五《謀計》
嶺士の話を黙って訊いていたミカが目を閉じたまま言った。
「亜弓ちゃんがいそうな場所の心当たりは?」
「いくつかありますけど、探す気にはなれません」
「心配じゃないのか? 嶺士」ケンジが訊いた。
「いいんだよ。あいつ自身頭を冷やすって言ってるんだから。好きにすりゃいいんだ」
嶺士は吐き捨てるように言った。
「おまえは?」ミカが目を上げた。「おまえはそれでいいのか? 今のおまえの気持ちの方がよっぽど気がかりだ」
「あんなあばずれ知ったことじゃないです。大丈夫。今日は迷惑をかけちまったけど、明日からちゃんと仕事、真面目にやります、ミカさん」
向かいに座ったミカは大きなため息をついた。
「明日はおまえ、非番だ。おまえの方こそ一日ゆっくり頭を冷やしてろ」
嶺士はばつが悪そうに頭を掻き、申し訳なさそうに言った。
「じゃ、俺、失礼します。今日は迷惑掛けてすいませんでした」
嶺士は頭を深々と下げて事務所を出た。
ミカは手をこまぬいたままケンジに目を向けた。
「どうする? ケンジ」
「マユに話してみるよ」
「マユミに?」
「うん。あいつは高校時代嶺士と同じ部活だったわけだしさ」
ケンジはそういいながらポケットからスマホを取りだした。
「(あ、ケン兄、どうしたの?)」
「マユ、実は折り入って頼みたいことがあってさ」
「(なに?)」
「今から店に行っていいか? ミカも一緒に」
「(うん、いいよ。そろそろ閉店だし。待ってる)」
ケンジとミカはすぐにシンチョコを訪ねた。そしてついさっき事務所で聞いた嶺士の家庭内のごたごたを、高校当時嶺士とは同級生で同じ水泳部でマネージャーを務めていたマユミに話して聞かせた。
聞き終わったマユミは、にこにこしながらケンジの顔を見た。
「ご心配なく」
「え? なんだよ、嬉しそうに」
「亜弓ちゃんはうちでかくまってるんだよ」
「なにっ?」ミカが大声を出した。
「ほんとか? 何で早く言わない?」
「だって、ケン兄たちがこの事件に絡んでいるなんて知らなかったんだもん」
「で、どんな感じ? 亜弓ちゃんの様子」
マユミはふうとため息をついて眉尻を下げた。
「落ち込んでるよ。嶺士君は本当のことをまだ知らないって」
「本当のこと?」
「少しだけ聞いてみたけど、ちょっと話が複雑なんだよ……」マユミはケンジとミカのカップにデキャンタからコーヒーを注ぎ足した。「あの子が全てを話す気になって、嶺士君が納得して二人が落ち着いたら聞いてやって。嶺士君から」
「もちろん」
「で、あたし思いついたんだけど、」マユミが身を乗り出した。「ユカリに頼んで嶺士君の今の気持ちを確かめてもらって、亜弓ちゃんとの関係を修復してもらおうと思ってるんだけどどうかな?」
「ユカリって、あんたの部活の同級生だったあの弾けた娘?」ミカがコーヒーのカップを口から離して言った。
「うん。あたし今もつき合いがあるけど、当時もとっても仲良しだった」
「なんでユカリさんに?」ケンジがカップを持ち上げて訊いた。
「高校時代、嶺士君とユカリ、つき合ってたんだよ。後輩の亜弓ちゃんのこともとっても可愛がってたし」
「嶺士とつき合ってた?」
「うん。ユカリの初体験の相手だよ、嶺士君」マユミはさらりと言って、カップを口に運んだ。「それにあの子、カウンセラーの資格持ってるからね」
ケンジは少し不安そうな表情で言った。
「彼女が臨床心理士だってこと、今でも信じ難いんだが……」
「アプローチの仕方が特殊だからね、ユカリは。でも今の嶺士君みたいなクライアントなんて得意中の得意だと思うよ」マユミはにこにこ笑いながらテーブルのチョコレートに手を伸ばした。
スイミングスクールから帰宅した嶺士は、家の中がしんと静まりかえっているのに軽い恐怖心を抱いた。
「けっ! 勝手にしろ!」
彼はわざと大声で言って乱暴に靴を脱ぎ、荷物をそこに放り出した。
キッチンのゴミ箱が溢れそうになっていたので、彼はビニールのゴミ袋ごとそれを引っ張りだし、口を結んだ。
「ん? なんだ? これ」
嶺士はその透明な袋の中程に黄色い薬の箱と錠剤が納められていた銀色のPTPシートを発見した。
「何の薬だ? 見たことないな……」
その薄い箱にはアルファベットで商品名が書いてあるが、嶺士が聞いたことのない名称だった。
「『ノル……レボ』?」
嶺士はしばらく手を止めてその箱を見ていたが、時々亜弓が訴える片頭痛の薬か何かだろうとあまり真剣に考えずその袋を表のゴミ集積場に運んだ。
リビングに戻った嶺士はソファにばたんと横になった。
「夕飯、どうすっかな……」
天井の灯りをぼんやりと見ながら呟いたとき、嶺士のスマホの着信音が鳴り響いた。
嶺士はバネのように飛び起きて、カーペットに足を取られながら玄関まで走り、慌ててバッグに手を突っ込んでスマホを取りだし、ディスプレイを見た。
「なんだ、亜弓じゃないのか……」登録していない番号だった。嶺士はひどく落胆したようにため息をついて受話ボタンをタップした。
「(嶺士ー、あたしよ)」無駄に大きな、わざとらしい甘ったれた声がした。
「誰だ?」
「(声を聞いても思い出せないぐらい疎遠になったってこと? 寂しいなあ……)」
「だから、おまえ、誰なんだ」嶺士はイライラして言った。
「(ユカリ。あんたにバージンを捧げたユカリ)」
嶺士は一気に噴きだした額の汗を焦ったように拭い、スマホを持ち直した。
「ユ、ユカリ、な、何の用だ? いきなり」
「(いやなに、あんたと久しぶりに会って飲みたいと思ってさ。どう? 今から)」
「え? い、今から?」
「(もう愛する奥さんと食事してたのかしら? 都合が悪いんだったら断って)」
嶺士は少しの間考えて、決心したように言った。
「わかった。今からな。どこで待ち合わせする?」
「(あれ? いいの? かわいい奥さんの亜弓ちゃんに何て言い訳するつもりなの?)」
「いいんだよ、あんなヤツ」
嶺士は電話の向こうでユカリがふふっと笑ったような気がした。
「(あんたがそう言うんなら。じゃあ、駅の西口の天使の噴水の所にいるから)」
「すぐ行く」
駅裏の通りに面したビルの四階にあるラウンジの窓際のテーブルにユカリと嶺士は向かい合って座った。
「久しぶり、嶺士。元気だった?」
「あんまり」
ユカリは吹き出した。
「あはは! 相変わらず正直者。嘘がつけない自分がよくわかってるじゃない」
「学習したんだよ。お前とつき合って、別れてからな」嶺士はむっとして言った。
「なんで元気ないの? 奥さんの亜弓がらみ?」
「な、なんでわかる」
「だって、電話で『あんなヤツ』なんて言ってたし、こんな時間に急に誘っても街に出てこられてるし」
「確かに……」
嶺士は肩をすくめてビールの注がれたグラスを煽った。
「ビール、好きなの?」
「専らな。カクテル系は苦手だ。ワインなんか特に大嫌いだ」
「何よそれ。ワインが好きかなんて訊いてないでしょ?」
嶺士は不機嫌そうな顔でビールのグラスを煽った。
「でも亜弓ちゃんはワイン党だって聞いたよ?」
「なんでそんなこと知ってる?」嶺士は上目遣いでユカリを睨んだ。
「ちょっと前にシンチョコ訪ねた時、マユミが言ってたのよ」
「へえ……」嶺士は面白くなさそうに眉を動かした。
「二人違うお酒飲んでるわけ? 食事の時」
ふん、と鼻を鳴らし嶺士は困ったように口を結んで、テーブルに置かれたビール瓶を自分のグラスに傾けた。
「そっか、じゃあこんなところじゃなくて居酒屋の方が良かったかな」
「いいよ。別に。どこでも」
「さてと、」ユカリはテーブルに両肘をついて笑顔を嶺士に向けた。「吐き出しなさいよ。何でも訊いてあげる」
呆れたように小さなため息をついて、嶺士はぼそぼそと口を開いた。
「亜弓が俺の目の前で別のオスと交尾した」
「なによ『交尾』って、生々しい言い方」
「俺は敗北したオスだからな」
「相手は?」
「智志」
ユカリはびっくりしたように目を見開いた。
「ええ? 智志? 宮本智志? な、なんでまたそんなことに……」
嶺士はあの夜自分が目にしたことごとくをユカリに洗いざらい吐き出すように語り尽くした。途中、喉が渇いて何度もビールを追加していたので、話し終わった途端、嶺士は慌てたようにトイレに立った。
テーブルに戻ってきた嶺士を見上げてユカリは言った。
「大丈夫?」
「平気だ。吐くほどは飲んでない」
それでも嶺士の足は少しふらついていた。
「そう言えばおまえ」
「何?」
「結婚は?」
「まだよ」
「彼氏はいないのか?」
ユカリはほんの少しだけ考えた後、答えた。
「いるわよ。つき合ってる男」
それを聞いた嶺士は険しい目をして言った。
「ユカリ、もう一軒俺につき合え」
「ふふ、いいわよ」
ユカリは口角を上げて嶺士を見上げた後、バッグを持って立ち上がった。嶺士はその細い腕を掴んで慌てたようにテーブルを離れた。