七《真相》
あたしは嶺士が智志君に誘われて客間に入った後、食器の片付けを急いで済ませ、洗濯をするために洗面所に入りました。洗濯機を回し、そこを出てリビングに戻ったあたしは、客間から聞こえる二人の声に耳を澄ませていました。
あたしはリビングのソファに座って雑誌を読んでいましたが、耳は客間に向いていました。しばらくすると部屋から声がしなくなりました。胸騒ぎを覚えたあたしは客間のドアをノックしました。
少し焦ったような智志君の声がしました。「ど、どうぞ」
あたしがドアを開け、中を覗くと、嶺士が畳の上で大の字になって寝ています。飲み疲れたのでしょう、口を半開きにして気持ちよさそうに眠っていました。
彼の着ていたTシャツの裾はめくれ上がり、胸が大きく露わになっていました。そしてジャージのハーフパンツは膝まで下がり、黒い下着が見えていました。
「ごめんね、智志君、上に連れて行くから」
あたしは嶺士の身体を揺すって起こしました。彼は目を擦りながら服を元通りに整え、ふらふらと客間を出て行きました。あたしはおぼつかない足取りの彼の身体を支えながら階段を上り、二階の寝室に入りました。嶺士はそのままベッドに突っ伏してすぐに眠ってしまったようでした。
あたしはリビングに戻り、客間のドアをノックして、小さな声で智志君を呼びました。
「ん? 何? どうしたの? 亜弓ちゃん」
あたしはドアを開けました。
智志君は布団に横になっていました。枕元のワインのボトルはほとんど空になっていました。
「ごめんなさい、寝てた?」
赤い顔をした智志君は身体を起こし、目を擦りました。
「何か用だった?」
「お話があるの……」
あたしが恥じらったように言うと、智志君はよろめきながら客間からリビングに出てきました。
立ったままあたしと智志君は向き合いました。彼の顔は飲んだワインのせいで赤く染まり、足は少しふらついていました。
あたしは少しこわばった顔で智志君の顔を見つめました。
「智志君、あたしを抱いて欲しいの」
そう言ってあたしが智志君の手を取ると、彼はびっくりしたように目を見開き、緊張した面持ちでそれでもあたしの目を見つめ返しました。
しばらくして彼の胸に手を当てて、あたしは小さな声で呟きました。
「身体が疼いてるの。ね、お願い……」
それは賭けでした。
智志君は泣きそうな顔であたしの目を見つめています。あたしは彼の頬を両手で包み込み、顔を近づけて唇を重ねました。彼はぎゅっと目をつぶり、固く口を閉ざしたままでした。
口を離したあたしは彼の逞しい身体をぎゅっと抱きしめ、部屋に戻るように彼を促しました。
客間に敷かれた布団の上に智志君を横たえたあたしは、着ていたものを脱ぎ、黒い下着姿になりました。彼は怯えたような表情で、それでもはあはあと息を荒くしながらあたしをじっと見上げていました。
あたしは彼のハーフパンツに手を掛け、そっと脱がせました。彼は黒いぴったりとしたビキニタイプの下着を身につけていました。偶然でしょうか、嶺士も同じようなものを数枚持っていて、智志君のその下着姿を目にした時、ベッドの上での嶺士を思い出さずにはいられませんでした。
智志君は焦ったように上半身を起こしました。
「あ、亜弓ちゃん、だめだよ……」
弱々しくそう口にした智志君ですが、あたしが彼の半袖のスウェットをめくり上げ、露わになった厚い胸板をそっと手のひらでさすることを拒みませんでした。
あたしはそのままそれを脱がせ、自分のブラも取り去ると、再び彼を仰向けにしてその身体に覆い被さりました。二つの乳房を押しつけて、彼の身体を包み込むように抱きながらあたしは彼の唇に自分のそれをあてがいました。智志君の唇はさっきよりも柔らかくなっていて、あたしの舌を受け入れてくれました。彼の身体は小さく震えていました。
口を離したあたしは智志君の横に仰向けになり、彼を促しました。彼はおそるおそる身体を起こしてあたしに覆い被さってきました。
「いいの? 亜弓ちゃん」
智志君はますます顔を赤くしてろれつの回らない言葉を小さく発しました。
「きて。大丈夫だから」
あたしは上に覆い被さってきた智志君の下着に手を掛けました。彼の身体はまた小さく震え始めました。
「あ、自分で脱ぐから……」
智志君はそう言って膝立ちになりました。彼はそのまま自ら下着を脱ぎ去り全裸になりましたが、彼のものはうなだれたままでした。
彼は申し訳なさそうにあたしを見下ろしました。
「だめなんだ……亜弓ちゃん……」
あたしはもう一度彼を仰向けに寝かせ、彼にキスをした後、耳元で囁きました。
「大丈夫、何も心配することはないから」
あたしは彼の胸や腹をまるで子供をあやすように優しくさすりました。そして彼の身体の中心にあるものを両手でそっと握り、舌を這わせました。
「あっ!」
智志君は小さな叫び声を上げて上半身を起こしました。
「亜弓ちゃん! だめっ!」
あたしはにっこり笑って彼をなだめ、再びゆっくりと寝かせました。
彼のものを咥え、舌で舐めながら口を上下させているうちに、それはぐんぐん大きさと硬さを増していきました。目を上げると智志君は泣きそうな顔で歯を食いしばっていました。
はち切れんばかりにいきり立って反り返った彼の持ち物を口で味わっていると、あたしはまるで嶺士のものを咥え込んでいるように錯覚し始めました。そして嶺士とのいつもの熱いsexを思い出し、身体がどんどん熱くなっていきました。
いつしか智志君ははあはあと大きく胸を上下させ喘ぎ始めていました。
あたしはその行為を続けながら自分の下着を脱ぎ去りました。それから彼の身体に跨がって、すっかり準備の整った彼の熱いものを自分の秘部に導きました。
「ああ、亜弓ちゃん!」
智志君は顎を上げて叫びました。
不思議なことに、あたしの中に入ってくる彼のものは嶺士のそれと驚くほど同じに感じられました。その熱を持った硬さは、まさに何度もあたしの中に入ってきた嶺士のものでした。
あたしは目を閉じ、思わず身体を上下に揺すり始めました。
智志君は大きなため息をつきました。
「あ、亜弓ちゃん、温かい……」
あたしはすでに上り詰める寸前でした。
「き、気持ちいい? 智志君」
「うん、すごく……あ、も、もうすぐ……」
その時あたしは何故彼の身体から身を離さなかったのか……。このまま避妊具なしで繋がり合って彼が絶頂を迎えたら、あたしの体内に彼の精液が発射されてしまう。でもその時のあたしはもう、そういうことを考えることができなくなっていました。疼いていた身体が彼と一緒にクライマックスを迎えることだけを望んでいたのです。
「イって! イって!」
ぐうっと呻いて智志君は身体を大きく跳ね上げました。あたしはその瞬間に弾けるような衝撃に襲われ、思わず身体を倒して彼の身体にしがみつきました。
どくんどくんと脈打ちながら、彼のものがあたしの中で射精を繰り返し、身体の中心が熱いもので満たされていくのがわかりました。
息を落ち着ける間もなく、智志君は起き上がり、息を荒くしたままあたしの口に吸い付いてきました。そしてあたしの頭を抱え込んで貪るように舌を絡めてきました。それはまるで彼の中のスイッチが切れたような豹変ぶりでした。
あたしは彼の中にある女性への抵抗感を無くすという使命感を持っていましたから、彼のその後の行為も受け入れる覚悟はできていました。
彼があたしから身を離した時、今まであたしの身体の中で激しく脈動していたものは力を失っていませんでした。まだ大きく天を指して、たった今放出した自らの白い液をまつわりつかせていました。
智志君の目はぎらぎらと妖しく光り野性のオスの様相を呈していました。あたしは軽い恐怖心を抱きました。
彼はあたしを四つん這いにさせると、背後からそのいきり立ったものを再びあたしの中心に突き立て、一気に挿入させたかと思うと、何かに取り憑かれたように激しく腰を前後に動かし始めました。
あたしの身体に電気が走ったような刺激が駆け抜けました。そして彼と共に性的興奮が一気に噴き上がり、不安と性的欲求がない交ぜになった状態であっという間にこの身体は絶頂を迎えたのでした。
俯せになったあたしの背中に、汗だくになった熱い身体を押しつけるように覆い被さり、智志君ははあはあと大きく荒い呼吸を繰り返していました。
あたしは二度も彼の精液をこの身体の中に受け入れてしまったことを、今さらながらひどく後悔していました。
夫である嶺士にも、まだ一度も中に出してもらったことはありません。でも、今のこの行為は酔った智志君にとってはなおさら全く予定外のことでもあり、まして彼が周到に避妊具など持ってきているはずもなく、かといっていつも嶺士が使うものは二階の寝室に置いてあって、行為の途中で取りに行くことができるわけもなく……。覚悟を決めていたとは言え、あたしは心の中で嶺士に何度も謝り続けました。
あたしと並んで仰向けになった智志君は半分閉じた目であたしを安心したように見て、一言、すごく……気持ち良かった、と言った後、あっけなく寝息を立て始めました。
あたしは彼の腕をそっとほどき、客間を出てバスルームに向かいました。
シャワーを浴びて、念入りに身体を洗い、新しい白い下着に着替えました。そしてダイニングテーブルの横にあるストッカーから黄色い薬の箱を取りだし、中に入っていた一錠を口に入れ、水で胃に流し込みました。
ほっと息をついてリビングに戻りソファにもたれると、あたしもすぐに眠りに落ちてしまいました。
不意に目を覚まし、戸外が明るくなってきたことに気づいたあたしは、そっと二階に上がりました。嶺士はベッドの端に丸まって寝ていました。あたしは白いスキニージーンズとイルカのデザインされた青いTシャツを持ち出して来て、リビングで着替えました。
顔を洗い、髪を整え、キッチンに入って冷蔵庫を開けかけた時、客間から智志君が恐る恐る顔を出しました。
「おはよう、智志君」
智志君はあたしの顔を見て青ざめ、泣きそうな顔をしたかと思うと、キッチンに駆け込み、その場で土下座をしました。
「ごめん! 亜弓ちゃん! 俺、とんでもないことを!」
床に額を擦りつけながら、智志君は叫びました。
あたしはしゃがんで彼の手を取り、顔を上げさせました。
「いいんです。謝らないで。お互い様だし」
「でも、俺、俺、」
智志君は涙ぐんでいました。
「心の中にしまっておいて下さい。昨夜のことは何もかも」
白々しいことを言うな、と自分でも思いました。でも、今手を離せば崩れ落ちそうなこの男性には、他にかける言葉を思いつきませんでした。
「嶺士が起きてきても、何も言わないでください、お願いします」
あたしは自分の口に人差し指を当てました。
「え? だ、だけど、亜弓ちゃん……」
「もし嶺士が昨夜のあたしたちの行為に気づいていたとしても、この後のことはあたしが何とかします。だって、あたしが貴男を誘ったんだし」
智志はよろめきながら立ち上がりました。
「顔、洗ってきて下さい、いつも通りタオルは洗面台の横の棚に」
洗顔を終えて戻ってきた智志をダイニングテーブルの椅子に座らせました。
「コーヒーどうぞ」
カップを彼の目の前に置いて、あたしも向かい合って座りました。
「……亜弓ちゃん、ありがとう」神妙な顔で智志君はぽつりと言いました。
あたしは小首を傾げて智志君を見ました。彼は小さなため息をついて続けました。「俺、何と言うか……吹っ切れた。嶺士への不純な思いはどっかに行ってしまった気がするよ」
「そう。良かった」
あたしはほっと胸をなで下ろしました。あたしのやったことは、とんでもなく許されないことだったけれど、結果的に智志君を救うことができた、と思いました。
「亜弓ちゃんは」少しだけ言葉を切って、智志君はあたしを見つめました。「そのために俺を誘ったんだね」
「ごめんなさい」あたしは頭を下げました。
「一昨日、貴男が嶺士に想いを寄せていることを知りました」
「一昨日?」
「はい。シンチョコにこれを買いに行った時、マユミ先輩から」
「そう、聞いてくれたんだ……」
あたしは壁の棚から小ぶりのチョコレートの箱を取り、彼の前に置きました。「お土産です」
「ありがとう、いつも」
智志君は恐縮したように言ってその包みを自分の手元に置き直しました。
智志君はコーヒーを一口飲みました。
「いつカミングアウトしたんですか? マユミ先輩に」
「君たちが結婚してすぐの頃だったかな」
「あたしたちの結婚式に来てくれなかったのは、嶺士と顔を合わせたくなかったから?」
「うん。嶺士が愛する女性とずっと並んでいるのを見るのが辛いと思ったから……」
「ごめんなさい」
「亜弓ちゃんが謝ることじゃないよ。俺の一人芝居」
智志君はカップを持ち上げ、コーヒーを一口飲みました。
「だいいち君を恨む気持ちは全然なかったし、今もそうなんだ」
「そうなんですか?」
「君が女性だからかな」
「他には誰かに?」
智志君は首を振りました。「いやマユミ以外には誰にも言ってない。今まで誰にも」
「そうですか」
「そう言えば嶺士は高校の頃ユカリとつき合ってたの知ってるだろ? 君はいつから嶺士のことを?」
「入学してから」
あたしもコーヒーを一口飲みました。
「へえ、じゃあ、ユカリと別れることを期待してたってこと?」
あたしは笑いました。「そんな大それたこと考えてません。正直そうなって欲しいとは思ってましたけど、当時彼は人気者だったから、あの人がユカリ先輩と別れたとしても、あたしとつき合ってくれるなんてかけらも思ってませんでした」
智志君は遠い目をして言いました。
「俺は高校に入学して、嶺士と出会ってから少しずつあいつへの想いが膨らんでいった。でも、さっきも言ったけどそれは不純な想い」
「不純?」
「以前に女の子とつき合ったこともあるし、sexしたいとも思ったこともあるから、俺は純粋なゲイじゃない。でも中学の時につき合ってた彼女と良い感じになって、夏休みに挑んだけど失敗して、その後話がこじれて……」智志君は辛そうな顔で唇を噛み、続けました。「辛いことが重なって、もう女の子とつき合うことが怖くてできなくなったんだ」
「それも少し聞きました。マユミ先輩に。ごめんなさい、あれこれ貴男のことを聞き出しちゃって」
智志君は穏やかに首を振りました。
「俺がマユミに頼んでたんだ。いつか折を見て嶺士の奥さんである君に、俺のことを何もかも話してくれ、って」
「はい、マユミ先輩もそう言ってました。それに今回智志君がうちを訪ねて来た時に、何か行動を起こすかも知れない。それがとっても心配だ、とも」
「高校時代からそうだったけど、マユミは勘がいいね」
智志君はひどく申し訳なさそうな顔をしました。
「あたしなりに考えたんです。昔の女の子とのお付き合いが原因でそういう気持ちになっているのなら、そのこわばりをほぐしてあげれば貴男の嶺士への思いも変わるかも知れないって」
「そう」智志君は切なげに笑いました。「若いから身体はムラムラする、でも女の子とは怖くてsexなんてできない。俺が嶺士に歪んだ感情を持ち始めたのは、確かにそれも大きな原因だったのかもしれないね」
「その、」あたしは思い切って訊いてみました。「それほどの出来事って、いったい……」
「俺の女性恐怖症の原因?」
あたしは頷きました。
「このことはマユミにも話してないんだけど」
はあ、と重いため息をついて智志君は話し始めました。
中学二年生の時に、俺は里美という女の子を好きになった。そしてその秋にその彼女に告白した。里美には茜という仲の良い友だちがいて、実は二人とも俺のことを気にしていたことを後で知った。
俺に告白された里美は、親友茜の手前すぐには返事をしなかったが、その茜本人の後押しもあって俺とつき合うことを決心した。
里美と俺は遊園地に出掛けたり海を見に行ったりと普通に交際を続けていたが、三年生になった夏休み、デートの帰りに寄った里美の部屋で二人きりになった時、俺は彼女を抱きたくなり、迫った。緊張しながらもキスを済ませ、俺は里美のTシャツを脱がせた。彼女もその行為を受け入れてくれているような反応だったので、俺は調子に乗ってますます彼女に欲情していた。
下着姿でベッドに横になった里美に同じように下着姿の俺が挑もうとした時、彼女は俺に避妊具は準備しているのか、と訊いてきた。俺はその日、この部屋で里美とこういう状況になることなど想定外だったので、首を横に振った。すると、里美はいきなり泣き出し、今さらどうしていいか解らずにうろたえる俺を尻目に服を着直して、脱ぎ捨てていた俺の服を丸めて投げつけ、帰って! と叫んだ。
とにかく謝ろうと思った俺は明くる日、里美を訪ねたが、彼女は出掛けている、と玄関先でひどく不機嫌そうな母親に言われた。その次の日も、三日後も俺は彼女を訪ねたが、やっぱり里美は留守だった。もしかしたら俺とはもう顔を合わせたくなくて居留守を使っていたのかも知れない。
夏休みが終わり、二学期が始まって間もなく、学校の女子たちが俺に対してやけによそよそしい態度をとっていることに気づき始めた。里美はもう俺と目を合わせようともせず、あからさまに俺を避けるようになっていた。俺はいたたまれなくなって、水泳部で一番仲の良い慎二に相談した。
慎二が言いにくそうに俺に教えてくれたのは、女子の間で、俺が里美をレイプしようとして未遂に終わった、という噂が広がっている、ということだった。俺は愕然とした。しかも、その話を広めているのは茜だということも解り、俺は怒りに震えた。でも俺は広まってしまったその噂を否定して無実を証明する方法など思いつかなかった。
俺は藁にもすがる思いで慎二に力になってくれるように頼んだが、彼は、俺にどうしろと言うんだ? と返すばかりだった。その上「おまえ、実はホモなんだろ? それを隠したくて女に挑んだがうまくいかなかった、ってのが真相なんじゃね?」と言い放った。
俺はしばらく学校に行けなくなった。でも受験のこともあり、親にも心配を掛けたくなくて、もう誰にも心を開かないと自分に誓って、苦しい気持ちを抱いたまま学校に通い始めた。それから卒業までずっと、同級生の全てが敵に見えて、死にたいぐらいだった。
俺は自宅から遠く離れたすずかけ商業高校に進学し、寮に入って中学時代の同級生たちとは縁を切ることにした。その高校で水泳部に入部した日、俺は鶴田嶺士という同級生と出会い、すぐに打ち解け合って親友同士の間柄になった。重い気持ちを引きずっていた俺は嶺士の友情に支えられて、みるみる明るさを取り戻した。嶺士といるとこの上ないほどの幸福感を味わうことができた。そして中学時代とは別人のように自分らしい充実した高校生活を送ることができた。
「だから嶺士は俺の恩人なんだ」
智志君はぽつりと言って指で目元を拭いました。
「そんなことが……知らなかった」あたしは胸が締め付けられる思いでした。「辛かったね、智志君……」
「でも、俺が男にも興味を持つ人間だってことを慎二は何となく感じ取っていたんだろうね。あの時俺は自分の心の中を無理矢理こじ開けられて人目にさらされたような気がして絶句した」
あたしは彼の目を見つめて言いました。
「貴男がその、自分がバイだって気づいたのはいつですか?」
「中学時代にはうすうす勘づいてた。女の子のハダカにも人並みに昂奮できたけど、男の水着姿とかにも熱くなってたし」
「実際に好きになった男子とか、いたんですか?」
「抱き合いたいとかキスしたいとか思ったことはなかったかな。でもあいついいな、って思ったことは何度か。テレビや映画に出て来る男優に身体を熱くしたこともあるね」
「でも、中学生の頃って、同性愛を馬鹿にしたり笑いの種にしたりする年頃ですよね」
「そう」智志君は身を乗り出し、訴えるような目を向けてきました。「それはある。だからみんながふざけ合いながら『おまえホモか?』なんて冗談で言い合ってるのがすごく嫌だった。授業でも教師が普通にそういうことを言って笑いを誘ってたしね。なんか、同性を好きになることは異常なことで、みんなの笑いものにされるんだな、って落ち込んだ時期はかなり長かった」
「あたしは個人的にそういうことは気にしない方かな……」
智志君は頷きながら言いました。「そう思ったから俺、マユミに頼んだんだ。君に打ち明けることを。マユミも君もLGBTに理解があるコだって俺は前から思ってた」
「だって、人を好きになるっていう気持ちはプライベートなことだし、それがどういうカタチだろうと他人がとやかく言うものじゃないもの」
「ほんとにその通りだね」智志君は何度も頷きました。
「だから落ち込んでた貴男を結果的に救ってくれた嶺士に、智志君自身がそんな気持ちを抱いたのも無理ないことだと思う」
「うん。実際そうだった……。だけどそんなこと嶺士本人に絶対言えるわけがない。へたをしたらやつにもホモだゲイだって馬鹿にされ、軽蔑されて絶交される。そうなったらまた同じ思いをしなきゃならない。いやそれ以上にショックを受けて、今度こそ再起不能になるだろうね……」
智志君はうつむきました。
「でも智志君は、嶺士にもいつかカミングアウトしたいって思ってたんでしょ?」
「そう……だね。昨日、ここを訪ねた時は決心してた。でもなんか感情が先走っちゃって、長いつき合いのあいつならそんな俺を解ってくれるはず、そして受け入れてくれるに違いない、って思ったら、二人で抱き合って、キスし合ってってどんどん妄想が広がっていったんだ」
智志君は自虐的な笑みを浮かべました。
「当然あいつにはそんなシュミなんてないんだろ?」
「ま、まあ……」あたしは言葉を濁しました。
「危ないところだったよ。ほんとに」
「あたしが代わりに伝えます。智志君の気持ちを。彼に」
智志君は顔を上げました。
「え? どうやって?」
あたしはその方法を思いついたわけではありませんでした。でも、目の前にいる、まるで子犬のような純粋な目をしたこの男性の気持ちを、彼の親友である嶺士に何とかして伝えなければならない、という強い決意をその時抱いていました。
「もういいよ。嶺士が俺の気持ちを知る必要はない。これは俺一人の問題だから……」
智志君の顔は寂しそうでした。熱が下がったとは言え、彼の嶺士への気持ちは、やはり友情プラスアルファのものだということはその表情から手に取るようにわかりました。
「とにかく任せて下さい」
あたしは笑って智志君の手を取りました。
智志君は切ない目をして小さくありがとうと言った後、あたしの手を離しました。
「こ、こんなことを言ったら、また君にとっても失礼なんだけど」
「はい」
「昨夜君が俺の相手をしてくれて、俺は女の子に目覚めた」智志君は慌てて付け加えました。「い、いや、君が好きになったから告白してるってわけじゃないよ」
「わかってます」
「女の子に対する拒絶感が消えた、ってこと。わかるだろ?」
「良かった。あたしの思惑通り」
あたしは笑ってカップを口に運びました。
「酔った勢いとは言え、あんなことしちゃって、ほんとに申し訳ない」
智志君は頭をテーブルに擦りつけました。
「ひょっとして、女の人とsexしたこと、今までなかったんですか?」
智志君はかっと赤くなって身を固くしました。
「そ、そうなんだ……いや、女性と、もちろん男性ともあんな風に最後までいったのは、その、人生初っていうか……」
「じゃ、じゃああたしが智志君の初体験の相手ってこと?」
「そ、そういうことになるね」
「やだ! ごめんなさい!」
あたしも真っ赤になって思わず叫んでいました。
「君が謝ることじゃない」智志君は早口で言いました。「すごく……気持ち良くて、貴重な体験だった。昂奮がなかなか収まらなくて、コントロールが効かなくって……乱暴しちゃってごめんね」
「昨夜、激しかったですもんね。結局二回もやっちゃったし」あたしは困ったような顔で笑いました。「でも初めてだったら無理もないと思います」
智志君は申し訳なさそうに頭を掻きました。「結果的に君は身体を張って欲情した俺から嶺士の貞操を守ったんだね。ほんとにごめん。犠牲は大きかったね」
「でも、あたしインラン女だから、とっても気持ち良かったです」
「や、やめてくれよ」智志君は赤くなりました。
「実は嶺士、最近求めても拒否ってたから、それに対して復讐しようっていう気持ちもちょっとだけ」
あたしはぺろりと舌を出しました。
「だ、だけど、俺、君の中に、その、直接……。危ない時期じゃなかったの?」
あたしはテーブルの端に置いていた黄色い薬の箱を智志君に見せながら言いました。
「あの後すぐ、これ飲んだから大丈夫です」
「それは?」
「緊急避妊薬。sexの後で飲むピルです」
「へえ、そんなのがあるのか。知らなかった」
あたしはそれをゴミ箱に放り込んで言いました。
「ストックしてて良かった」
「ほんとに申し訳ない……俺、すごく気持ち良くて、避妊のことなんか考えもしなかった」
智志君は赤くなってうつむきました。
「女性の身体も悪くないでしょ?」
あたしはウィンクをして笑いました。
智志君はいきなり暗い顔をして言いました。
「でも、おそらくあいつは気づいてるよね、昨夜のこと」
あたしはテーブルに目を落として言いました。「たぶん……」
「やっぱり俺、話すよ、何もかも」
「いえ、とりあえずあたしに任せて下さい。もし貴男がどうしても嶺士に伝えたいことがあるなら、少し時間を置いてから」
「それでいいの?」
「これは言ってみればあたしと嶺士の問題ですから」
「ほんとにごめん。亜弓ちゃん」
今度は智志君があたしの手を握りました。