Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~
《7.失踪》
結局会社を休んだ亜紀は、昼間はずっとベッドの上でごろごろしていた。
彼女が夕方こたつで紅茶を飲みながら本を読んでいる時、身支度をした拓海がバッグを肩に掛けながら言った。「じゃあ、ちょっと行ってくるからな」
「うん。気をつけて」
「帰りに何か、買ってきてやろうか? 食べるもん」
「いいよ、あるものを見繕って食べるよ」
「そうか」
「ゆっくりしてきて。久しぶりに会う友達なんでしょ?」
「ああ。だけど、早めに帰ってくっからな。あんたが心配だから」
亜紀は呆れたように笑った。「大丈夫だってば」
拓海が部屋を出て行った後、亜紀はしばらく本の活字を目で追っていたが、書いてある内容はほとんど頭に染みこんでいかなかった。
何気なく襟足をさばいて、スウェットの襟を直そうと、首筋に手を触れた時、亜紀は青ざめて目を見開いた。
「えっ?!」
いつも身につけていた金のネックレスがいつの間にかなくなっていた。それは二十歳の時、遼からプレゼントされたものだった。
「やだ……切れちゃったのかな」
亜紀は、上着を脱ぎ、着ているものを調べ、それから部屋の中を片っ端から捜した。しかし、その細いアクセサリーは見つからなかった。
「遼……」亜紀は涙ぐんで部屋の真ん中に座り込んだ。
しばらく放心したようにうなだれていた亜紀は、おもむろに立ち上がり、テーブルに置かれたポットからカップに紅茶を注ぎ足した。そしてそのカップを手に、キッチンに足を向けた。
冷蔵庫からパック入りの牛乳を取り出した彼女は、カップの中の冷めて濃くなってしまった紅茶に牛乳を垂らし、すぐにそれを口に運んだ。
亜紀は顔を顰めた。
「やっぱり渋い……。タクちゃんの嘘つき」
亜紀は小さく呟いて、中身をシンクに捨てた。
ベージュ色の液体が排水口に流れ落ちていくのをしばらく眺めていた亜紀は、焦ったように部屋に戻ると、その隅にある木製ラックの上に立てたフォトスタンドに手を掛けた。
彼女は、家族写真の裏に入っていた遼とのツーショット写真を恐る恐る取り出して、しばらく見つめていたが、いきなりそれを乱暴に破り、ゴミ箱に投げ入れた。
それから亜紀は、クローゼットを開き、片隅にたたんで立てていた段ボールを全部引っ張り出して、箱に組み立て始めた。
夜の9時半頃、亜紀のアパートに帰ってきた拓海は、ドアを開けるなりびっくりして大声を出した。
「なっ、ど、どうしたんだ? 亜紀ンこ!」
玄関を入ってすぐのキッチンとその周辺には、皿一枚残っていない。リビングに目をやると、積み上げられた段ボール箱が7、8個。
拓海は慌てて靴を脱ぎ、中に駆け込んだ。
「亜紀ンこ!」
「ああ、タクちゃんお帰り」ベッドに腰掛けた亜紀は寂しそうな笑顔でその従姉妹を迎えた。
「何なんだ? これは」
「実家に帰ることにしたの」
「はあ?!」
「もうこの町にいる必要もなくなったし」
「仕事は?」
「明日辞表を出すよ。もう書いた」
「って、早っ!」
「今夜寝る所、ちょっと狭いけどがまんしてね」亜紀は部屋の隅にたたんだ布団一式を広げ始めた。
「亜紀ンこ……」
「あたし、もう寝るね。明日忙しくなりそうだし」
「そ、そんな慌てて動かなくても……」
「不動産屋さんとか市役所とか、行かなきゃなんないしね。タクちゃんも明日帰るんでしょ?」
「そのつもりだけど……」
亜紀は布団を伸べる手を休めて、静かに言った。「実家に帰ったら、お見合いするつもり」
拓海はひどく切なそうな顔で、にこにこ笑う亜紀の顔をじっと見つめた。
◆
明くる日。1月14日、水曜日。
拓海が目を覚ました時、ベッドの上の布団はきちんとたたまれていた。
「えっ?!」
拓海は飛び起きた。「も、もう出かけたのか? 亜紀ンこのやつ……」
枕元に書き置きがあった。
『ごめんね、タクちゃん。冷蔵庫に缶コーヒーがあるけど、朝ご飯は近くのコンビニででも調達してね』
昼前の電車で帰る予定にしていた拓海は、亜紀がなかなか部屋に帰ってこないので、動くことができないでいた。何度も亜紀のケータイに電話やメールをしてみたが、電源が切られているようで、一度も繋がらなかった。
「何やってやがるんだ、あいつは……」
拓海は少しずつ大きくなる不安と胸騒ぎを感じ始めていた。
陽が落ちた。辺りはどんどん暗くなっていく。
拓海は心配になり、亜紀の会社に電話をした。受付の女性が対応した。電話は営業部に回された。そこの部長がしわがれた声で応えた。
『薄野さんは、今日会社を辞められました』
「あの、彼女は……」
『辞表を出されたのは、朝です』
「亜紀は、今どこに」
『そんなことは解りかねます』
ぷつっ、とあっけなく電話が切られた。
外は真っ暗になっていた。ぱらぱらと軒を打つ雨粒の音が聞こえ始めた。
拓海は居ても立ってもいられず、警察に電話した。
二丁目の交番の女性警官が対応した。
「人を探して下さい」拓海は焦ったように言った。
『あなたのお名前を』
「北原拓海です」
『お住まいは?』
「い、今従姉妹のアパートに来てるんですが、その従姉妹が朝から帰らなくて」
『その方のお名前は?』
「薄野亜紀」
相手の女性警官は一瞬絶句した。
『女性の方ですね? 年齢は?』
「25です」
『その方の出て行かれた時の服装、体型、所持品など、わかる範囲で教えて下さい』
それから拓海は思いつく限りの亜紀の情報を事細かく警官に伝えた。
『ご心配なく。責任もって動きます。北原さんへの連絡方法は?』
「今、かけている、この番号です。えっと、080……」
『大丈夫。わかります。着信履歴に残っていますから』
「よろしくお願いします、お巡りさん」
『そこの住所、おわかりですか?』
「はい、えっと、確か楓二丁目12の……」
『アパートの名前は?』
「コーポ『スカーレット』です」
『わかりました。それで十分です。あなたはそこから動かないで下さい。もし薄野さんが帰ってこられたら、この電話にご一報を。必要があれば、そのアパートに誰かよこします。何か動きがあったら、私からも逐一ご連絡します』
「は、はい」
電話を切った後、その警察官夏輝は掛かってきた拓海の電話番号を急いでメモした。それから入り口近くの無線機に手を掛けたが、元に戻し、自分のケータイを取り出してボタンを押した。
「秋月さん!」
『ああ、日向巡査。どうしたの? そんな大声を出して』心なしか遼の声は沈んでいた。
「今、どこにいらっしゃるんですか?」
『アーケードをパトロール中だけど……。なんで無線使わないの?』
「亜紀さんが行方不明です」
『な、何だって?!』遼は大声を出した。
「たった今電話が」
『ど、どうしてそんなことが? 通報があった? 誰からか』
「今、亜紀さんのアパートを訪ねていらっしゃってる従姉妹の方からの通報です」
『いとこ?』
「はい」
『僕は亜紀のアパートに急行する。事情を訊きに』
「そうして下さい。あたしも向かいます」
夏輝は通話を切って、奥にいた巡査部長に事の次第を伝え、雨合羽をロッカーから取り出し、身支度をして交番を飛び出した。
亜紀のアパートの前に夏輝が到着した時、丁度遼も息を切らしてやってきた所だった。
「秋月さん、ずぶ濡れじゃないですか」夏輝が驚いて言った。
「交番出る時は降ってなかったからね」
「みぞれ交じりですよ? 風邪ひきます」
「大丈夫。僕のことは心配しないで」
遼はアパートの階段を駆け上がった。そして亜紀の部屋のドアをノックした。
すぐに拓海が顔を出した。
遼の足がすくんだ。
短い金髪。ひょろりと背の高いその人物……。
「ああ、お巡りさん……」拓海はひどく嬉しそうに遼の顔を見つめた。
「北原さん!」遼の背後で夏輝が叫んだ。「亜紀さんからは」
「まだ何の連絡もありません」
「あ、あの、あなたは……」遼が恐る恐る口を開いた。
「北原って言います。亜紀のいとこです。先週から家の用事で彼女を訪ねてるんです」
遼は拓海の胸のふたつの膨らみをちらりと見て、安心したように小さなため息をついた。
「そうでしたか」遼は張りのある声で言った。「心当たりのある場所とかは……」
「わかりません。でも、亜紀、今日は朝から会社に辞表を出して、引っ越しのために市役所とかに行くって言ってました」
「引っ越し?」
「実家に帰る……って」拓海は遼の肩越しに彼の同僚、ポニーテールの警察官夏輝を見た後、決心したように言った。「亜紀を抱いてやって!」
「えっ?!」
「見つけたら、あの子を抱きしめてやって! お願いです。遼さん!」
背後で夏輝が叫んだ。「探しましょう、秋月さん」
遼と夏輝は表通りで二手に分かれた。
「何か手がかりがあったら、すぐに連絡を」遼は夏輝にそう言い残すと、すぐに彼女に背を向けて駆けだした。
冬の身を切るようなみぞれ交じりの雨が容赦なく遼の身体を制服ごと濡らしていた。帽子からも、襟足からも、コートの裾からも雫がしたたり落ちるほどに彼はずぶ濡れになっていた。
街の中を走り回り、彼は亜紀と一緒に訪れたことのある店を、映画館を、ジュエリーショップを、喫茶店を訪ねた。びしょ濡れになったその警官を、街の人びとは一様に怪訝な顔で見やった。アーケードを走り抜ける遼の姿を、道行く人は何か事件でもあったのか、と不安そうに目で追った。
雨に打たれ、亜紀を探して、遼は無我夢中で町中を走り回った。
「亜紀、亜紀……」
知らず知らずのうちに彼は、その愛しい女性の名前を呟き続けていた。
交差点の信号機の前で、遼は胸を押さえて立ち止まった。
交差点を右折してくる車のヘッドライトがアスファルトの水たまりにぎらぎらと反射して、思わず遼は目をつぶった。その車が水しぶきをあげながら通り過ぎた時、彼は瞼を開いた。
遼は大きく荒い呼吸を落ち着かせながら、ふと腕時計に目をやった。曇った文字盤を濡れた指で拭った彼は、はっと思い立ち、顔を上げた。
――時計の針は8時を指している。
「も、もしかして……」
信号が変わると、遼は『シンチョコ』の方角に向かって狂ったように駆けだした。