白いキャンバス

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「あれえ?!」ポストに届いた年賀状の束を手に、一枚ずつめくりながら差出人を確認していた翔弥は、いきなり叫んで手を止めた。「懐かしい! 圭子さんからだ!」

 

 

 安達圭子。中学まで同じ学校だったが、卒業と共に進路は別れ、その後隣の県に引っ越した、というところまでで彼女の情報は途絶えていた。しかし、翔弥にとって彼女は、おそらく死ぬまで記憶に残り続ける女性の一人だった。

 

 

「へえ、どうして今になって」翔弥ははがきを裏返した。色彩豊かな花束の絵に年賀のあいさつが金色の筆ペンで書かれている。「相変わらずすごいな」

 

 

 翔弥は小学生の頃、クラス全員が書いて壁に貼り出されていた、将来の夢の短冊を思い出していた。自分が何を書いたかはとうに忘れてしまっていたが、安達圭子の書いた「真っ白なキャンバスに描いてみたい」という言葉を忘れてはいなかった。当時キャンバスと言う言葉さえ、よく理解していなかった翔弥は、その後彼女が絵の勉強をし始めたことを知って、なるほどと思ったものだ。

 

 

 正月にしては珍しく穏やかに晴れて、昼前だというのに、庭にいても柔らかな温かさを感じるほどの日和だった。「いい天気だな……」翔弥は空を見上げて眩しそうに目を細めた。

 

 

「和子は?」夕食の席で、翔弥は妻に問いかけた。

「高校の友だちと食べて帰るんだって」箸を止めることなく、彼女は言った。

「そうか」

 夫婦の会話はそれ以上展開していかなかった。騒々しいバラエティ番組の声に、二人の食器の触れる音までもがかき消された。

 

 翔弥は自分の狭い部屋でパジャマに着替え、何気なくケータイのディスプレイを見た。着信有りのサインがあった。番号を確かめてみたが、アドレスに登録している人物からのものではなく、ただの数字の行列だった。こちらからかけ直す必要を感じず、翔弥はそのままケータイを閉じてベッドの毛布をめくった。

 その時、ケータイの着信音が鳴り始めた。さっきの着信有りの番号が点滅していた。翔弥は受話器ボタンを押してケータイを耳に押し当てた。

『狩野くん……ですか?』

 その声はとても幼く聞こえた。まるで中学生の声のようだった。

「は、はい。そうですけど……」

『私です。圭子。安達圭子です』

 翔弥はびっくりして思わずベッド上に正座をした。「ええっ! 圭子さん?」

『お久しぶり。元気だった?』

「久しぶり。びっくりした」

『ふふ』

 

「年賀状、届いたよ。貴女からもらったのって、小学生の頃以来じゃないかな。どうしたの? 突然」

『狩野くんの声が聞きたくなっちゃって』電話の向こうで圭子は笑いを堪えているような声で言った。『って言ったら信じる?』

「信じたいよ」翔弥は笑った。「でも、よくこの番号がわかったね」

『友だちに訊いたの』

「そう」

『ほんとに久しぶり。ねえ、狩野くん、近いうちに会えないかな』

「えっ?!」

『電話で貴男の声を聞いたら、本物の貴男に会いたくなっちゃった。これはまじめな話』

「い、いいけど……、」

『明日、とか、だめかな』

「え? 明日? ずいぶん急な……」

『ごめん、急だよね。でも私、しばらくしたらちょっと忙しくなって、時間がとれなくなりそうなの』

「た、たぶん大丈夫だと、思うけど……」翔弥は少し考えて、決心したように言った。「いいよ。明日。どこかで待ち合わせしようか」

『ほんとに? 嬉しい。じゃあ、明日の夕方6時、駅の前の掲示板のところで待ってる』

「わかった」

『ごめんね。お正月早々、狩野くんもいろいろ用事、あるんでしょ?』

「あれば退屈しないんだけどね」翔弥は笑った。電話口で圭子も笑った。

 

 

 明くる日、朝の食卓を家族と共に囲んでいた翔弥は、少し躊躇いがちに口を開いた。

「今日、急に同窓会が入っちゃってさ」

「ふうん」妻は翔弥に目も向けずに言った。

「ゆ、夕方からなんだけど。大丈夫かな」

「別に何もないわよ。和子も今日から部活でしょ?」

 みかんを剥きながらその高校生の娘は言った。「そうなんだよー。まったくこんな正月から……」

「帰り、遅いのか?」翔弥は娘に訊いた。

「部活の後、新年会なんだって。食事して、カラオケ行って……。たぶん遅くなる」

「そうか……」

 

 

 厚手のジャケットを羽織って、翔弥は駅までの道を歩いた。「陽が傾くと、さすがに寒いな」彼は独り言を言って襟を立てた。

 小学校の近くにある公園のそばを通り過ぎる時、翔弥はふと立ち止まった。公園では小学生ぐらいの二人の姉妹がブランコをこいでいた。

「もう暗くなるのに……」一言呟いて、彼はまた歩き始めた。

 

 駅が見えてきた。翔弥は、ここしばらく感じていなかった胸の高ぶりを覚えていた。

 駅舎に入って、圭子と約束した掲示板辺りに目をやった。黒縁の眼鏡を掛けた高校生が一人、スマホをいじりながら立っていた。翔弥は腕時計を見た。「5時45分……」

 その時、翔弥は肩を軽くぽんと叩かれて、振り向いた。黒い瞳の女性が立っていた。少女のようにあどけない笑顔は、彼の心の奥にしまわれていたものとすぐに重なった。

「あ、け、圭子さん……」

「狩野くん。早かったね」

 

 

 小さなテーブルをはさんで、圭子と翔弥は向かい合っていた。

「ほんとにごめんなさい。急に呼び出したりして」圭子は申し訳なさそうにそう言った。

「平気だよ」翔弥はコーヒーカップを手に取った。「でもさ、貴女はあの頃から全然変わってないね」

「あの頃って?」

「中学の時」

「嘘だー。だって、私、もう40だよ。いいおばさんじゃない」

「いや、ほんとだって。っていうか、僕の中の貴女のイメージは、ほとんど変わってない、っていうか……」

 

「狩野くんが、私に告白した時のこと、まだ覚えてるよ」圭子が少し小さな声で言った。

「僕は一生忘れない」翔弥は笑いながらコーヒーをすすった。

「私があの時、貴男の気持ちを受け入れていたら、人生が変わっていたかもね」

「大げさだよ」

「落ち込んだでしょ? あの時」

「うん。すっごく悲しかった。でも仕方ないよ。貴女にとって、僕がつき合うに値しない男だったってことだからね」

「ごめんね。悲しい思いをさせちゃって」

「思春期の甘酸っぱい思い出ってとこだよ。今の貴女が謝ることじゃない」

「でも、」圭子が目を上げて翔弥を見つめた。「もし、貴男が私といっしょになってたら、やっぱり私、貴男に悲しい思いをさせちゃってた。きっと……」

「え? どういうこと?」

 

 圭子は答えず、じっと翔弥の目を見つめた。彼女の瞳にきらめくものが宿っていた。翔弥の胸が疼き出した。

 

 圭子はうつむき、白く細い指で目元を拭った後、小さな声で言った。「何でもない。ごめんね、変なこと言っちゃって」

 翔弥は焦ったように再びコーヒーカップを手に取って、底に残っていたものを飲み干した。冷たい苦さが舌を刺激した。

「狩野くん、この後、用事ある?」

「え?」

「お酒、飲もうよ」

「え? いいの? 僕は平気だけど、圭子さんは大丈夫? 家の人が心配したりしない?」

 圭子は笑った。「40にもなったおばさんを心配してくれる家族なんて、いないよ」

 

 

 カウンターに並んで座った二人は、肩同士が触れ合いそうな程、身体を寄せ合っていた。

「僕はね、圭子さん」

「はい」

「たぶん、生まれて初めて本気で女性を好きになったのが貴女だった」

「私、知ってるよ。狩野くん、実は小学校の五年生ぐらいから、私のこと気にしてたでしょ」

「ばれてた?」

「狩野くんって、不器用だったからね。言葉や態度ですぐにわかってた」

「背も低くて、運動も苦手で、丸坊主で冴えない自分のことなんか棚に上げちゃってさ、本当に厚かましいよね」

「なんで? 人を好きになるのに、自分の容貌なんか気にしちゃだめでしょ」

「それに、好きな人に告白する勇気も持てないまま中学校に上がって、そのまま二年生まで悶々としてたからね」

「私、ヒドイことしちゃったね。今になって思えば、狩野くんの気持ちをずいぶん弄んでたような気がする」

「そんなことないよ。僕が勝手に悶々としてただけだから。貴女が気にすることじゃない」

「三年も、だよ? 私を三年も想い続けてくれてたんだよ? 狩野くんって、すごいよ。なのに、私、あっさりごめんなさい、って言っちゃったんだもの……」

 

 翔弥は目の前にグラスに目をやった。「しかたないよ……」

 

「私、正直言ってあの時は、狩野くんとつき合う気はなかったのかも知れない。でも、少なくとも貴男のことを嫌ってはいなかった」

「え? 本当に? だって、千恵のやつ、僕に『圭子は狩野くんのことが、嫌いなんだよ。』って言ってきたんだよ」

「そうなの? 千恵、そんなこと言ったの?」

「そうさ。だから僕はその日から約一週間、ほぼ腑抜け状態だったね。あまりのショックに」翔弥は水割りのグラスを手に取って、中の氷をカラカラと鳴らした。

 

「誤解が解けて良かった。私、あの時も、その後もずっと、貴男を嫌いだって思ったことなんかないよ。逆に尊敬してた」

「え? 尊敬?」

「貴男の絵、たしか読書感想画だったかな、あの廊下に貼り出されてた貴男の絵を見たとたん、私やられた、って思ったもん」

「読書感想画、って言ったら……、ああ、『星の王子様』の絵だね。覚えてる覚えてる」

「そう、あの絵。砂漠にたたずんで夜空を見上げてる少年の絵。画面の片隅に立っているその王子様は、こっちに背中を向けてて、表情が見えない。それが見る者の想像力を掻き立てる。そうか、絵って、思いを全部描いちゃだめなんだ、ってその時強烈に思ったんだよ」

「そうなの? 僕は全然意識してなかったよ。そんな深いところまでさ」

「意識してなければ無意識に、ってことだよね。その後も、貴男が描く絵は、シンプルで、主張とか思いとかがあまり表現されていなくて、とってももどかしい感じがしてたけど、ずっと見てると、その背中や、壁や、暗闇で見えない、向こうにあるものが見えてくる。その思いが少しずつ心に染みこんでいく、そんな絵だったもの」

 

「僕は、」翔弥は静かにグラスをコースターに戻して言った。「今でも自分の想いを、相手に伝えるのがうまくない。自分でももどかしいと思う」

「でも、伝えたい人には、ちゃんと伝わってるよ」

「そう上手くはいかないよ」翔弥はうつむいた。

 

「少なくとも、私には伝わってた」圭子がしばらくしてぽつりと言った。「でも、応えられなかった、あの時の私」

「圭子さん……」

 

「私ね、まだ結婚してないんだ」圭子は両手を広げて見せた。指には何もついていなかった。控えめな薄いピンク色のマニキュアが施された爪は異様に細く、透き通るように白い指は、まっすぐに伸びていた。翔弥は思わず彼女の右手を両手で包みこんだ。その手は氷のように冷たかった。

「大丈夫」圭子は笑った。「私、貴男の家庭を崩壊させるつもりはないから」

「僕も、そんな勇気はない。今でもね」

「私、もちろん、貴男にとっても会いたくて、電話した。でも、貴男が私に夢中になることもないってことはわかってる」

「この歳になると、ますます臆病になっちゃって。おまけにずるがしこくなっちゃって、こうして素敵な女性といっしょにいられたら、いろんなことを想像するんだ」

「いろんなことって?」

「僕はもう長いこと妻とは寝ていない」

「それって、セックスレスってこと?」

「そ、そうだね。僕は時々そんな気になるけど、彼女はもう僕を受け入れるつもりはないらしい」

「つまり、女性を抱きたくなっても、奥さんが応えてくれない。だから、他にチャンスがあったら走っちゃうかも、ってこと?」

「そのくせ風俗に行く勇気もお金もない。まったく臆病者だよ。僕って」

 

「今、この時はチャンス。そう思ってるってこと? 狩野くん」

 

「……」

「黙っちゃうんだ……」圭子は少し寂しそうに言った。

「圭子さんが、」翔弥はゆっくりと口を開いた。「僕と今夜寝てくれる、ってことになればいいな、って思う。でも、それは不倫だし、圭子さんに対しても申し訳ないし」

「ということは、ここで、」圭子が翔弥の手を取って優しく言った。「私が、抱いて、って言わなきゃそうならないよね、きっと」

 

 圭子は右手で翔弥の手を握ったまま、左手でグラスを持ち上げて一口水割りを口に入れた。

「変わってない。狩野くん。臆病で、言うこともたどたどしくて、もどかしいしいらいらする。でも、何を考えてるのか、手に取るようにわかる」圭子は、いきなり翔弥の手首を掴み、左手の薬指にはめられていた銀色の指輪を抜き取った。

「あ!」翔弥は慌てた。

 圭子はその指輪を上下逆さにして、再び翔弥の指にはめ直した。「大丈夫。狩野くん。不倫じゃないから」

「圭子さん……」

「今夜だけ。一晩だけ。お酒の力を借りて……。大人になった今なら、その手が使えるでしょ?」