Chocolate Time 外伝 第3集 第7話
そのチョコを食べ終わる頃には
第3章「そのチョコを食べ終わる頃には」 4
「本当に危ないところだったわ。人生と家庭を崩壊させるとこだった」
利恵は自嘲気味にそう言うと、遼に顔を向けて眉尻を下げた。
「あの……」遼は言いにくそうに言葉を切った。
「ん?」
「その最後の行為で、先生、妊娠したりしなかったんですか?」
「幸いね。時期的には完全な安全日というわけじゃなかったんだけど、もう、そんなことより、なんか強烈にあの人の身体と心をただ求めてた気がする」
「そうなんですね……あ、」
「なに? どうしたの?」
「あの、僕が先生を抱かせてもらった高一の時、」
「うん」
「僕もずっと避妊具を使いませんでしたね。申し訳ないことをしました」
利恵は一瞬ぴくり、と僅かに眉を動かした。
「今さらなに言ってるの」利恵は笑った。「大丈夫よ。心配しないで」
「でも二週間の間ほぼ毎日のように、その、先生の中にそのまま……」
遼は赤くなって早口で言った。
「そうだったわね……」
「知識が貧困だったとは言え、もっと熟慮するべきでした。本当にすみません」
遼は頭を下げた。
「もし、」利恵は一度言葉を切り、テーブルに視線を落として続けた。「私が妊娠してたとしたら、秋月くん、どう思ってた?」
遼は慌てたように言った。「そりゃあ、もうパニックになってたでしょうね」
利恵は顔を上げた。
「パニック?」
「高一の時にそんな衝撃的な事実を突きつけられても、僕にはどうすることもできないじゃないですか」
「そうね。確かに。じゃあ高校生じゃなくて、今だったら?」
「え? 今?」
「そう、今。私、実はあの時の秋月くんとのsexで妊娠しちゃってたの、って聞かされたら?」
「どうしてそんな大事なこと教えてくれなかったんですか、ってうろたえるでしょうね」
「うろたえるだけ?」
「ショックも受けたと思います。きっと先生は妊娠したことがわかれば、病院に行って人工中絶手術を受けたでしょうし。間接的にではあっても僕のせいで貴女の身体にそうやって傷を作った、ってことですから」
利恵は眉を動かした。
「中絶なんかしないで秋月くんとの子供を産んでたかもよ?」
遼は呆れた様に言った。
「そんなことできないでしょ。ご主人の剛さんがいるんだから。それに、その時はすでに遙生くんが先生のお腹に宿ってたわけでしょ?」
――そうか、遼は実習の時にはもう私のお腹に剛との子である遙生がいたと思い込んでいるのか、と利恵は改めて気づいた。
「僕はあれから、時々ふと、あの行為でもし先生を妊娠させていたら、って不安になることがありました」
「そうなんだね……」
「でも、あの翌年に遙生くんが生まれたってことを知ってほっとしました。僕があの時なりふり構わず、そのまま先生を何度も抱いたとしても、妊娠することはなかったわけですしね」
遼は恥ずかしげに笑った。
利恵は遼の目を潤んだ瞳で見つめ、静かに言った。
「そうね。あの時は――もう宿ってたんだもんね。遙生が私のお腹に……」
何も知らない遼は、両手で顎を支えてにこにこ笑っている。
利恵はふうとため息をついた。
「変なこと訊いてごめんね、秋月くん」
「いえ。でも、沖田さんとの最後の夜は切なくて悲しかったでしょう?」
「そうね……」
「彼が言った通り『天の計らい』だったのかも知れませんね」
利恵は首を振った。
「実はあれ、そんな偶然じゃなくて、当時の校長先生の遠謀深慮のお陰だったの」
「え? 校長先生?」
▼
三月下旬の修了式をもって、長く充実した一年が終わった。
春休みに入ると、転勤が決まった沖田は今までの自分の持ち物を整理したり、段ボールに詰めたり、一日年次有給休暇を取って新年度から新しく勤める学校を訪問したりと慌ただしい日々を送り始めた。
私は最後の夜に沖田と約束した通り、元通り何もなかったかのように振る舞い、お互いの気持ちを揺さぶるような行動をとらないよう努力した。それでも彼の姿を見る度、胸が締め付けられるように苦しくなって、知らず知らずのうちに涙ぐんでいた。だから私は学校では努めて彼の姿を見ないように行動せざるを得なかった。
退任式を明くる日に控え、主任沖田の机の上にはもう何も残っていなかった。私はその机を新しい台ふきで拭き終わり、一番上の引き出しをそっと開けてみた。そこにはもう何も入っていなかった。その時、職員室に校長が姿を見せ、私の横に立った。
「篠原先生、ちょっと校長室まで」
校長室に呼ばれた私は、ドアを入った所で立ちすくんでいたが、校長は穏やかに微笑みながら私を来客用のソファに座らせた。冷ややかな空気でその部屋は満たされていた。遠くから野球部の生徒たちのかけ声やノックの音が聞こえた。
「すまないね、篠原先生、突然呼び出して」
「いえ……」
私は緊張したように向かいに座った校長に目を向けた。
「私はこの学校を最後に退職するわけだが、去り行く前に先生に確かめておかなければならないことがある」
「はい」
「ここだけの話だが、」
そう言って校長は二つ折りにされた小さなメモ用紙を無言で私に差し出した。
私はそれを受け取り、開いて見るなり絶句して青ざめた。
「それは君が書いたメモに間違いないね?」
私は言葉が出なかった。
「一月、三学期が始まる直前に、私は沖田先生とここで学年末の学校経営について語り合った。話が終わって彼がここを出て行った後、座っていたソファの下にそのメモが落ちていたんだよ」
私の全身から汗が噴き出していた。そして唇を震わせながらうつむいていた。
「心配しなくてもいい。このことは沖田先生を含めて誰にも言ってない」
「も、申し訳ありません」
私はやっとの思いで絞り出すような声で言った。
「私の方こそ、スパイ行為まがいのことをしてしまったことを後悔している。そのメモは誰が書いたものかを調査したからね」
「そう……でしたか……」
「目星を付けたのは彼が主任を務める二年生のスタッフ。字のカタチから女性であることは間違いなかった。あとは出席簿や学級日誌に書かれた先生たちの文字と照合」
「本当に申し訳ありません」
私はいたたまれなくなって思わず立ち上がり、深々と頭を下げた。
「今も関係は続いているのかな?」
「いえ……もう、解消しました」
校長はうつむいたままの私を再びソファに座らせふう、とため息をついた。
「そうか。それは何より。そのメモで彼と約束したんだろうが、そう思うように簡単にはいかなかっただろう?」
私はアリバイが突き崩された罪人のように青ざめて、観念したように小さく頷いた。
「何度も会って、何度もそういう行為を続けていれば、お互い離れ難くなるものだ。こんな私でも若い頃、同僚の女性と危うくそういう状況に陥ろうとしたことがある」
私は顔を上げた。
「たぶん、見えていないだけで、結構多くの者がそういう秘密の関係になっているのかも知れないね。たとえ教員であっても」校長は切なそうに笑った。「発覚しないように努力し、最終的にきちんと関係を精算した君たちの常識的な行動は評価に値する。だから退職する私だけがこの事実を心に秘めたまま去る。そしていずれ忘れる。それでいいね?」
「はい……」
「不祥事をおおっぴらにしたくない、という気持ちは正直ある。このまま知らないで済むことなら、その方が良かった。しかしこの事実を知ってしまった以上、来年度も君と沖田先生を一緒の学年担当にするのはさすがにまずいと思ったんだ」
「そうですね……無理もありません」
「まあ、君たちが出した答えだから、今さら第三者があれこれ口を挟むことはお節介なことだが、君たち自身、そして二人のご家族にとってもここですっぱり切った方がいいと私も思う」
私はうつむいていた。
校長は申し訳なさそうに言った。
「私のやったことは間違いだったかな」
「いえ」私は目を上げた。「ありがとうございます。校長先生のお陰で私も彼も目を覚ますことができたと思っています」
校長は小さく頷いた。
「沖田先生が教頭試験に合格していたことは幸いだった。今の二年生を持ち上がれないのは無念だろうが……」
「私が全部悪いんです。あの人を縛りつけてしまっていた私が……」
「お互い様だよ。君がそう思い詰める必要はない」
貸しなさい、と言って、メモを私の手から取り戻した校長は、立ち上がり、部屋の隅に置かれていたシュレッダーにその紙を送り込んだ。耳障りなモーター音がして、私と沖田の二ヶ月半に亘る道を外れた行いの証拠は消えた。
私は立ち上がり、肩を落として小さな声で言った。「ご迷惑をお掛けしました」
「ご家族を大切にして下さい」
「はい。ありがとうございます。本当に申し訳ありませんでした」
私は深々と頭を下げた後校長室を出て、ドアを閉め、背筋を伸ばした。そして長いため息をつくと職員室への階段を上った。
▽
「そうでしたか」
遼は話が終わって、何かに解き放たれたような表情の利恵を見て少し寂しげに微笑んだ。
「こんなプライベートな話を聞いてくれてありがとう、秋月くん。自分だけの胸に仕舞っておくのって、ほんと苦しいもんだね」
利恵は眉尻を下げて首筋を人差し指で掻いた。
「僕でもお役に立てましたか?」
「お陰さまで」
利恵は寂しそうに笑った。
「剛さんは今もご存じないわけですよね?」
利恵は頷いた。「いずれは話すかも知れない。でも、今はもう少し時間が欲しいの」
「もう10年も経つわけでしょ? 今の剛さんならわかってくれると思いますよ。話してみられたらどうですか? 先生も胸のつかえが苦しいでしょう」
「それはそうだけど……でも、彼もそういうことは秘密にしろって言ってたし……」
遼は優しい目を利恵に向けた。
「剛さんとの約束は『気づかれないように』ってことだったんでしょ? 先生はそれをちゃんと守り抜いたじゃないですか。先生が沖田さんとの関係を持っていた時、剛さんはそれに気づいていなかったわけでしょう?」
利恵は申し訳なさそうな顔で頷いた。
「だったら問題ないと思います。今、先生が過去の後ろめたさをずっと心に留めて苦しむより、一番近い剛さんに打ち明けて、先生自身の心の中の蟠(わだかま)りを取り除いてすっきりした方が、貴女たちご夫婦にとっても最善のことだと思います」
「そうなのかな……」
遼は優しく微笑んだ。
「時間が味方をしてくれてますよ、先生」
利恵は何も言わず遼を見つめ返した。
「よくドラマなんかであるじゃないですか、昔好きだった人と再会して、再び燃え上がる、なんてこと。でも現実はそうはならないことを僕は知ってます」
利恵は小首を傾げ、瞬きをした。
「もしかして先生は、かつて心を熱くした沖田先生と今再会したら、自分の気持ちがかき乱されるんじゃないか、って思ってらっしゃるんじゃないですか?」
利恵ははっとして遼の目を見つめた。遼は穏やかな口調で続けた。
「僕が先生とお別れした時の気持ちが、この夏に再会した時に蘇ったかというと、それは不思議とありませんでした」
「そう……なの?」
「先生も同じように思われたかどうかわかりませんが、僕たちが再会した時、あの時とは違う気持ちになっていることに気づきました」
「違う……気持ち?」
遼は一つ頷いた。「ただ単に恋愛感情がなくなった、ということじゃなくて、この人との過去が今の新しい自分に繋がっているんだ、って。今の自分がこうして喜んだり懐かしんだりしていることの糧になっているんだって。だからその時先生に対して抱いたはの恋愛感情ではなくどちらかと言うと『感謝する気持ち』でした。」
「……そうなのね」
遼はテーブルに置かれたアロマディフューザーに目を向けた。
「ローズマリーの香りを嗅いでも、今は気分がリラックスする効果の方が大きいんです。もちろんあの時の先生との時間を思い出しもしますけど、それはもうアルバムの中の写真のようにピンで留められた動きのない思い出になってしまってる。そういう意味で先生は僕の恩人です」
「恩人?」
「過去のいろんな出来事が今の僕を形作っているわけですけど、その中でも先生との出会いとあの三週間の濃い時間は、例えば剣道を始めたとか妻の亜紀と出会ったとかいうイベントと並ぶ僕にとって今の人生を送るためになくてはならない重要な出来事の一つなんです。だから恩人」
遼はにっこり笑った。
「先生がそのうちご主人の剛さんに、今ここで僕に話されたことを打ち明けることができたら、たとえ沖田先生と再会しても、もう昔のような気持ちを抱くことはない、と僕は思います」
「秋月くん……」
「先生はすでに10年前とは違う新しい時間を生きてるんですよ」
利恵は目に滲んでいた涙を指で拭って恥ずかしげに微笑んだ。
「ありがとう、秋月くん。ほんとにありがとう……」
「ガラにもない気障なことを口走ってしまいましたね」
遼は赤面して頭を掻いた。
あと一押し。利恵はずっとそう思っていた。沖田との熱く甘い日々のことはすでに精算できている。ただ、どちらかの気持ちが冷めてしまって別れたわけでもなく、お互いへの想いが大きく膨らみ始めた時に突然に訪れた終焉だったために、どうしても忘れられていない気持ちがほんの僅かだが残っている気がしていた。もちろん今は剛への思いが一番強く、熱い。彼のそのがむしゃらとも思えるほどのリハビリのお陰で、大学時代のようにまた肌を重ね合い、繋がり合って、二人で思い切り上り詰めることができる日も近い。だから余計に利恵自身、その僅かに残った沖田との不義の残滓を、早く消し去りたいと思っていた。
しかし、この心の中に、もし、この先偶然に沖田と再会した時、自分の気持ちがあの時のように動き出すのではないかという不安がもやもやと広がることがあったのも事実だった。その気持ちを完全に忘れることができれば全てを愛する夫剛にも打ち明けることができるのに、と思い、10年もの間ずっとぐずぐず戸惑っていた。だが、今、目の前にいる警察官に話を聞いてもらい、背中を押してもらったお陰で、時間と共に鮮やかだったその輪郭をぼやけさせ、青い空に溶けて消えていく飛行機雲のように、僅かに残った沖田への想いを自分の心の中から消し去ることができるような気がしてきた。
◆
年の瀬が迫り、すずかけ町のいろんな店舗ではクリスマスのイルミネーションから新年を迎える準備へとシフトし始めていた。気の早い紳士服の店の前にはすでに門松が立てられている。
「こんばんは」
夜の八時過ぎ、警察官の制服姿の遼が篠原家を訪ねた。
「あれ、秋月コーチ」玄関のドアを開けた遙生が叫んだ。
すぐに利恵が顔を出した。「まあ、秋月くん、どうしたの? いきなり」
遼はバッグをごそごそと漁って小ぶりの箱を取り出した。
「これ、利恵先生にプレゼントです」
「プレゼント? 何、なに?」遙生が色めき立った。
「先生に、って言っただろ。それに遙生にはまだ早いよ」
「母さん、何? それ」
「開けていい?」利恵は頬を赤くした。
遼はにこにこ笑いながらどうぞ、と言った。
「ブランデー・チョコ……」
利恵は目を上げた。遼はその目を見つめ返した。
「そのチョコを食べ終わる頃には……」
そして微笑んだ。
利恵は少し涙ぐんで微笑みを返し、小さな声でありがとうと言った。
「なんだ」遙生が至極残念そうに言った。
「遙生も食べられないことはないでしょ? チョコなんだし」
利恵が言うと、遙生はつまらなそうに口を尖らせた。
「そのチョコ、苦手。カラいから」
「遙生はまだまだお子ちゃまだからな」
遼が言って遙生の頭をぽんぽんと軽く叩いた。そうしてもう一度バッグを漁り、二つの箱を取り出した。
「遙生にもちゃんと持ってきたよ、ほい」
遼は残念そうな顔をしていた目の前の少年にその一つを手渡した。
「やった! シンチョコのアソートだ! これなら大丈夫。ありがとう、秋月コーチ」
遙生は一転屈託のない笑顔を弾けさせた。
「こっちは剛さんに」
遼はアーモンド入りチョコレートを利恵に渡した。
「僕からのお歳暮、ってことで」
遼は頭を掻いた。
「まあ、みんなに。どうもありがとう、秋月くん。ちょっと上がって行かない?」
「いえ、パトロール中なので」
「そう。じゃあまた今度ゆっくり食事でも」
「そうですね。うちと海晴姉も一緒に忘年会でもやりますか」
「いいわね。じゃあうちで計画しとくね」
「それはありがたい。よろしくお願いします」
「やった! 秋月コーチと忘年会だ!」遙生ははしゃいだ。
遼はにこにこ笑いながら遙生の頭を乱暴に撫でた。
「では、僕はこれで。失礼します」
遼は背筋を伸ばして敬礼をし、通りを歩き去って行った。
「秋月コーチ、いい人だよね。明るくて優しくてかっこいいし」
遙生が言った。
「母さんもそう思うわ」
利恵は遙生をリビングに追いやり、遼にもらったブランデー・チョコの箱を見つめた。
「このチョコを食べ終わる頃には……か。ほんとに優しいいい人」
そう独り言を言った利恵は家の奥に向かって大声で言った。「ちゃんと手を洗いなさいよ、遙生、もう夕飯だからね」
「わかってるー」
すぐに元気な遙生の声が返ってきた。
「秋月くんの声にそっくりね」
利恵はくすくす笑いながら家族の待つリビングに足を向けた。
――終わり
2018,10,6 Simpson