四《亀裂》
明くる朝、俺が顔を洗うために洗面所に入った時、横に置かれた洗濯機がごんごんと音を立てて回っていた。その中に入っていたのは智志の布団に張られていた水色のシーツだった。
ダイニングテーブルではすでに智志が座ってコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、智志。ゆっくり休めたか?」
「あ、ああ、お陰さまで」
智志は何事もなかった風を装ってはいたが明らかに動揺したような表情で俺とは目を合わせようとしなかった。
俺は普段通り、何くわぬ態度で智志にも亜弓にも接しようと決めていた。
智志は朝食の間も落ち着かないようにおどおどした様子だった。一方妻の亜弓はいつものように愛想良くカップにコーヒーを注ぎ足したり果物を勧めたりと、かいがいしく客である智志に気遣いをしていて、その二人の対照的な振る舞いが、俺には逆にひどく白々しく、また腹立たしく写るのだった。
智志は食事が済むと焦ったように荷物をまとめ、そそくさとドアを出た。そして玄関先で俺に向き直った。
「いつもお邪魔してしまって申し訳ない」
「なに。こっちこそ大したもてなしもできずにすまなかったな」
俺は笑顔でそう応え、彼の手を握った。
「本当なら、空港に見送りに行くべきところだが」
智志はその俺の言葉に慌てて焦ったように返した。
「い、いや、心配いらない。大丈夫。そんなことしてもらわなくても……」
「そうか。じゃあ、元気でな」
俺はそれ以上何も言わなかった。
そして智志は振り返りもせず通りを歩き去って行った。
俺たちが別れのあいさつをしている間、亜弓は俺の背後に立っていたが、一言も口をきかなかった。
昨夜、あれから朝まで妻の亜弓が二階の寝室にやってきた形跡はなかった。一晩中智志と抱き合っていたのかもしれない。だが、今それを彼女に追求したところで、片付けをしてたらそのまま眠ってた、とか、俺を起こしちゃいけないかと思ってリビングのソファで寝たとかいった類いの見え透いたごまかし方をしてくるのが予想できたので、俺はとりあえず何も訊かないことにした。
客間の布団はすでに押し入れに片付けられ、部屋の中はいつもより却ってきれいに掃除されていた。
俺は我慢できなくなり、昼間から亜弓を激しく求めた。もちろん避妊具など使わないダイレクトなsexだった。俺は昨夜この目で見た亜弓と智志の激しい繋がり合いを強烈に思い出していた。その智志への対抗心、嫉妬心、亜弓への独占欲、復讐心、そんなどろどろした気持ちが亜弓への乱暴な行為に駆り立てた。
しかし亜弓は明るい内からのその行為を嫌がることもなく、俺の粗暴なアプローチにも関わらず全身で感じ、喘ぎ、背中に爪を立てて俺の名を叫び続けた。
「来て! 嶺士、あたしの中に来て!」
俺は唇を噛みしめ、勢いをつけて仰向けに押さえつけた亜弓を貫いた。
亜弓はきゃあ、という悲鳴を上げ、身体を震わせた。
「イって! イって!」
それは昨夜客間で叫んでいた智志へのセリフと同じだ。俺は歯ぎしりをしながらますます身体を燃えるように熱くして、大きく腰を動かした。
妻亜弓は元々sexに関しては大胆な方で、その快感を身体全体で感じることを逡巡することはなかった。いつも俺を受け入れる時は中はすっかり潤っていたし、俺のピストン運動に合わせて自ら大きく身体を揺すった。盛り上がってきたときのキスは俺でさえ最初は戸惑うぐらいに濃厚で、俺は何度もクライマックス直前にこの舌を吸い込まれ、息を止められた。
不意に亜弓は俺の背中に腕を回し、はあはあと息を弾ませながら言った。
「嶺士、後ろから……」
「え?」
俺から一度身を離した亜弓はベッドの上で四つん這いになった。そして背を大きく反らせて尻を突き出した。
「入れて、嶺士、お願い」
もう幾度となく亜弓とのsexを経験した俺だったが、彼女にバックから挿入するのは初めてだった。俺自身はやってみたいとずっと思っていたが、亜弓が抵抗するのが怖くて今まで実現させたことはなかったのだ。しかしそれも智志に先を越された。昨夜目にしたヤツと亜弓との激しい繋がり合いが目に浮かび、俺の闘争心を否が応でも煽り立てた。
俺はごくりと唾を飲み込み、亜弓の腰を両手で鷲づかみにして、自分の持ち物をその秘部に押しつけた。
それはすぐには中に入っていかなかった。勝手が違っていて挿れるべき場所がわからなかったのだ。悔しさに胸が爆発しそうだった。それを察知した亜弓は焦ったように手を股間に伸ばし、俺のものを握ると自分の秘裂に導いた。「ここ……」
そして俺のモノは亜弓の身体にぬるりと深く入り込んだ。
亜弓は大きく喘ぎながら身体を前後に動かし始めた。俺も腰を掴んだまま亜弓の身体に何度も出入りした。
背中に激しい痺れが走り、俺は思わず呻いた。「も、もう出る、イく……」
亜弓はシーツに俯せに倒れ込んだ。俺はその身体にのしかかり、全体重を預けた。その瞬間、身体の奥から湧き上がった熱いものが一気に亜弓の中に迸った。
びゅくびゅくっ!
「ああーっ! 嶺士、嶺士っ!」
亜弓はシーツをぎゅっと掴んだまま、泣きながら大声で叫んだ。
「んんーっ!」
俺もいつもより長い時間脈動を続けるものが亜弓の中で蠢く感覚に酔いしれていた。
二人とも裸のままでベッドの上で息を整えながら、俺はやっとの思いで口を開いた。
「亜弓、今のおまえの気持ちが知りたい」
「え?」
「昨夜のことを話してくれ」
「やっぱり……ばれてたんだね……」亜弓はひどく申し訳なさそうな顔で言った。「嶺士にはとっても罪作りなことをしたって……思ってる」
「うん」
「怒ってるでしょ? ごめんね」
俺は返す言葉を探しあぐねていた。
「でも、そんなあたしをまた抱いてくれて……ありがとう」
涙ぐんで震える声で言った亜弓の顔を見ることなく俺は言った。
「初めて……だったのか?」
亜弓はこくんとうなずいた。
「ほんとか?」
「ほんと……」
「じゃあ、また智志に抱かれたいって思ってるんだろ?」
亜弓は黙っていた。
「まあ、智志は明後日日本を発って海外に移住する訳だから、おまえがそうしたくても無理だけどな」
俺のそんな嫌味な言い方に焦ったように亜弓は言った。
「思ってないよ、あたしまたあの人とあんなことしたいなんて」
ふう、と俺はため息をついた。「どうかな……」
「信用してくれないの?」
俺は天井を見つめながら言った。
「智志とはできないかもしれないが、俺以外の男と寝るチャンスはこれからもあるんじゃないのか? おまえは専業主婦だし」
亜弓はひどく悲しい顔をして目を見開いた。
「信用してくれないんだ……」
俺は大声で言った。
「あんなとこ見せつけられたら信用なんてできないだろ! おまえと智志が抱き合って、繋がって、一緒にイくところまで俺は見てた。この気持ちがわかるか?」
亜弓の頬を涙が伝った。
「ごめんなさい……」
「謝って済むことだって思ってるのか?」
「今は謝ることしかできないじゃない……」
俺はむっとしたように口をつぐんだ。
「嶺士、聞いて。あなたにとっては言い訳にしか聞こえないかもしれないけど……」
俺は何も答えず頭の下で両腕を組み、じっと天井を睨み付けていた。
「あたしが智志君を誘ったのは事実。だから彼はそれに応えてくれただけ」
俺は低い声でぶっきらぼうに言った。
「俺、敗北したんだな。智志に。おまえを巡るオス同士の戦いに敗れたってことなんだな」
亜弓は慌てて大声で言った。
「何言ってるの? そんなことじゃないよ」
俺も負けずに大声を出した。
「そうだろ? おまえは交尾の相手として俺じゃなくて智志を選んだんだからな!」
亜弓はすがるような目を俺に向けた。
「あたし、あの時智志君が好きになってたわけじゃない。単に、何て言うか……この身体が、我慢できなくなっちゃってて……。昨夜は身体がsexしたくてたまらない状態だったの」
「我慢できなかった?」
「あなたも知ってるでしょ? むやみに身体が疼いて、ベッドであたしから求めたこと、今まであったじゃない、何度も」
「確かにあったな。昨夜のおまえは丁度そんな状態だったっていうのか」
「うん。それに……」亜弓は一度言葉を切って、震える小さな声で続けた「正直冒険したい、っていう気持ちになってたのも確か。危険な冒険」
「俺とは違う身体を味わいたかった、ってことだろ?」
「……そう、ね。そういう感じだったのかな……」
俺は、ここ数日ベッドで亜弓に誘われても抱いてやらなかったことを後悔していた。だが、そんなことは理由にならないと自分自身に言い聞かせた。ごくりと唾を飲み込んだ俺は、少しかすれた声で言った。
「昨日のsexでおまえの気持ちはヤツに持って行かれて、これからも智志と会って抱いて欲しい、って思ったんだろ?」俺はさらに大声で続けた。「俺とやる時より派手に感じてたみたいだしな!」
亜弓は小さな声で言った。
「それはない」
「どうだか」俺は吐き捨てるように言った。
俺は身体を起こし、亜弓を見下ろしながら言った。
「だったらなんであいつにゴムを使わせなかったんだ?」
亜弓ははっとして、しばらく困ったように唇を噛んでいた
「俺はまだおまえの中に出したことはなかったよな? 毎回めんどくさいのを我慢してゴムをつけてたよ。なのにどうしてヤツには許したんだ?」
亜弓は黙っていた。
「要するに俺はおまえを巡る智志とのオス同士の争いに闘うまでもなく敗れたってわけだ。その闘争に勝利した智志が俺より優位になって、それでメスのおまえはあいつに種付けをしてもらった。そういうことなんだな?」
亜弓は弱々しい声で言った。「そ、そんなことまで考えてないよ、あたし」
「精子をメスの中に放出するのは闘争に勝利した優秀なオスだけに与えられた権利だからな。そもそもそれで妊娠したらどうしよう、なんてこれっぽっちも思ってなかったんだろ?」
亜弓は躊躇いがちに小さくうなずいた。
「まあ、そうだろうな。あれは妊娠目的のオスとメスの交尾だったってことだからな」
一息ついて亜弓は言った。
「妊娠はしないから大丈夫。あたし、当然あなたとの子供以外は作るつもりはない。」
「矛盾したことを言うな! 何を今さら……」
「あたし、嶺士が智志君より優位なオスだって思ってるし、それに何よりあたしを愛してくれてる夫でしょ? その二つの条件を満たすのは、あたしにとってはあなただけ……」
俺はもう亜弓が何を言っても薄っぺらい言い訳にしか聞こえなくなっていた。
「許して、なんて言える義理じゃないけど……」
亜弓はついに泣き出した。
「あなたに責められて、愛想尽かされて捨てられていてもおかしくないようなことをしたあたしだけど、それでも抱いてほしい、一緒にいてほしい……嶺士に」
俺は抑揚のない声で言った。
「しばらくは無理だな……いや、ずっと無理かも」
俺はそう言い残すと泣きじゃくる亜弓をベッドに残して部屋を出た。俺は正直亜弓のことは誰よりも好きだったし、夫婦でいられることはとても幸福なことだと考えていた。だがその時の俺の気持ちは彼女と距離を置きたい方に揺れ動いていた。他のオスの匂いのする亜弓のそばにいるのが生理的に耐えられなかった。たとえそのオスが俺の親友であろうとも。
俺はその夜から一階のリビングのソファで眠ることにした。
二日後に日本を出ると言っていた智志が本当に出国するかどうかを空港まで確かめに行きたかったが、ヤツが使う便名も出発時刻も訊いていなかったので確かめようがなかった。そもそも地元の空港には国際線はない。羽田や成田の空港まで行くような時間がとれるわけがない。
俺はそれでもいたたまれない気持ちを抑えきれず、ヤツが働いていた会社に問い合わせることにした。
智志が勤めていた自動車メーカーの営業所に電話をした。人事に関することは本社に訊け、と言われ、東京にあるという本社の人事部まで三回も電話を回され、ようやく担当者と話すことができた。宮本智志という社員について知りたい、と俺が言うと、あなた様は誰で、宮本とはどういう関係ですか? とゆっくりした口調で尋ねられた。その慇懃無礼な物言いにむかつきながらも、俺は名前と住所を教え、宮本とは友人で、今後連絡をとることもあるかもしれないから、と答えた。明らかにめんどくさそうに相手は答えた。詳しいことはお伝えできませんが、宮本が来週からボストンの工場に勤務することは間違いありません、と。
亜弓を寝取った智志が、とりあえず俺の目の前から消えたことは確認できたが、亜弓への腹立たしい気持ちは収まるはずがない。俺の胸の中ではあの晩からずっとぐつぐつと熱くどろどろした溶岩のようなものが煮えたぎっていた。そして俺はその時になって初めて、智志と朝に顔を合わせた時、完膚なきまでたたきのめさなかったことを後悔した。ヤツの顔が原型を留めないほど殴って殴って、足腰立たなくしてやればよかった、と今さらながらに思ったのだった。
それから俺は亜弓とは一切口をきかないことに決めた。最初の数日は亜弓の方からなにやら俺に話しかけてきたりもしていたが、三日目ぐらいからは諦めたようで、彼女も貝のように口を閉ざして生活を始めた。
当然すこぶる居心地が悪かった。気まずさや申し訳なさが俺の心にじわじわと広がっていく。だが、そもそも俺には何の非もない。亜弓があんなことをしたせいだ。俺が無視に徹し、口を訊かなくなったことで亜弓の表情はしだいに暗くなっていった。それでも食事の仕度や洗濯、掃除はそれまでどおりのルーチンワークとして気丈にこなしていた。
そういう後ろめたさが続くのも腹が立つので、俺は自分に関する家事をやってやろうと思った。だが、自分で自分の汚れ物を洗濯しようとしても洗剤の使い方や柔軟剤の所在などこまごましたことが解らず、キッチンに立っても、一体どこに何があるのかさっぱりわからず途方に暮れるばかり。唯一解ることは、隅にうずくまるようにして置いてあるワイナリーボックスの中にはもう一本もワインが残っていないということだけだ。そのことでますますむしゃくしゃして、俺はいっそしばらく家出をしようかとも考えた。とにかく許し難い不貞を働いた亜弓から距離を置きたいとむやみに考えていた。
だが、先を越された。
あの出来事から8日目の朝、俺がリビングのソファで目を覚ますと、亜弓の気配がなかった。いつもならリビングにまで漂ってくるベーコンを焼く匂いがしていない。キッチンにも、二階の寝室にも彼女はいなかった。
亜弓の書いたメモが玄関ドアの内側に貼られているのに気づいたのは、俺が仕事に出かけようと靴を履いて立ち上がった時だった。
そのメモには、黒いインクのペンでたった一行だけこう書いてあった。
「ごめんなさい。しばらく頭を冷やします」
感情のない言葉だと俺は思った。定規を当てたように水平に、見慣れた流れるような筆跡でそれは記されていた。俺にはその言葉の裏にある亜弓の気持ちなど推し量ることは不可能だった。