Twin's Story "Chocolate Time" 外伝第3集 第4話

アダルトビデオの向こう側


《1.自分との決別》

 将太の母親香代が家を出たのは35歳の時。5月、息子の将太が高校一年生の時だった。

 

 長く病を患っていた夫の稔が亡くなり、葬儀を済ませて初七日が過ぎた頃、黒田厚子と名乗る見知らぬ女が香代を訪ねた。

 その寸詰まりで小太りの女は、稔について耳に入れたいことがあると言って香代を近くの喫茶店に連れ込んだ。

 

「あの、お話って……」

 香代は不安げな目でテーブル席の向かいに座った厚子を見た。

「どうか落ち着いて聞いて下さい、香代さん」

 馬鹿丁寧な口調がかえって香代の不安を募らせた。

 

「貴女のご主人の稔さんには、実は借金があります」

「えっ?」

「貴女にも、ご家族にもずっと秘密にしていらっしゃいましたが、お亡くなりになった今、それを返済して頂くために貴女に打ち明けなければならなかったんです」

 厚子は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「い、一体いくらの借金が……」

 テーブルに肘をついた厚子が言いにくそうに、くぐもった声で言った。

「400万円……です」

 香代は青ざめた。

「しかも、」厚子はたたみかけるように言った。「それはご家族に相談しづらい借金なんです。つまり――」

 香代は言葉を失い、ごくりと唾を飲み込んだ。

「稔さんは生前、家族に内緒で愛人をもうけていました」

 ええっ?! と思わず叫んだ香代に厚子は静かに聞けというジェスチャーをして続けた。

「その女の後ろには暴力団がいて、それに気づいた稔さんは女と別れようとしましたが、手切れ金として組がその金額を要求していたのです。要するに美人局ですね」

「うそ……」香代は涙ぐんで口を押さえた。

「さすがにこのことは妻である貴女に打ち明けることはできませんし、ご家族にも」

 厚子は静かに目の前のコーヒーカップを持ち上げた。

 

「あの……どうしたらいいんでしょうか……」

 香代はすがるような目でテーブルに身を乗り出した。

「稔さんはその後、密かにお友達の林さんという方に連絡をとっておられた。ご存じですか? 高校時代からのご友人だとか」

 香代は首を振った。

 小さく肩をすくめて厚子はカップをソーサーに戻した。

「その林さんは弁護士をされていて、親身になってご主人の相談に乗ってあげていました。林さんは私たちの事務所ともおつき合いがありますから、私たちは貴女が林さんとお話ができるように場を設定するつもりでいます」

「その林さんが詳しいことをご存じなのですか?」

 厚子は大きくうなずいた。「彼も是非貴女とお話がしたいと仰ってました」

「会わせて下さい」

 香代は悲痛な声で言った。

「もちろんです。年頃の息子さんがいらっしゃるのでしょう? でもこんなことを知られたら家庭崩壊」

 厚子は伝票を持って立ち上がった。

「私たちが力になります。どうか安心して下さい、香代さん」

 厚子はにっこりと笑って、放心して座り込んだままの香代の肩を優しくたたいた。

 

 

 その事務所はK市の駅近く、オフィスビルの5階にあった。

 灰色のドアを開けて、厚子が香代を中に促した。タバコの匂いが充満していて、香代は思わず顔をしかめた。

 磨き上げられたクリーム色のリノリウムの床で足を滑らせそうになり、慌てて厚子の腕にしがみついた香代は、奥の部屋にそのまま連れて行かれた。

 

 窓際に向かい合ったソファとガラス板のセンターテーブルがあって、その上に書類が揃えて置いてあった。壁には作り付けの大きなキャビネットがあり、女性が下着姿や裸体ではしたない恰好をしている写真が背表紙を飾るアダルト・ビデオのDVDやブルーレイディスクが床から天井までぎっしりと詰め込まれていた。

 

「いらっしゃい。お待ちしてましたよ」

 香代の姿に気づいてソファから立ち上がったのはやせぎすで顔色の悪い、グレーのスーツ姿の男だった。

「始めまして。林です」

 彼は香代に握手を求めた。香代はそれに応えず深々とお辞儀をして、すがるような目で言った。「あの、主人のこと……」

「まあ、お掛け下さい、香代さん」

 

 林は懐から名刺を取り出し、香代に手渡して先にソファに腰を下ろした。

 香代はその『弁護士 林倫太郎』と書かれた名刺をしばらく見つめ、恐る恐る彼と向かい合ってソファに座った。

 香代をここまで連れてきた厚子は、香代がソファに落ち着いたことを確認すると、軽く香代に会釈をして、黙ったまま奥の部屋に姿を消した。

「早速ですが」

 林はそう言って、テーブルに乗せられた封筒から書類を取り出した。

「黒田さんからお聞きになっていらっしゃると思いますが、」

 そうして林は香代の前にその書類を置いた。

「ご主人の稔君が女に騙され、暴力団から慰謝料を請求されています。これがその証書」

 香代はその書類に目を落とした。内容を読んでも意味がよくわからなかった。一番下の署名欄に二つの名前が書かれ、一つは林のものだった。大きな印が押してある。

「僕が稔君のために交渉してかなり減額させました」

「そうですか……」

「始めは二千万とふっかけてきたので、僕が法律に基づいて算定し、この金額に落ち着いたのです」

「に、二千万……」

「暴力団の言いなりになってはいけません。世の中には法律というものがあります」

 林は背筋を伸ばした。

「そしてすでに組の方には返済が済んでいます」

「え?」香代は思わず顔を上げた。

「ここの黒田さんが立て替えて下さったのです」

「そ、そうですか……」

「だから、貴女の借金返済の相手は黒田さんということになります」

「でも、400万なんて大金、私払えません……」

「わかります。それにこんな話、息子さんにも稔君の親父さんにも話せませんよね。わかりますわかります」

 林は腕をこまぬいて不必要なほど何度もうなずいた。

 

「助けて下さい、林さん、どうしたらいいのか……」香代は頭を抱えた。

 林は待ってましたとばかりに身を乗り出した。「そこで提案なんですが」

 その時、事務所の奥のドアが開き、腹の出た恰幅のいい大きな男が姿を見せた。

「おお、来てらっしゃったんだね、香代さん」

 思わず顔を上げた香代に近づき、にやにやと笑いながらその姿を上から下まで眺め回して、その大男は言った。

「我々が助けてあげますよ、香代さん。なあに、何も心配することはない」

 辺りの空気を揺るがすような野太い声でそう一気にまくし立てた男は、ソファの後ろにあるデスクに向かって椅子に腰掛け、おもむろにタバコを取り出して火をつけた。

 肩をすくめ、困ったような顔で林が言った。「ここの社長です。黒田太一さんといいます」

「黒田……さん?」

「ご夫婦で経営されているんですよ」

「そうでしたか……」香代は一度目を伏せ、すぐに顔を上げた。「あの、主人の慰謝料を肩代わりして下さってありがとうございます」

「なあに、たいしたことじゃない」

 黒田は言ってタバコを灰皿に押しつけた。

 

「さて、提案というのは、」林が別の書類を取り出して香代の目の前に置いた。「割の良い仕事を貴女に紹介しようというわけです」

「仕事?」

 林は上に置いた書類をずらして、下の請求書の400万と書かれた場所を指さしながら言った。

「そう、うまくいけばこの金額を三年半ほどで稼げます」

「こ、これって……」

「契約書です」

 後ろから黒田の声がした。「AV女優として働かないか、と申し上げているんですよ」

 林は申し訳なさそうに肩をすぼめ、上目遣いで言った。「今のところ、短期間でこれだけの借金を返せる方法は他にはないんです」

「とんでもない! 無理です」

 香代は腰を浮かせて大声を出した。

 香代の背後に黒田がのっそりと立っていた。

「いい話だと思うんだがな」

「相談しますか? 親父さんに」

 林が鋭い目で香代を見た。香代は黙り込んだ。

 

「大丈夫」黒田が香代の隣にどかりと座り込み、おもむろに馴れ馴れしく肩を抱いて言った。「契約に基づいて出演作も決めるから大丈夫。貴女に無理はさせない。ちゃんとここの事務所の社員としての契約だから、身分は保障されとるからな」

 

 香代は世の終わりのような顔をして黙り込んでいた。

 

 林が静かに口を開いた。

「ご家族には手紙を書いて下さい。四年後に戻ると。その間この会社が持っている社員寮のアパートに住んでもらいます」

 まるで他に選択の余地はない、と言わんばかりに林はまくし立てた。

「家賃は事務所が持ちますが光熱費は自費でお願いします。制作会社から支払われる出演料の6割が貴女のものに。まあその半分は黒田社長への返済のために毎回天引きさせてただきますが」

 香代は顔を上げ、虚ろな目をその男に向けた。

「出演の回数が多ければ多い程、早く家に帰ることができるということです」林はにっこり笑って続けた。「僕が貴女のマネージャーとして働きます。稔君のためにも。頑張って仕事をとってきますからね」

「契約期間は貴女がわしに借金を全額返済し終わった時まで。わかりやすいだろう?」横に座った黒田が自分の腹を撫でながら陽気に言った。「見たところ貴女にはAV嬢としての素質があるようだ」

「……やめて下さい」香代は弱々しく言った。

「いやいや、なかなかそそられる身体じゃないか?」

 黒田はそう言いながら香代の太ももをスカート越しに撫でた。

 香代は小さく震えながら抵抗もせずじっと身体をこわばらせているだけだった。

「芸名はカヨコで決まりだ。悪くないだろう?」

 黒田は片頬にいやらしい笑みを浮かべた。

 

 

 香代はその三日後、息子の将太や義父の建蔵に黙って最小限の荷物を旅行用バッグに詰め、密かに家を出た。

 後で詳しい手紙を書くと決めていたので、香代は便せんにひと言『都合で二、三日家を空けます。心配しないで下さい。また改めてきちんと説明の手紙を送ります』としたため、玄関の、いつも香代が庭で切った花を飾っていた一輪挿しの底に挟んだ。そして静かに玄関の引き戸を閉めた。軽やかな音と振動が香代の耳と手にいつまでも残った。

 それから駅で待ち合わせをしていた林と合流し、彼の案内でその日の内に黒田が指定したアパートに入ることになった。

 

 見るからに安普請のその部屋には、すでに女が一人住んでいた。

「香代さんね。入って」

 すっぴんで眉を剃り落とした顔のまま、その女は無愛想に言った。

 一緒に来た林が玄関先で香代に言った。

「何かあったら私に連絡を。これからのことはこいつにいろいろ教えてもらって下さい」

 そしてバッグから封筒を取り出し、香代に渡した。

「これは当面の生活費。5万入っています。仕事が入るまではこれで凌いで下さい」

「はい。わかりました」

 帰りかけた林は香代に向き直った。「そうそう、ご家族への手紙を書かれたら、私に預けて下さい。責任持って届けますから」

 そして林はあっさり背を向けてそこを離れた。

 

 戸惑いながら香代は靴を脱ぎ、部屋に入った。そのアパートは2LDKの広さで、玄関を入ったところに意外に広いキッチン、その脇にビジネスホテル仕様のバスルーム。キッチンの背後に一つ妙に立派なノブのついたドア。その横から奥に伸びる狭い廊下に沿って和室が二部屋並んでいた。案内された手前の六畳が香代の部屋だった。襖を開けると少しかび臭い匂いがした。窓はなくタンスが一棹と古びた三面鏡が隅に置かれていた。

 

「押し入れに衣装とか化粧道具とか入ってるから」

 同居の女が、缶ビールを片手に香代の部屋の入り口の柱に寄りかかったまま言った。

「それから撮影に必要ないろいろも」

 そして彼女は肩をすくめた。

「あたいリカ。よろしくね」

 

 香代は持ってきたバッグを畳の上に置いて、隣のリカの部屋との仕切りになっている押し入れを開けた。布団がなぜか二組、そして女性警察官と薄いピンク色の看護師のユニフォームがハンガーに吊されていた。また三段の衣装ケースがあって、その中にはロープや鞭、鎖、首輪、アイマスク、コードの巻かれた小さなバイブレーター、総スパンコールのブラジャーや黒いフェイクレザーの極小Tバックの下着など、およそ今まで香代が使ったことはおろか触ったことすらない怪しげなものが雑然と放り込まれていた。

 小さなめまいを感じて、香代は押し入れの襖を閉めた。その時部屋の外でリカの声がした。

「香代さん、ちょっと来て」

 

 

 そのリビングは洋室造りだった。キッチンから入る化粧ガラスがはめ込まれたドア以外に出入りするところはなかった。派手なピンクのカーペットが敷かれ、畳敷きの香代の部屋の内装と比べて極端に不釣り合いな豪華な二人掛けのソファが向かい合って二客、白いスチール製のセンターテーブルを挟んで置かれている。妙にスペースの多いその部屋は香代の部屋の約二倍程の広さ。壁にははめ殺しのダミーの窓がついていて、花柄のカーテンが下げられ、赤いタッセルで両端に束ねられていた。部屋の入り口に二つ並んだスイッチの一つは、その窓の奥に灯りをつけるためのもので、消せば夜、灯せば昼間、という演出ができるようにしてあるのだった。その窓の反対側には、これは本物の薄型テレビが黒いキャビネットの上に置かれている。

 

 香代とリカは向かい合ってソファに座った。

「質問して」

 リカが言った。

「え?」香代は小さな声で応えた。

「いろいろ訊きたいことがあるんでしょ? 質問しなよ」

 リカは手に持った新しい缶ビールのプルタブを起こした。プシュッという耳障りな音がした。

「何からお訊きすればいいのか……」

 香代はうつむいた。

「ま、わからないでもないわね。いきなりな話だったんでしょ?」

 香代は小さくうなずいた。

「誰だってこんな仕事やりたかないわよ。あたいだって」

 リカはビールをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

「でも、収入はいいわよ。お金に困ってるんだったら風俗よりも割がいいかもね」

「そう……ですか」

「幾つなの? 歳」

「35。夏で36になります」

 へえ、と高い声を出してリカは身を乗り出した。

「ほんとに? そんなに歳くってるんだ。あたいより上じゃない」

「リカさんは、お幾つなんですか?」

「あたいはまだ29だよ。てっきりあたいより年下かと思ってた」

 リカは目を丸くしたままビールの缶を口に持っていった。

 

「あの……」香代が顔を上げて小さな声で言った。「私のこと、いろいろ聞かれてるんでしょう? リカさん」

 リカはソファに深く座り直して言った。

「あたいがあんたについて知ってるのは、家族に秘密の借金を返すために林に言われるがままこの世界に足を踏み込んだ、ってことだけ」

「そうですか……」

「歳も今初めて知ったぐらいだもん」

「今は誰にも頼れない身なんです。どうか力になって下さい」

 香代はすがるような目でリカの顔を見つめた。

 リカはいいけど、とくぐもった声で言って少したじろいだように瞳を泳がせた。

 

 残っていたビールを飲み干すと、リカは低い声で言った。

「あんまりお互いのこと、こまごま訊いたり言ったりするのは好きじゃないのよ。っていうか、この世界にいる人間は普通の人より秘密が多いし、知られちゃまずいこともたくさんあるからね。あんたがいわゆるその典型じゃない」

「私、リカさんのことをいろいろ詮索したりしません。でも、私のことは……その、知って欲しい」

「そうね」リカは肩をすくめた。「せっかく同居人になったわけだし。何があったか知らないけど、あんたがすっごく不安になってることは、その顔見てればわかるわ」

 

 リカは立ち上がり、香代の隣に座り直した。

「愚痴を聞くのは全然平気。だからしばらくはあたいに向かって感情をぶつけてもいいよ。年下の先輩として受け止めてあげる」

 リカはチャーミングなウィンクをした。

 

 AVの世界に生きている女性がこんなかわいらしい顔で笑うのか、と意外に思い、同時に親近感も湧いてきて、香代は思わず涙ぐんでリカの顔を見つめた。

 

「ありがとう……リカさん」

「それに、以前ここで一緒に住んでた子が半年前ぐらいに失踪してから、あたいずっとここに一人だったから、何かと助かるわ」

「し、失踪?」

「AV女優の仕事に耐えられなくなったんじゃない?」

 リカは肩をすくめた。

「光熱費が割り勘にできるのも嬉しい」

 あはは、と子供のように笑ったリカの顔は香代の心をまた和ませ、それまでの緊張をほぐしていった。

 

「社長から言付かったことを言っとく」

 リカはソファの脇に置かれていた紙袋からスマホを取り出し、香代に差し出した。

「はい、これあんたの」

 香代は躊躇いがちにそれを受け取った。

「社長からの仕事の依頼はメールで届く。その都度自分でスケジューラに登録しといた方がいいよ。この仕事を辞めるときはそれは返却。社長とか社長の奥さんの厚子さんとか林とか、最低限の連絡先は登録してあるから。それからあたいのも」

 香代はスマホの電源をオンにした。軽やかな音がして画面に大きく『Pinky Madam』というロゴが現れた。

「通信利用料は天引きされるからあんまり頻繁に使わない方がいいと思うわよ」

「はい」

 

 香代はスマホのカバーを閉じて、リカに向き直った。

「この事務所に雇われてる女優さんって何人ぐらいいるんですか?」

「半年前に同居人が出てってからあたいを含めて三人だったけど、あんたが来たからまた四人」

「みんなこのアパートに住んでるの?」

「そうよ。でもここ以外にも事務所所有のアパートがあるの」

「そんなに羽振りがいいんですね、ここの事務所」

「考えてみれば変よね。女優は四人しかいないのにそんなに人が住むところがあるなんてね」

「今は空き部屋とか……」

「ううん。あたい一度そのアパートを見に行ったことがあるけど、確かに誰か住んでたっぽい。ベランダにエッチな下着とかが干してあったもん。でもここより狭そうでボロっちいの」

「女優じゃなければ誰が住んでるのかしら……」

「さあね」リカは首をすくめた。

「他にも撮影で使うマンションがまた別の所にあるわ。たぶんあんたの撮影でも使われるはずよ」

 

 それから香代は、リカから黒田太一が代表を務めるアダルト・ビデオのプロダクション『Pinky Madam』のことについて聞いた。主に主婦の寝取られ物を中心に制作しているAVメーカー数社と繋がりがあり、リカも『若奥様リカ』シリーズの作品の主役だということだった。相手役の男優はメーカーが制作する作品によって変わり、仕事は多い時で週に二回程度。少なくても月に三度ほどの撮影はあるらしかった。

 制作メーカーから一作品女優一人に対して支払われる出演料はその都度プロダクション『Pinky Madam』に天引きされて残りは現金で手渡し。仕事がない時は完全にフリーだが、役作りのために事務所指定の美容室やエステサロンへ通うことは欠かすなと言われた。

 

 香代は、義父や息子将太から姿を隠すため、リカに頼んでその日のうちに美容室へ連れて行ってもらった。そして肩まであった髪をばっさり切り落とし、赤みの強い色に染めた。アパートに戻ると自分の部屋でメイク道具を広げ、これもリカに指南してもらいながら、いかにも水商売風の派手なメイクを施していった。

「うん、いいんじゃない? ここに来た時とはもう別人だわ。ますます若く見える。悔しいな、何だか」

 リカは楽しそうに言った。

 変わり果てた鏡の中の自分の顔をじっと見つめながら、その時香代は、今までの自分をしばらくの間捨てることへの決意をせざるを得なかった。

 

 メイクの道具を片付けながらリカが言った。

「そうそう、あたい明日撮影日なんだ」

「そうなんですか?」

 リカはぷっと噴き出した。「あのさ、その顔で敬語使わないでくれる? ギャップが大きすぎて笑っちゃう」

「そ、そう?」

 香代はばつが悪そうに口をゆがめた。

「当分ここで二人で暮らすんだし。もっと打ち解けようよ、ね、香代さん」

 リカはそう言って香代の手を取った。

 香代は安心したように小さくため息をついた。

「香代さんに見学させろ、って社長からメールがあった。さっき」

「見学?」

「そ。ここのリビングで撮るの」

 香代は納得した。アパートの一室にしては無駄に広く、わざとらしい飾り気の多いリビングだな、と思っていたからだ。

 

 

 次の日、リカの言った通り二人が住むアパートのリビングで『若奥様リカ~エッチ宅配便』の撮影が行われた。

 

 朝8時頃、香代とリカは撮影場所になるそのリビングでトーストとハムエッグの朝食をとった。

「あの、リカさん、人に見られながら、その、エ、エッチするのって、どんな感じなの?」

「別に何とも思わなくなったわ」

 トーストにべたべたイチゴジャムを塗りつけながらリカは言った。

「そりゃあ最初は緊張したわよ。でも監督にいろいろ言われるうちにその気になっていったのも事実かな」

「その気になるものなの? だって、お相手って初めての人で、別に好きな人ってわけじゃないんでしょ?」

「お金のため、って割り切っちゃえば平気よ。演技でごまかせば何とかなるしね」

「演技か……できるかな、私に」

「AV女優ってみんなそうなんじゃない? ま、今日の撮影を見て参考にしなよ」

 リカはそう言ってウィンクした。

「でもね、ラッキーなことに今日のお相手は一郎君。あたいのお気に入りの子なんだよ」

「一郎さん?何度か共演したことがあるの?」

「三回ぐらいかな。あの子あんまりイケメンじゃないけどクンニがうまくてさ、あたいいつもそれでマジでイきそうになるもん」

「そ、そう……」

「だから入れられて動かれるともうダメ、カメラなんか意識できなくなっちゃう。あ、この場合思いっきりその気になっちゃってるってことよね」

 リカは屈託なく笑った。

 

「あ、あの、」

「なに?」

「ちゃんと、その、避妊とかしてるの?」

「当然じゃない。あたい達は毎日薬飲むのが義務。社長に聞かなかった?」

 香代は首を振った。

「じゃあまだもらってないんだ」

「何を?」

「ピルだよ。今まで使ったことないの? 香代さん」

「ええ」

「さすがに妊娠したらまずいでしょ。入れて中出しが今や当たり前のAV業界だし」

「な、中に出されるの?」

 リカはあからさまに呆れ顔をした。

「香代さん、あんたAV観たことないの? 35にもなって」

「ないわよ」香代は少し反抗的に言った。

「お嬢様か」

「そんなんじゃないけど」

 

 リカは真顔で香代に身を乗り出した。

「あたいもそこはちょっと心配だった。でも相手の男優はみんなちゃんと検査受けてて、感染症の心配はないわ。彼らは定期的に診察受けて、その最新の診断書を持って来ないと撮影できないっていう決まりがあるぐらいだもの」

「そうなの」香代はほっとため息をついた。

「あたい達も受けるんだよ、診察。月一で。近々連れて行ってもらえるんじゃないかな、診療所に」

 

 

 10時頃から撮影の準備が始まった。香代たちのアパートに黒田社長と林、機材の入ったジュラルミン製の大きな箱を抱えた若い男性が三人、そして宅配便の制服を着た背の高い男性がやってきた。

「おはようございます」

 宅配便の制服の男性がリカに近づいて握手を求めた。リカは嬉しそうに微笑んだ。

「いらっしゃい。待ってたのよ一郎君」

「今回もよろしくお願いします」

 

 そのリカのお気に入りという男優は着ていた服を整えてドアの脇に立った。

「おお、香代さん」

 黒田が香代に気づいて近づいてきた。

「髪型を変えたと聞いたが、ずいぶん魅力的になったじゃないか」

「ほんとですね」ソファの後ろに立っていた林も言った。「まるで別人だ。この外見なら、もしご家族に会っても気づかれないでしょうな」

 

 香代の胸に針が刺さったような痛みが走った。

 

「あ、そうそう林さん」香代は言った。「家族への手紙、書きました。持ってきます」

 香代は自分の部屋から封筒に入れた家族への手紙を急いで持ってきて林に手渡した。

「よろしくお願いします、林さん」

 林はほんの少し眉を動かし、それを受け取った。

「私が責任持ってお届けしますよ、香代さん」

 そして林はそれを懐にしまった。

 

「あんたも見学していなさい。拓也のカメラの所から見るといい」

 黒田は香代にそう言って、カメラ用の三脚を広げていたスタッフを顎で示した。

 

 その拓也と呼ばれたカメラマンは男優一郎と同じぐらいの背丈で、肩の辺りの筋肉が充実した男性だった。香代はカメラマンの仕事をしているとあんなに逞しくなるのかしら、などと考えながらその身体をじろじろと見た。不意にその拓也の目が香代の視線を捉え、彼は軽く会釈をしてにっこり笑い、すぐに作業に戻った。

 

「そうそう、忘れんうちに渡しておこう」

 黒田はそう言って、使い古された皮のバッグから茶封筒を取り出し、香代に差し出した。

「使い方はリカに訊いてくれ」

「これは?」

 黒田はその問いに答えず香代から離れ、男優が持っていた台本に目をやりながら所々指さして彼に指示をし始めた。

 その間、やって来た三人の若いスタッフは機材をソファの後ろに広げたり、大きな三脚にカメラを取り付けたりしていた。

 

「今回の死角はテレビの横だ」

「テレビを入れた画は撮らないんですか? 社長」

「リカたちの演技が終わって、最後に撤収する前に撮る」

 ドアの脇に小さなテーブルが置かれ、画像と音声の調整機器とモニターが設置された。黒田はそれを覗き込んだ。

「拓也、ライトの案配はどうだ?」

 三脚に乗せられた大きなカメラのファインダーを覗いていた拓也が言った。「もうちょっとソファの背の辺りを明るく照らしてくれないかな」

 高い位置に構えたライトをいじっていた、スタッフの中でも一番若く見える男性が照らす位置を調整した。

「うん、それでいい」

 

 やがてセッティングが全て終わり、リカが主演のAVの撮影が始められた。香代は黒田に言われた通りに拓也の構えたカメラの後ろに緊張したように佇んでいた。

 

 ――宅配で訪れたサービスドライバーを部屋に招き入れた人妻リカは、受け取った荷物をセンターテーブルの上に置くと、出し抜けに彼に抱きついた。

「あっ! だ、だめです、奥さん」

 焦るドライバーをソファに無理矢理座らせ、リカは自分のシャツの胸のボタンを一つずつ外し始めた。

「大丈夫、主人は夜まで帰らないから」

 青いストライプの制服を着たドライバーはごくりと唾を飲み込んだ。そしてリカのブラジャーをつけた胸が露わになると、彼は我慢できなくなってリカをソファに押し倒した。

「奥さんっ!」

 そして二人は貪るように舌を絡めながら濃厚なキスを交わし始めた。

 

 カメラマン拓也はその様子を滑らかな動きでズームしていき、二人の重なり合った顔をアップにした。カメラ上に突き出た小さなモニターに映し出されるその画を見ながら、香代は自分の鼓動が速くなっているのに気づいた。

 

 先にリカがドライバーの制服に手を掛け、脱がせて上半身をハダカにすると、また二人は重なり合ってキスをした。

 

「カット!」

 いきなり黒田が叫んだ。

「拓也、カメラを手持ちに変えろ、もっとローアングルで撮るんだ」

「わかりました」

 拓也はそう言って、三脚からカメラを取り外し、両手で吊すように下げて床のすれすれまで下ろすと、絡み合う二人のすぐそばまで行ってひざまずいた。

「よし、それでいい。セカンドカメラはドアの所から引いて撮れ」

 その声に反応したのは少し小ぶりのカメラを抱えた痩せた男性スタッフだった。

「よし、続けろ。用意……アクション!」

 

 再びカメラが回り始めた。拓也が構えたカメラのすぐ近くでリカと一郎がお互いの服を脱がせ合った。そうしてリカが先に全裸にさせられた。

 ドライバーは下着姿のままリカの両脚を広げ、その秘部に口を当てた。そうしてじゅるじゅると音を立てながら谷間に舌を這わせ、唇で吸い付いた。リカは何度も大きく仰け反り、ああ、と大きな喘ぎ声を上げ続けた。

 その行為がしばらく続くと、やおら男優が立ち上がり、穿いていた下着をゆっくりと下げ始めた。間近で物欲しそうにその様子を見ていたリカは、ドライバーの太いペニスが現れ、跳ね上がると同時に我慢できなくなってそれを咥え込み、やはり大きな水音を立てながら吸い、舐め回した。

 

 拓也のカメラはその様子をずっと捉えていた。操作する拓也自身は見たところずっと冷静だった。香代はそのギャップに戸惑い、仕事に対する彼の姿勢にちょっとした感動を覚えていた。

 

 ソファに仰向けに押し倒されたドライバーの上にリカが跨がり、いきり立ったペニスに自分の秘部を押し当てた。セカンドカメラは二人の全身を映し、拓也のカメラはリカの表情をアップにした。

 リカはドライバーに下から貫かれ、激しく上下に腰を動かしていた。そして自分で乳房を掴んだり、クリトリス辺りを指でまさぐったりしながら大きく喘いだ。

 それから下になったドライバーが身体を起こし、足を伸ばして繋がったままリカとまた激しいキスを繰り返した。

 拓也は大きなカメラを肩に抱え直して二人の顔のすぐ横に位置した。モニターに映し出されているのは激しく唇を重ね合う二人の迫力のアップ。

 

 そこで休憩が入った。

 モニターを見ながら音声や映像の調整をしていたスタッフが、ドアの外に置かれたクーラーボックスからペットボトルの水を人数分運んできて、みんなに配り始めた。

 香代は部屋の片隅に膝を抱えて座ったままそれを受け取った。

「あ、ありがとうございます」

 

「拓也が撮るキスシーンはいつ見ても艶めかしくて萌えるね」

 ドライバー役の一郎がプレイバックの映像を覗き込みながら言った。

 リカも全裸で汗だくのままソファに座って、ペットボトルの水を半分程飲んだ後、荒い息を落ち着かせながら笑った。

「肌の色もきれいだし、実物以上に色っぽく撮ってくれるよね、いつも」

 

 10分程の休憩の後、リカが四つん這いになってドライバーがバックから挿入したり、立ったまま背後から攻めたりするシーンが続いた。そして最後のシーン。ソファに仰向けになったリカと一郎は、抱き合って激しく秘部同士を交わらせながら揺れ動いていた。

「イっていい? 奥さん」

「イって! いっぱい出して!」

 一郎の腰の動きが速くなり、リカが彼の首に手を回してその唇に吸い付いた瞬間、一郎はぐうっ、といううめき声を上げて動きを止めた。

 拓也のカメラはキスをしている二人の顔から滑るように繋がり合った秘部まで移動してその場所をアップにした。セカンドカメラは汗だくになった二人の全身を映していた。そして男優一郎のペニスが抜かれ、リカの顔に白い液が迸り出る様子を、拓也のカメラは的確に捉え、そのまま息を荒げたリカの顔をアップにした。

 

 

 薄手のローブを羽織りながら、リカは言った。「二回もイかされちゃった……」そして、照れたように、すぐそばでスウェットに着替えた一郎の腕を取った。

 一郎は頭を掻いた。

 

 モニターチェック係の若い男性がソファを濡れタオルでごしごしと拭いて、セカンドカメラのスタッフは電源コードを束ね始めた。

 拓也は操作していたカメラを元のジュラルミンケースに大切そうにしまい、蓋をしてロックを掛けた。そして緊張したように自分の背後で縮こまっていた香代に向き直ってしゃがみ込んだ。

「貴女が香代さん?」

 香代はこくんとうなずいた。

「始めまして。姫野拓也って言います。撮影現場、初めてですよね?」

「は、はい」

「どうでしたか?」

「私、自信がありません……」

「みんな最初はそんなもんですよ。そうそう、貴女の最初の作品、僕が撮ることになりましたから」

 にっこり笑って拓也はそう言うと、立ち上がって、カメラのケースを抱えてドアの外に出て行った。

 

2.初仕事
2.初仕事