Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~
《4.来客》
明くる日。1月10日。土曜日。
自宅のアパートで、あまりの頭痛のひどさに目を覚ました亜紀は、パジャマのまま狭いキッチンまでよたよたと歩き、冷蔵庫を開けて、パック入りのレモンジュースを取り出した。
「飲み過ぎちゃった……」
亜紀は頭を抱えて、ベッドの端に腰を下ろした。「今日が休みで良かった……」
彼女は壁に掛かっているスヌーピーの掛け時計に目をやった。
「もう9時なんだ……。いっか、今日は一日寝ていよ」
ピンポン。部屋の呼び鈴が鳴らされた。
亜紀は慌てて玄関に走り、ドアスコープを覗いた。
ピンポン。もう一度呼び鈴が鳴らされた。亜紀はドアを開けた。
「タクちゃん!」
「よお、亜紀ンこ、久しぶり、元気だったか?」
「どうしたの? いきなり」
「買い出し」
「買い出し?」
「そ、買い出し。にしてもあんた、まだパジャマ姿なのか?」
「今日はゆっくりしていようと思って」
両手に荷物を持った、その背の高い人物は、亜紀を見ながら呆れたように笑った。
「どうでもいいけど亜紀ンこ、いいかげん中に入れてくれないかな。荷物重くてしょうがないんだが」ハスキーな低い声で言った後、彼女は荷物をよいしょと持ち直した。
亜紀の元をいきなり訪ねてきたのは彼女の従姉妹で、隣県の亜紀の実家近くに住む一つ年上の北原拓海(26)。ベリーショートの髪を金髪に染めた、ひょろりと背の高い女性だった。亜紀とは幼い時から姉妹同然のつき合いだった。
「どうしたんだ? 顔が紫色だぞ、亜紀ンこ」
「昨夜、同窓会があってね」
「二日酔いかよ……だらしねえなー」
「タクちゃんこそ、まだそんな言葉遣いなの? 全然女らしくならないね。声も低いし、まるで男だよ」
亜紀は呆れたように笑った。
「ほっといてもらおうか。これがあたしのキャラなんだよ」
「ま、仕方ないね」亜紀は頭を抱えて力なく笑った。
「昨夜は遅かったのか? 帰り」
「それがよく覚えてないんだよね。あたし」
「そんなに酔ってたのかよ」
「気づいたらこの部屋で寝てた」
拓海は眉間に深い皺を作った。「危ないやつだな。あんた、記憶が飛んでる間に、誰かに何かされてっかも知れないぞ」
「ないない。それはない」亜紀は右手を顔の前でひらひらさせて呆れたように笑った。
亜紀は、ティーポットから二つのカップに黄金色のダージリンティを注いだ。
「タクちゃん、旦那さんとはうまくいってるの?」
「もうラブラブだ。羨ましいだろ。って、亜紀ンこはまだ結婚考えてないのか?」
「だって、相手いないし……」亜紀は拗ねたように言った。
「そう来るだろうと思って……」拓海は大きなバッグをごそごそと漁り、一冊のファイルを取り出した。「ほれ、あんたの母ちゃんから預かってきた」
亜紀は目の前に置かれたそのファイルを開けてみた。
見知らぬ男性のスーツ姿の正面の写真、その下に男性が犬と戯れているスナップ写真、それに本人の生年月日、仕事先、そして簡単なプロフィールが記されていた。
「な、何よこれ?!」
「何って、見合い用のファイルだ。あんたの母ちゃんが集めた7人分」
「やめてっ! あたしまだ結婚する気なんかないんだからね」亜紀はますます赤くなってファイルを乱暴に閉じた。
「だったら、母ちゃんにそう言えよ」拓海は涼しい顔で紅茶を口に運んだ。
拓海はテーブルにほおづえをついて亜紀の顔をじっと見つめた。「あんたももういい歳なんだし、一人暮らしやってると、いろいろ失うモノも増えていくだろ?」
「何よ、失うモノって」
「あんた、二日酔いで今日は一日ぐだぐだして過ごそう、って思ってたんじゃない?」
「う……」
「だろ? 一人で暮らしてっとさ、どんどんずぼらになったり自堕落になったりしていくもんだ。恋人とか夫とかが居れば、ある程度自分の行動にも節度ってもんが保てるわけよ。それに、」
拓海はにやりと笑った。
「そんな人がいれば、甘えることもできるし、身体も癒してくれるだろ?」
「そんなこと言ったって……」
「前にちらっと聞いたことあったんだけどさ、あんたつき合ってる人がいたんじゃなかったっけ? 叔母さんの話じゃ何でも同級生の男とかって」
亜紀は沈んだ声で言った。「別れた」
「そうか。叔母さんの言ってた通りか……。でもなんで? やっぱり性格が合わなかったとか?」
「ううん、あっちから別れようって言ってきたんだ」
拓海は憤って言った。「あんたのどこが不満だったんだ。連れて来い、今すぐ。あたしが問いただしてやるっ」
「やめてよ、タクちゃん!」亜紀は自分で出した大声にたじろいで、一つ咳払いをして紅茶のカップを手に取った。「いろいろ思う所があったんだよ、きっと……。それにもう三年になるし。別れて……」
しばらく亜紀の様子を見ていた拓海は、肩をすくめてため息混じりに言った。「ま、済んだことをあれこれ言ってもしょうがないか。」
テーブルに置かれたピンクのギンガムチェックのカバーが掛けられた籠の中からチョコチップクッキーを一枚摘み上げて、亜紀は言った。「タクちゃん、あたしのお見合いを進めるために来たの?」
「それは叔母さんの用事。あたしは妹の結婚式の引き出物の注文」
「え? あっちゃん結婚するの?」
「そ。6月にね。いわゆるジューンブライドってやつ?」
「すごい! おめでとう!」
「ありがとよ」
「お相手は?」
「勤めてた会社の先輩だってさ。あたしも一度会ったけど、なかなかいい人だよ。優しそうで」
「そう」亜紀は空になったカップに、ポットの中で濃くなった紅茶を注いだ。
亜紀の手元を見つめていた拓海は、独り言のように言った。「濃くなった紅茶には、ミルクを入れると渋みが気にならなくなるんだ」
「え?」亜紀は飲みかけた紅茶のカップを口元で止めたまま顔を上げた。
「時間を置くと、何だって舌や鼻に障るようになるだろ。ミルク入れてみな」
「あいにく切らしてる」
「そうか。そりゃ残念だな」
「タクちゃんよくそんなこと知ってるね」
「ま、受け売りだけどね」拓海は笑った。
「そうそう、それで、妹の結婚式の引き出物にね、シンチョコのアソートを頼もうかと思ってるんだ。」
「いいね、それ。きっと喜ばれるよ」
「明日お店に注文に行くから、あんたもつき合ってよ」
「わかった」
「今日は一日ぐだぐだしててもいいからさ」拓海はウィンクをして、カップの紅茶を飲み干した。
◆
明くる日曜日。1月11日。
アパートの部屋で朝食を済ませた拓海と亜紀は、10時頃、街へ出た。
「やっぱこの町はいいね。都会なのにほっとするって言うか、癒されるよ」
「そう?」
「賑やかで、おしゃれじゃん」拓海は颯爽とアーケード街を闊歩していた。
小柄な亜紀はちょこちょこと少し急ぎ足で彼女の横について歩いた。
「ところで亜紀ンこ、あんた相変わらず飾りっ気ないね」拓海が横目で亜紀を見ながら言った。
「え?」
「もういい年なんだからピアスぐらいつければ? アクセサリー系、皆無じゃないか」
「……いいの。あたしこれで」
「マニキュアもしてないしメイクも薄いし……やっぱあんたには彼氏が必要だわ」
二人は『Simpson's Chocolate House』にやって来た。
「久しぶりだな。相変わらずお客が多いね」拓海はそう言って入り口のドアを開けた。取り付けられていたカウベルが軽やかな音をたてた。
「いらっしゃいませ」
メインシェフ、ケネス・シンプソンの妻マユミが微笑みながら二人を出迎えた。
インフォメーション・カウンターで引き出物の注文を済ませた拓海は、椅子から立ち上がると亜紀に向かって言った。「お茶でも飲んでいかないか?」
「いいね。奢るよ」
「そうか、済まないね」
亜紀と拓海は窓際のテーブルに向かい合って座った。
「そう言えばさ、亜紀ンこ」
「なに?」
「こないだ雑誌にこの街のことが載ってたんだけど」
「そうなの?」おしぼりで指先を拭き終わった亜紀が目を上げた。
「うん。なんでも、このシンチョコのあの木、」
拓海は窓の外に目をやり、駐車場の脇、通りの近くに立っている大きなプラタナスの木を指さした。「あれには恋愛成就の御利益があるんだと」
「恋愛成就?」
「ああ。まあ、恋人同士でなくても、あの木って、この界隈じゃけっこう目立つし、ちょっとお洒落だし、あちこち遊びに行くのにも便利な場所だし、よく待ち合わせ場所になってるんだって?」
「そうだね、そう言えば友達も時々あそこで待ち合わせしてるみたい」
「好きな相手と、あそこで待ち合わせしたら、二人で幸せになれるんだってよ」
「ほんとに?」亜紀は拓海に懐疑的な目を向け、笑いながら紅茶のカップを持ち上げた。
「それでうまくいって、つき合ってた彼と結婚しました、っていう経験者の話も記事になってた」
「ふうん……」
亜紀はもう一度、葉を落としたその木に目をやった。
しばらくの沈黙の後、唐突に亜紀が口を開いた。「ねえ、タクちゃん」
「ん?」
「結婚って、どんな感じなの?」
拓海は一瞬カップを持った手を止めたが、すぐに微笑みを返した。「人生の第二幕。だね」
「第二幕?」
「そうさ。価値観が二人分になるんだ。身も心も豊かになるじゃないか」
「え? 意見がぶつかったりしないの?」
「そんなことは承知の上だ。大人なんだし。価値観が同じになる、って言ってるワケじゃなくてさ、自分と違う考え方が、好きっていう気持ちに包まれて自分のものになるってこと。そりゃあ、絶対に受け入れられない価値観のやつとは初めから結婚する気になんかならないけどね」
「それはそうだね……」
拓海は上目遣いで亜紀を見た。
「あんたさ、実は別れた元彼のことが、ずっと気になってるんじゃないのか?」
亜紀は動揺して、トレイから取り上げたチョコレートを落としてしまった。
「図星?」
「べ、別に気になってなんか……」
「いや、顔と態度に出てるって」
拓海はレモンティを一口飲んだ後、続けた。「なんで三年もほっとくんだよ。好きならアプローチしたら?」
「だって……あの人、もうあたしのこと忘れてるよ、きっと」
「すでに結婚してるのか? その彼」
亜紀は首を横に振った。「たぶん……まだ」
「彼女がいるのか?」
「し、知らないよ、そんなこと」
亜紀はうつむいてソーサーの縁を人差し指でそっと撫でた。
しばらくの沈黙の後、拓海が優しく言った。「電話したら?」
「え?」
「別に嫌いになって別れたってわけじゃないんだろ? 元気にしてる? みたいに軽いノリでさ」
「……」
その日、遼は町内をパトカーで回っていた。
助手席に座った新人警察官の夏輝が言った。「一月なのに、暖かいですね、今日は」
「そうだね。車じゃなくて歩いてパトロールしたいね」遼はハンドルを切りながら言った。「日曜日の勤務は、なんか落ち着きませんね」
「そうですか?」
「だって、街にはこんなに人が溢れてる。実に楽しそうじゃありませんか。羨ましくないですか? 日向巡査」
「確かに。そう言われれば。でも街が活気づいてるのを見るのは、あたし好きだな。幸せそうな家族連れや恋人達……」
「本当に幸せそうだ」遼は微笑んだ。
ゆっくりした速度でパトカーを走らせていた遼は、『シンチョコ』の前の通りに差し掛かった時、いきなり車を止め、窓からそのスイーツ店の窓を凝視した。
「ど、どうしたんですか? 秋月巡査長」
秋月の目は、『シンチョコ』の店内でテーブルを挟んで向かい合っている男女に釘付けになっていた。「亜紀……」そして小さく呟いた。
「秋月さん?」
「(だ、誰なんだ、あの男……)」遼は顔を赤くして唇を震わせていた。
「どうしたんです? 何か気になることが?」
夏輝が訊いたが、遼は固まったままで反応しなかった。
おもむろに遼は無言で車を発進させた。夏輝が今までに秋月とのパトロールで経験したことのないスピードでパトカーはその通りを走り抜けた。