Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~

『雨が雪に変わる夜に』 (1.過去2.初仕事3.同窓会4.来客5.疑心暗鬼6.好敵手7.失踪8.再び9.雪の夜

《6.好敵手》

 

 明くる火曜日。1月13日。

 朝から亜紀は、起き抜けのパジャマ姿のまま、なかなか着替えようとしなかった。

 歯みがきをしながら拓海は眉間に皺を寄せて言った。「いいかげん着替えたら? 会社に行く時間だろ?」

「うん……」亜紀はこたつに手足を突っ込んだまま、顎を天板に乗せてくぐもった声でそれだけ答えた。

 

 うがいを済ませた拓海は、キッチンでコーヒーをドリップし始めた。

「タクちゃん」

 不意に声がして、拓海は顔を亜紀に向けた。「なに?」

「部屋、掃除してくれてありがとね」

「気にすんな。何日も厄介になってっから」

 拓海は、二つのカップを運んできて、こたつに置いた。

「調子悪そうだな、亜紀ンこ」

「わかる?」

 

 亜紀はコーヒーを一口飲んだ後、右手でほおづえをついて拓海の顔を見た。

「タクちゃん、あたし会社に行きたくない」

「見てりゃわかるよ」

「そう?」

「原因は?」拓海は上目遣いで亜紀の様子を窺った。

 

「キモい上司に迫られた」

 拓海は意表を突かれたように顔を上げた。「迫られた?」

「うん。新年会が終わって、狭い路地に連れ込まれて乱暴されそうになった」

「何だって? そ、そんなことがあったのか?」

「うん」

「で、あんた逃げたのか?」

 

「通りかかった警察官が助けてくれた」亜紀は急にうつむいた。

 拓海は、亜紀のうなじにきらりと光る物を発見した。

 

「へえ、そりゃラッキーだったな」拓海はコーヒーカップを口に運んだ。

「……元彼の……遼だった」

 

 拓海はカップをテーブルに戻した。

「あんたの元彼って、警察官なんだね。遼っていうのか」

「うん」

 拓海は身を乗り出して、亜紀の顔を覗き込みながら低い声で言った。「あんた、彼に相当未練があるだろ」

「……」亜紀は黙ってうつむいていた。

 拓海は静かに続けた。「昨日、シンチョコで何か見たのか?」

 亜紀は顔を上げた。「え?」

「その彼が店にいたとか……」

 

 亜紀はまたうつむいた。「彼女連れだった……」

「茶髪のポニーテールの子?」

「え? 見たの? タクちゃん」

「知ってんのか? その子のこと」

 亜紀は首を横に振った。

 

「まだ彼女って決まったワケじゃないだろ」拓海はカップを持ち上げた。

「だって、すっごく仲良さそうだったもん」

「言っただろ? 電話しろ、って。証拠もないのにそんなこと決めつけてたら、自分をどんどん追い込むだけだ。ブラックホールみたいに、そのうち自分の抱えてる重さに耐えかねて外に這い出せなくなっちまうぞ」

「いいんだ……。もう三年も経ってるし。あの人に彼女がいたって不思議じゃない」

「諦められんのかよ」

「仕方ないじゃない……」亜紀の目にうっすらと涙が滲んだ。

 

「そのネックレス」拓海が唐突に言った。「ずっとつけてるのか?」

「えっ?」亜紀は思わず顔を上げて、自分の首筋に手を当てた。

「飾り気のないあんたの唯一のアクセサリーってとこか?」拓海は口角を上げた。「その警察官の彼にプレゼントされた?」

 亜紀はほんのわずかに頷いて、またうつむいた。

 

 拓海は遠慮なく大きなため息をついた。「あたし、しばらくここから帰れそうにないね」

「なんで?」

「壊れそうなあんたを一人置いとくわけにはいかないよ」

「……大丈夫だよ」亜紀は消え入りそうな声で言った後、寒そうに背を丸めた。

 

 

 遼は、交番での勤務中もずっと落ち着かなかった。

 彼は朝から同級生の友人に連絡を取って、省悟の電話番号を教えてもらい、その番号に電話した。しかし、留守電設定になっていた。昼休みにももう一度電話してみたが、結果は同じだった。

 

 夜7時頃にようやく省悟に電話が繋がった。

 遼は噴き上がりそうになる熱い感情を必死で抑えながら、口を開いた。

「省悟か? 俺だ、秋月だ」

『遼か』まるで電話が掛かってくることを知っていたかのように省悟は返した。

「話がある」

『俺もだ。遼』

「8時に『シンチョコ』の駐車場で待ってる」

『わかった』

 省悟はそれだけ言うと、先に通話を切った。

 

 遼の胸はますます騒ぎ出した。省悟の方からも話がある、ということは、すでに亜紀との関係が深まっている証拠ではないか。彼は自分にまだ亜紀への未練が残っていることを知っていて、その想いを今夜精算させるつもりでいるに違いない。

 

 制服姿の遼は、いつものように8時少し前に『シンチョコ』の駐車場に着いた。

 そこには、宅配便のトラックが停まっていた。

 遼がその車に近づきかけた時、ドアが開いて、サービスドライバーの制服を着た省悟が姿を見せた。

「遼。久しぶりだな」

 その大胆不敵で偉そうな話し方は高校時代からほとんど変わっていなかった。遼はその声を聞いて胸に熱く渦巻くものが一気に身体中に広がっていくのを感じた。

 

「仕事の途中だからよ、あんまり長居はできねえぜ」

「わかってる。俺も同じだ」遼は下から睨み付けるような目で省悟を見た。

 

「あの日……」遼が切り出した。「あの同窓会の日、おまえ、亜紀とどこに行ったんだ?」

 ふふん、と鼻を鳴らして省悟は遼に身体を向け直し、言った。

「二人でホテルに行ったぜ」

「このやろう!」遼はいきなり省悟の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた。

 省悟は遼のパンチをかわしたかと思う間もなく、自らも右手の拳を突き出した。

 それは遼の左頬を直撃し、遼は後ろに大きくよろめいた。

 

「おまえの気持ちは解った」省悟は再び殴りかかってきた遼の腕を掴んで言った。

「な、何だと?」

「まあ、落ち着け、遼」省悟は優しい目をして言った。

 

 遼の腕の力が弱まったことを確認して、省悟は手を離した。

「おまえがまだ亜紀のことを忘れられてねえってことは、今のおまえの剣幕でよく解った」

「な、何を言ってるんだ、おまえ……」

 

 その時店のドアが開いて、ケネスが顔を出した。

「何や、遼君。来てたんか。それに省悟も一緒か? 何してんねん、こんなとこで」

「ケニーさん」省悟がケネスに身体を向けた。「俺達ここで決闘してたんすよ」

「決闘やて?」

「そ。一人の女を賭けて」

「穏やかな話やなさそうやな。中に入ったらどうや? 紳士的にテーブルで話つけたらええ」

「そうさしてもらいます」省悟は遼の腕を掴んで店のドアに向かって歩いた。遼は省悟の手を振り払って、険しい表情のまま後に続いた。

 

 

「すまん。遼、痛かったか?」

 遼は省悟に殴られた左頬に手を当てた。「警察官失格だな。逮捕する犯人に、逆にやられちまうなんてな」

 省悟は苦笑いをした。「俺は犯人じゃねえよ」

 

 ケネスがカップを二つ運んできてテーブルに置いた。「君ら、複雑な関係の友達同士やったんやな。そやけど、頼むからここで殴り合いはせんといてな。もしやってもうたら、後かたづけまでしていくんやで」

 

 ケネスはテーブルを離れた。

 

 コーヒーを一口飲んだ後、省悟はゆっくりと口を開いた。

「俺は事実を話す」

「……」

「高校時代、おまえと俺は亜紀の取り合いになったが、俺は敗北した。だが、今のおまえ同様、俺は亜紀のことがずっと忘れられなかった。だからあの夜は絶好のチャンスだった」

「いやらしいやつめ」遼は吐き捨てるように言った。

 省悟は構わず続けた。「亜紀はずいぶん酔ってた。俺がどっかで休むか? って訊いた時、彼女もうなずいたから、そのままホテルに入った」

 

 遼の小さな歯ぎしりの音が聞こえた。

 

「いいか、遼、よく聞け。ここからが大事な所だかんな」

「ふざけるな! なんだよ、大事って!」遼が大声を出した。

 省悟は呆れたように肩をすくめた。「結果から言うぜ。亜紀は着ていた服を一枚も脱がなかったし、ベッドに横になるどころか近づきもしなかった」

 

「え?」遼の表情が固まった。

 

「俺は立ったまま背中からあの子を抱くとこまでは成功したが、キスしようとした途端、思いっきり左頬にビンタを食らった」

「そ、そうなのか?」

 省悟は照れたように少し赤くなった。「あえなく失敗。ってやつさ」

そして彼はコーヒーを一口飲んだ。

 

「それからな、亜紀のヤツ、わあわあ泣きながら俺を突き飛ばして叫ぶんだ」

 

 遼は言葉をなくして省悟の顔を見た。

 

「何て叫んでたと思う?」

「わ、わからないよ……」

「『遼、遼!』だぜ?」

「え?」

「わかるか? 亜紀の心の中には、おまえがまだずっと住んでる」省悟はテーブルに身を乗り出し、声を荒らげて続けた。「わかってやれよ、いいかげん! おまえ、そんな亜紀をなんで三年も放っとくんだ!」

 

「そ、そうだった……のか」

 

「それから俺は亜紀に指一本触れることはできなかった。近づく度に突き飛ばされて、俺は無惨に床に転がされちまったよ」省悟は腕まくりをして左腕を見せた。「そん時ベッドの角でぶつけたアザがこれだ」

「亜紀が……」

「あの子はおまえの名前だけを何度もずっと叫びながら泣いてた。もう手がつけられる状態じゃなかったんだぞ!」

 省悟はテーブルをどん、と拳で叩いた。カップがソーサーの上で軽く跳ねて、ガチャン、と音を立てた。

 

 レジの横にいたケネスがちらりと顔を上げた。

 

 省悟はばつが悪そうに一つ咳払いをして椅子に腰を落ち着け、コーヒーを一口すすった。

「ホテルに入って10分も経たねえうちにチェックアウト。それからやっと亜紀をアパートまで送ってったが、二階に上がる階段の前で、俺はあいつに容赦なく追い払われちまった」

「それって、本当のことなのか?」

 省悟はムッとした表情で遼を睨んだ。「腕にアザまでこしらえて、こんな嘘つくか」

 

 そして省悟は小さくため息をついて続けた。

「おまえが信じたくなければそれでもいいけどな」省悟はまたカップを口に運んだ。「ま、どっちにしたって、俺は亜紀を諦めっから。もう無理だ」

 

「すまん、省悟」遼は肩をすぼめて頭を垂れた。

「おまえは高校ン時から慎重すぎる、っつーか、思いこみが激しすぎるっつーか、気を遣いすぎるんだな。全然変わってねえじゃねえか。そういうトコ」

 遼はようやく一口目のコーヒーをすすった。「そうかも……知れないな」

「今、それが思いっきり裏目に出てるってことだろ? おまえがさっき俺に殴りかかったエネルギーをよ、亜紀に向けてやれよ」

 

 遼は数回瞬きをして、省悟の顔を見つめた。

「ありがとう。省悟。誤解して悪かった」

「気にすんな」

 省悟は立ち上がった。「じゃ、俺、まだ配達残ってっから」そして作業ズボンのポケットを探り、コインを取り出しテーブルに置いた。「支払い、頼むぜ」

 

 省悟が店を出て行って、トラックのエンジン音が聞こえた時、ケネスがテーブルにやって来て省悟の食器をトレイに乗せながら訊いた。「どや? 話はついたんか?」

「すみません、ケニーさん。パトロールになってなくて」

「ええんとちゃうか? 遼君にとっては大事な時間やってんから」ケネスは笑いながら言った。

 

 財布を取り出した遼に向かってケネスは言った。「お代はいらん」

「え? そんな、だめですよ」

「もう閉店しとる。気遣い無用や。省悟が置いてったこれは、今度やつが来た時、わいから返しとくよってにな」ケネスはテーブルのコインを取り上げ、指で弾き上げた後、それを器用にキャッチして親指を立て、ぱちんとウィンクをした。

「す、すみません」遼は頭を下げた。

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