二《来客》
「上がれよ、智志」
「いつも邪魔してすまん。嶺士」
智志は玄関で靴を脱ぎながら言った。
外では蝉がけたたましく鳴いている。ここのところ夕立もなく、日差しばかりが容赦なく町中を加熱する日々が続いていた。智志を招き入れて玄関ドアを開けた時に入り込んできたむっとするような熱気が、まだ俺の頬のあたりにまつわりついている。
「なんか元気ないな、夏バテか?」
俺が言うと、智志は提げていた細長い紙袋を左手に持ち替えながら言った。
「そう見えるか? 別に普通通りだ。どこも悪くない」
「そうか。ならいい」
智志は口をきゅっと結び、俺の目を切なそうに見つめていた。しばらく会えなくなる、数日前そう電話で伝えてきた智志の沈んだ声を俺は思い出していた。
俺の横に立った亜弓が言った。
「上がって智志君。暑かったでしょ」
意表を突かれたように少し動揺して亜弓に目を向け直し、智志は笑った。
「ああ、ありがとう亜弓ちゃん」
妻の亜弓は微笑みながら智志が差し出した手土産のワインを受け取り、キッチンに入っていった。
俺たちは三人で飲みながら、昔話で盛り上がった。
「来る度に言わせてもらうが、おまえ、結婚はまだなのか? いい人はいないのか?」俺が切り出した。
「そううまくいくもんか」
智志は拗ねたようにテーブルの枝豆に手を伸ばした。
「好きな人とか、いないのか?」
智志は動揺したように瞳を揺らめかせた。
「い、いるにはいるけど……」
俺の横にいた亜弓がちらりと目を上げて智志を見た。
「コクればいいじゃないか、その子に」
「なかなか思い切れなかったが、今日は……いや」智志は言葉を濁してグラスのビールを一口飲んだ。
「そういうことは早い方がいい。ふられるにしてもな」
「他人事だと思いやがって……」智志は俺を上目遣いに睨んだ。
俺は笑ってグラスに残ったビールを飲み干した。「そう言えば」
俺がテーブルに置いたグラスに亜弓がビールを注ぎ足した。
「おまえ、しばらく会えなくなるなんてこと、言ってたが、あれ、どういうことなんだ?」
「アメリカに赴任することになったんだよ」
「なんだと?」
「急な話ね」
「で、いつ発つ?」
「明後日」
「すぐじゃないか。準備は? こんな直前に俺んちで飲んでていいのかよ」
「発つ前におまえにだけは会っておきたかったんだ」智志は俺をじっと見つめた。「言いたいことが山ほどある。わかってもらいたいことも……」
その真剣極まりない表情に俺は戸惑いながらも笑顔を作って応えた。
「いいぜ、今夜はつき合うよ。何でも話せ」
智志は寂しげに笑った。「ありがとう」
「智志君から頂いたワイン、開けようよ」
亜弓が言って立ち上がった。
「安物だけど」智志は彼女を見上げた。
「飲むのはワインばっかり? 智志君」
「普段はワインだね」
「焼酎やハイボールなんかの蒸留酒系は苦手だよな、おまえ」
俺が言うと智志は頷いた。
「そうなんだ。ああいうのは飲むと確実に悪酔いしちまう」
亜弓が持ってきたボトルを俺が受け取り、すぐにオープナーで開けた。そしてテーブルに置かれた三つのグラスに注ぎ入れた。
「カリフォルニアのピノノワールじゃないか。軽めなのが好きなんだな、智志。前に持ってきてくれたのもチリのメルローだったし」
「食べるのが主体だからな。ワインは料理の引き立て役ってところだ」
俺は軽く頷いて、一つのグラスを智志に手渡した。
「嶺士も好きだよな、ワイン」
智志は妙に嬉しそうに言った。
「ああ、亜弓が好きで俺も感化された。小ぶりだがセラーもこないだ買った」
「へえ! 本格的だな」
「なあに、おもちゃみたいなもんだよ。フルボトル5本で満杯だ」
智志は笑った。
「喰えよ、おまえの好物だろ? いつもなら真っ先に平らげるくせに。」
テーブルの真ん中に置かれた大きな皿にはきつね色の海老フライがてんこ盛りになっていた。今日は智志はまだそれに箸を伸ばしていない。
「ああ、いつも済まないね、亜弓ちゃん、面倒なことさせちゃって」
「平気平気。あたしも嶺士も海老フライ好きだから」
「亜弓ちゃんは」智志はその揚げ物を一尾取り皿に移した後、ワインを一口だけ飲んでグラスをテーブルに置き、亜弓に目を向けた。「あの頃から嶺士一筋だったのかな?」
亜弓はちらりと俺の方を見た。俺は軽く肩をすくめた。
「何事もなく、つつがなく結婚できてよかったな、嶺士」
智志が言って、手のグラスを持ち上げた。
「おまえが結婚式に来なかったのが唯一の心残りだ」
俺は自分のワイングラスを智志の手のグラスと触れ合わせた。智志は一気に自分のワインを飲み干した。
気の置けない親友と飲んでいつものように気分が良くなった俺は、智志が持ってきたワインのボトルが空になる頃にはさすがに眠くなってきた。智志は目立って口数が減り、時折俺をじっと見つめた。
「眠くない? 智志君」亜弓が言った。
「亜弓ちゃんは平気なの?」
「あんまり飲んでないからね」
亜弓はウィンクをして、グラスに残ったワインを飲み干した。
俺は壁の時計を見上げた。11時を少し過ぎていた。
「もう休むか? 智志」
「そうだな」
「隣の客間に布団準備してるから」
俺はそう言って立ち上がった。
「な、なあ嶺士」智志が緊張したような面持ちで俺を呼び止めた。
「ん? どうした?」
「客間で飲み直さないか?」
俺は智志と飲むのもしばらくできなくなることを思い、睡魔を振り切ってその誘いに乗ることにした。妻の亜弓がいない所で、俺と二人きりで気兼ねなく腹を割って話したいこともいろいろあるんだろうな、と俺は思った。
「ああ、いいよ」
俺はトレイに二つのグラスと乾き物のさきイカやあられの入った袋を載せ、智志に手渡した。そしてキッチンで片付けを始めた亜弓に目配せをして、冷蔵庫の横にあるかわいらしい黒い箱形のセラーから新しいワインを一本取り出し、智志の待つ客間に入った。
智志はボストンにある工場の管理を任される立場でアメリカへ渡ると言うことだった。ボストンは海に近いので、智志の好きな海老どころかでかいロブスターなんかも食えるな、と俺は陽気に言った。
しばらくするとさすがに眠気に勝てる気がしなくなり、俺はグラスの一杯目のワインを半分も飲まずに、畳の上に横になった。そしてすぐに眠りに落ちていった。
亜弓に身体を揺さぶられて目を覚ました時、智志は少し離れた所で一人で飲んでいた。
「ああ、すまん智志、俺もうだめだ、上で寝るよ」
「ごめん、そんなに眠いのに無理につきあわせて」智志は顔を赤くして申し訳なさそうに言った。
俺はめくれ上がったTシャツの裾を直し、ずり下がっていたジャージのハーフパンツを元通り穿き直してふらふらと客間を出た。
俺は亜弓に肩を貸してもらい階段を上がって二階の寝室に入ると、大きなベッドにバタンと倒れ込んだ。だがしばらくすると急に喉の渇きを覚え、俺は起き上がった。
ふらつく足で階段を降りかけた時、階下から何か囁くような声が聞こえてきた。俺は足を止めて耳を澄まし、そっとリビングの様子を窺った。