気まずそうに頭を掻いて、亜弓の背に寄り添って横になった。
一週間ほど前にスイミングの担当クラス替えがあり、それまでの高校生クラスから小学生クラスの担当になった嶺士は、慣れない相手とその圧倒的な元気さに活力をすっかり奪われ、その疲れがなかなか取れない日々を送っていた。いきおいベッドで亜弓を抱く余力など残っていなかった。
亜弓が黒いショーツを穿くときは、身体が火照って自分を求めたがっているということを嶺士は知っていた。それに応えられない不甲斐なさを思いながらも、背を向けた亜弓をそっと抱いたまま、やがて深い眠りに落ちていった。
明くる日の晩、亜弓はパジャマ姿でベッドにいた。俯せで肘を突き、女性週刊誌を広げていた。
嶺士が訊いた。「明日智志が家に来るけど、俺が何かすることはないか?」
「ううん。別に何もないよ。いつも通り」
亜弓は雑誌から目を離さずに言った。
「そうか」
嶺士は亜弓の横に仰向けになった。亜弓は雑誌を閉じてサイドテーブルに載せると、嶺士に顔を向けた。
「四か月ぶりね、智志君と会うの」
「そうだな」
嶺士の高校時代、水泳部で一緒だった宮本智志(みやもとさとし 30)は、嶺士とはメドレーリレーで組んでいた平泳ぎの名手で、二人は親友同士だった。その華麗に水を切る、優雅とも言える泳ぎのフォームは部員の羨望の的で、彼らが三年生の時、秋の大会前の合宿では、当時一年生だったマネージャー亜弓もその練習の様子を惚れ惚れと見とれていた一人だった。
「なんで智志君は水泳の道に進まなかったんだろうね、あんなにすごい選手だったのに」
「水泳のスキルが活かせる仕事なんてそうそうあるもんじゃないからな。今でも泳ぎで喰っていける俺はラッキーな方だよ」
亜弓は少し考えた後、嶺士に身体を向けた。
「嶺士は智志君のこと、好きなの?」
「当たり前だ。親友なんだから」
「智志君もそう思ってるのかな」
「そうじゃなければ年に何度も家に遊びに来たりしないだろ?」
智志は三か月に一度ぐらいの間隔で定期的に鶴田家を訪ね、一晩泊まって嶺士や亜弓と飲みながら語り合う時間を持っていた。嶺士もそれを楽しみにしていて、彼がやって来る時はいつも好物の海老フライを亜弓に作らせるのだった。
嶺士は寂しそうな顔をしてため息をついた。
「しばらく会えなくなるから、今回が最後かも、って言ってた」
亜弓は驚いて訊いた。
「え? どういうこと?」
「さあな。来たら詳しく話してくれるだろう」
亜弓はちょっとだけ切ない顔をした後、努めて明るい声で言った。
「かっこよかったよね、智志君」
「そうか?」
「あの逞しい筋肉とか、お尻とか」
「お尻? そんなエロいこと考えてたのかよ、おまえ」
嶺士は呆れた様に言って亜弓の額をつついた。
「うん。みんなそう言ってたよ。でもあたし、そんな目で嶺士のことも見てたよ」
「へえ」嶺士は上ずった声を出した。
「かっこよくてセクシーな男の人の身体を見れば女だって熱くなるものだよ。あたしが水泳部のマネージャになったのもひとつはそれが目的だったもん」
「エロ女」
「みんなそうだよ」亜弓は口を尖らせた。「マユミ先輩だってそう言ってたよ」
「マユミが?」
「そう。マユミ先輩、あたしにこっそり言ってくれたことがあったよ。水泳をやってる男子に抱かれたいな、って思うことがあるって」
「マユミは巨乳だしな。その気になりゃオトコなんかすぐに釣れたんじゃないか? 実際いっぱいいたよ、彼女とつき合いたいって考えてる部員」
「みんな巨乳狙い?」
「大半はな」
「嶺士も?」
「ちょっとだけ」嶺士は笑った。
「嶺士だってエロ男じゃん」亜弓も笑った。「でも誰ともつき合ってなかったね、マユミ先輩」
「ガード固かったな。確かに」
「マユミ先輩の双子のお兄ちゃんのケンジさんもかっこいい身体だったよね。泳ぎはもっとかっこよかった」
「今でもそうだ。スクールでケンジがプールに出て来ると女子高校生がきゃーきゃー騒ぐ。うるさくてしかたないんだ」
「嶺士も素敵だって思う? ケンジさんの身体」
「はあ?」嶺士は眉間に皺を寄せた。「なんだよそれ」
「男の人のハダカに興味ないの?」
「あるわけないだろ!」嶺士は大声を出した。「ホモなんて気持ち悪いよ。もし近づいてきたらぶん殴る」
「そこまで拒絶しなくてもいいじゃない」
「うえーっ、想像しただけで身の毛がよだつ」
亜弓はそんな嶺士を見て、小さなため息をついた。
◆
――それから10日が経った暑い日のこと。
昼休み、嶺士はプールの奥にある事務所に呼び出された。
「嶺士、どうかしたのか?」
経営者のケンジは事務所のソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
「え? 何が?」
「目が死んでる」
ケンジは肩をすくめた。そして嶺士に向かいのソファに座るよう促した。
「いつもなら小学生の子供たちがまつわりついてきて、君もそれに楽しそうに相手してたじゃないか。ここんとこ何かそっけない態度に見えるけど」
「まあね」嶺士は一つため息をついた。「ちょっと悩んでることが、あるにはあるんだが……」
「相談に乗るよ。話してみろよ」
「いや、相談するほどのことじゃ……すまん、仕事、ちゃんとやるよ」
嶺士は立ち上がり、背後のケンジにちらりと目を向けて手を挙げた後、入り口のドアを開けた。その時ケンジの妻ミカと鉢合わせしようとして、彼は思わず立ち止まった。
「嶺士、なんだ辛気臭い顔して」
「ミカさんまで……」
「何かあったのか?」
「別に何も。すみません、気を遣ってもらっちゃって」
嶺士は軽く会釈をして、頭を掻きながらプールに戻っていった。
スクールのその日の日程が全て終わり、他のスタッフと一緒にプールサイドの掃除をしていた嶺士はミカから声を掛けられた。
「ちょっといいか? 嶺士」
事務所でケンジが険しい顔をして待っていた。
失礼します、と言って嶺士はその部屋に入った。
嶺士の後ろでドアを閉めたミカが、いきなり大声で言った。
「いいかげんにして! どういうつもり? 子供が一人溺れかけるとこだったんだよ?」
「す、すいません」嶺士はうなだれた。
「まあ大事には至らなかったけどね。スイミングのスクールではちょっとした不注意が命に関わる事故に繋がるってことは君も知ってるだろ?」ケンジが言ってソファにやれやれと腰を下ろした。「ケイタがたった一人でプールの中に残っているのを見たときは心臓が停まりそうだったよ」
「一歩間違ったら警察沙汰よ? なにぼーっとしてるのよ、朝からずっと」
「ここに座れよ、嶺士」
嶺士はケンジの横に、その向かいに鬼のような顔をしたミカがどかりと腰を下ろした。
「小学生クラスを持って、まだ慣れてないってこともあるんだろうけど、点呼は確実に、ってあれほど言ったじゃないか」ミカは手をこまぬき、鋭い目を嶺士に向けた。
「すいません。俺、全員ちゃんとそろってる、って思い込んでました」
「四年生の太郎がケイタの声色を真似て返事したんだと。横にいた香奈がそう言ってた」
「整列させて返事をさせるだけじゃ点呼にならない。インストラクターが指さし確認するのがルールだ」
「プールの中にも、プールサイドにも誰一人残っていないことを確認して上がるのが大原則」ミカが念を押すように言った。
ケンジが言った。「特に子供は何をするか予測できない。油断してたな、嶺士」
「ほんとに申し訳ない、ケンジ」
嶺士は肩を落としてうなだれた。
しばしの沈黙の後、ミカがソファに深く座り直して口を開いた。
「とにかく話して。今までノーミスのあんたがそんな風になってる訳を。何かあったんだろ?」
嶺士は唇を噛み、恐る恐る顔を上げてミカとケンジを交互に見た。
「カミさんが家出したんです」
「なに?」ケンジが険しい顔で言った。「亜弓ちゃんが?」
「何があったんだ?」ミカが声のトーンを落として訊いた。
「先週、高校ん時一緒だった智志が俺の家に泊まったんです」
「智志?」ケンジが訊いた。「あの、君と同じ水泳部のライバルだった宮本?」
「そう。あいつ。年に何度か家に来て一緒に飲む仲なんだが……」
嶺士はケンジとミカに智志が家に来てからの出来事を苦しそうに話し始めた。