Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~

『ずぶ濡れのキス』 1.音楽室での出来事2.明かされる秘め事3.目覚めの朝4.ずぶ濡れのキス5.門出

《2.明かされる秘め事》

 

 放課後、真雪は友人のユウナに廊下から呼び掛けられた。

「真雪」 

 真雪は座っていた椅子を逆さにして机に乗せながら顔を上げた。「あ、ユウナ」

「今日、一緒に帰ろうよ」

「ごめん。あたし、掃除当番」真雪は小さくため息をついた。

「そっか。そうだったね。お疲れ。どこの掃除?」

「うん、芸術棟のゴミ出し」

「大変だね」

「しかたないよ。当番なんだから」

 ユウナは悪戯っぽく口角を上げて言った。「ゴミの中に、お宝が入ってるかもよ」

 真雪は呆れ顔をした。「ないない」

 

「じゃ、がんばって」

「ごめんね、わざわざ声掛けてくれたのに」

「ううん。大丈夫。じゃあね」

 ユウナは小さく手を振って廊下を歩き去った。

 

 

 放課後、健太郎は修平と一緒に芸術棟の二階に向かう階段を上っていた。掃除当番で残っている生徒が、やる気なさげに踊り場をほうきで掃いていた。

 

 健太郎の後ろをついて階段を上っていた修平が戸惑ったように言った。

「どこ行くんだ? ケンタ」

 

 長い廊下にも数人の掃除をしている生徒がいた。

 健太郎は無言で二階の奥にある音楽室を目指して歩いた。

「音楽室に何か用なのか?」

「ちょっと気になって……」

 健太郎は音楽室のドアを静かに開けた。カーテンは閉められたままだ。

 

「ここ、掃除してないな。誰もいない……」

「京介たちじゃなかったっけな。ここの掃除当番。あいつらいっつもさぼりやがるかんな」

「確かに」健太郎は苦笑いをした。「部活が命のやつらだからな」

 

 二人は室内に足を踏み入れた。

「暖かいな……。まるでたった今まで暖房が入ってたみてえだ」

 健太郎は教室の机の間をゆっくりと、怪訝な顔つきで歩いた。

「さっきの授業の時、カーテンは閉まってたのに、エアコンの室外機は回ってた。でも今は切られてる」

「誰かいたのかね……」修平が呟いた。「あれ?」

 教室の中央あたりの、なぜか机が乱れて並べられた所に佇んでいた健太郎は振り向いた。「どうした? 修平」

「ピアノのカバーが濡れてっぞ」

「濡れてる?」健太郎もピアノに近寄った。

 

 修平の言った通り、そのカバーの真ん中辺りが濡れている。その染みの縁は乾きかけて、少し白くなっていた。

 

「雨漏りなわけねえよな。今日は晴れてっから……」修平が天井を見上げた。

「修平!」健太郎が大声を出した。

「なんだ、ケンタ」

「これ」健太郎は染みの近くについていたものを指さした。

「これは!」修平も大声を出した。「ヘ、ヘアじゃねえか!」

「教室の床にもあった……」健太郎は自分がさっきまでいた場所に目を向けた。

「ってこた、誰かがここでエッチ……」修平は驚愕の表情で健太郎を見た。「ピ、ピアノの上でやったんかな」

「違うよ。教室のあのあたりにこのカバーを広げてたんだろ」健太郎は親指を立てて、修平を見たままその場所を示した。

 

「場所からして、ワシオっちが一番怪しいな……」

「そうだな」

「音楽室がオフィスラブの現場になってたなんてなー。やるなーワシオっち。相手は誰なんだろうな?」

「……」健太郎は眉間に深い皺を寄せて、表情を硬くした。

「だけどよ、昼間っから大胆だよな。生徒が帰っちまった後だろ、普通、やるの」

 

「……相手が生徒だとしたら……」

「えっ?!」修平は思わず健太郎の顔を見た。「生徒?」

 

 

 真雪は腕まくりをして、クラスメートのリサと一緒に芸術棟に向かった。

「私、一階のゴミ集めするわね」リサが言った。

「じゃあ、あたし二階」真雪はそう言って、階段の下でリサと別れた。

 

 真雪は二階の一番手前の書道教室から順に、その教官室や教室に備え付けられているゴミ箱の中のものを、ビニール袋ごと取り出して、廊下に出しては、新しい袋を箱にセットしていった。

 校舎の一番端にある音楽室の隣に、音楽科の教官室があった。真雪はそのドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。

 「失礼します」真雪はゆっくりとドアを開けた。中には誰もいなかった。

「鷲尾先生、いないんだ……。あれ?」

 真雪はドアを入った所で立ち止まり、鼻をひくひくさせた。

「なんだろう……、漂白剤みたいな匂いが……」

 その狭い部屋の中にかすかに漂うその匂いは、彼女がドアの脇にあるゴミ箱に近づくにつれて、強くなった。

 真雪はゴミ箱に入れられたビニール袋に手を掛けた。

「塩素系? プールの消毒剤みたいな匂い……」

 ゴミ箱からビニール袋を抜き取った真雪は、その黄色い透明な袋の中に、たくさんの丸まったティッシュが入っていることに気づいた。「こ、これって……もしかして……」

 

 その時、隣の音楽教室で物音が聞こえた。真雪はゴミ箱から引き抜いたビニール袋を廊下に置いて、教室のドアをそっと開けた。

「え? ケン兄。しゅうちゃんも……」

 

 中にいた健太郎と修平が振り向いた。

「あ、マユ」

「なんだ、真雪、おまえ掃除当番?」修平も言った。

「そうだよ。どうしたの? こんなところで」

 真雪は二人のいるピアノの近くに歩み寄った。

 

「ちょっと気になることがあってな」健太郎が低い声で言った。

「ちょっとどころじゃねえだろ、ケンタ」

「あたしも……」真雪が小さな声で言った。

「え?」

「とっても気になることがあるんだ」

「……何かあったのか? マユ」

「廊下に出したゴミを調べてくれない?」

「ゴミ?」

 

 

 健太郎と修平、真雪は、学生食堂の隅のテーブルで話し込んでいた。

「間違いねえよ」修平が言った。「ありゃ、エッチのあとだ」

「やっぱり?」

「ワシオっちが、あそこでヤってたなんてな……」修平が苦しそうな顔で言った。

「かなり大変なことなんじゃない? 学校であんなこと……。相手は誰なのかな……。」

 

 深刻な表情を変えないまま、健太郎が言った。「将太だ」

「えっ? 将太くん?」

「ああ。水曜日の午後、あいつは必ず鷲尾先生と進路相談をするために教室を離れる。今日がその水曜日……」

「その時に、二人で……」

「たぶんな」

「だけど、あの二人、つき合ってるって感じじゃねえよな。将太、相変わらず全然表情よくねえもん」

「確かに……」

「それに、鷲尾先生も、なんかずっと暗い顔してるよね、最近」

「そうなんだな……」

「まさか、先生、将太君に無理矢理……」

「可能性はあるな……」健太郎は腕組みをしてそのまま黙り込んだ。

 

 

「どうする? ケンタ」

 健太郎は腕組みをして、目を閉じた。

 しばらくして目を修平に向けて彼は低い声で言った。「先生本人に話を聞けるかな……」

 

 

 真雪が彩友美を職員室に呼びに行った。

 生徒相談室の前で待っていた健太郎と修平は、真雪と一緒にやってきた彩友美に目をやった。

「どうしたの? 三人で何の相談?」彩友美は落ち着かないようにそわそわしながら、ぎこちない笑みを浮かべた。

 真雪が健太郎と修平に向かって小声で言った。

「ここはあたしだけにして。ケン兄たちは帰って」

「そうだな。不必要に先生を追いつめるかも知れないな」

「どんな話だったか、後で聞かせてくれよ、真雪」

「うん。わかった、しゅうちゃん。ごめんね、つき合わせちゃって」

「気にすんな」

 修平と健太郎は、肩越しに軽く手を振りながらその場を離れた。

 

「三人で相談じゃなかったの? 真雪さん」

「あたしが代表です」真雪はにっこりと笑った。

 

 

 彩友美と真雪は、その狭く無機質な部屋に入った。古くなって少し傾いた円形のテーブルを挟み、彩友美と真雪は向かい合って腰を下ろした。

「先生、単刀直入に訊きます」真雪が口を開いた。「毎週水曜日の午後、将太君と何をやってるんですか?」

「えっ?!」彩友美は身体を硬直させた。

「あたしたち、先生のことを心配してるんです」

 

「……」彩友美はうつむいて黙り込んだ。

 

 真雪は躊躇いがちに声を落として言った。「音楽室で……先生……」

 彩友美は唇をぎゅっと噛みしめた。

「先生、彼に何かひどいことをされてるんじゃ……」

「そ、それは……」

 

 彩友美はうつむいたまま静かに語り始めた。「許されないことかも……しれないけれど……私、あの子に惹かれているの……もう、自分でもどうしようもないぐらい、彼のことが……」

 真雪はほっとしたように小さなため息をついた。

 

 彩友美の目を見つめながら真雪は言った。「実は、将太君のお母さんに、先生はとてもよく似てるんです」

 その若い教師は思わず顔を上げた。

「え? お母さん……に?」

「はい。あたしたちの店は、志賀のおじいちゃんによくリフォームとか修繕とかお願いしてて、小さい頃から将太くんとは仲良しなんです」

「そう」

「お母さんが家を出て行ってから、将太君は今みたいに無気力状態に……。当然ですよね。でもどんどんひどくなってるみたいで……」

「……」

「将太君の心の中には、そのお母さんに捨てられたっていう気持ちが強く残ってるんだと思います」

 

 彩友美が恐る恐る訊いた。「どうして彼のお母さんは家を?」

「志賀のおじいちゃんの話だと、将太君のお父さんが病気で亡くなった後、他に好きな男の人が……できたって……」真雪は辛そうに言葉を濁した。

 彩友美は表情を堅くした。

 

 真雪がゆっくりと顔を上げた。「でも、将太君はお母さんのことが大好きだった」

 

 彩友美が悲しそうな顔で真雪を見た。「大好きだったお母さんに……捨てられた……」

 

 少しの沈黙があった。遠くで甲高い鳥の声がした。

 

 しばらくして彩友美は決心したように真雪の目を見つめた。「正直に言うわ。真雪さん」

「はい……」

「私、将太君に無理矢理押さえ込まれて、彼の性欲のはけ口になってたの」

「えっ?! レ、レイプ……」

 彩友美は少し慌てて腰を浮かせた。「違うの、彼は外に出すだけ。な、中に入れられたことは、一度も……」

「そ、そうなんですか……」

「いつもは優しそうな目をしている将太君が、その時はまるで人が変わったように表情をなくして……」

「先生……」

「彼のやり方はとっても乱暴で、すごく苦痛だった」

 

 彩友美はまたうつむいた。「でも、あの子の抱えてる苦しみを何とか癒してあげたくて、私は彼の言う通りに、毎週……」

 

「そ、そんなに乱暴なんですか?」

「ストッキングを破られたり、手首を縛られたり……。」

 

 予想していたこととは言え、その衝撃的な言葉に真雪は息を呑んだ。そして恐る恐る口を開いた。

「そ、そんなことされても、先生は将太君に惹かれてるんですか?」

 

 彩友美は静かにうなずいた。

「そうやって乱暴して、登り詰めた後に、あの子すごく悲しい顔で私を見るの。」

 

 真雪は独り言のように言った。「将太君は、お母さんへの二つの思いを先生にぶつけてた、ってわけなんですね……」

 

 彩友美は膝の上に乗せた両手の白い指を組んで、静かに言った。「私、将太君のそんな顔見てたら、だんだん切なくなってきて、同時に将太君がたまらなく愛しくなってきて……」彩友美の目に涙が宿った。「もう将太君を離したくない、って思い始めて……」

 

 真雪が顔を上げた。「先生の気持ち、あたしたちが将太君に伝えてあげます」

 

 彩友美は首を横に振った。「大丈夫。気を遣わないで、真雪さん」

「でも、このまま将太君が先生の気持ちも知らずに、毎週そんなことしてたら、いつか本当に先生をレイプしてしまうかも……」

 

 彩友美も顔を上げた。「心配しないで、きっと将太君は、もうわかってるはず……。私の気持ちも」

 

「……」

 

 彩友美の目に宿った深い自信の色が、向かい合っていた真雪の、後に続く言葉を封じた。

 

「健太郎君や修平君にもそう伝えて」彩友美は柔らかな笑顔を真雪に向けた。「心配してくれて、ありがとう。真雪さん」