K市すずかけ町のランドマークの一つ、ケネス・シンプソン(40)が経営する「Simpson's Chocolate House」は、町内で最も賑やかで活気のある三丁目のど真ん中に居を構える町のスイーツ店の代表格だ。ケネスがまだ十代の時に彼の父親アルバートが開いたこのチョコレート・ハウスは、奇抜でしゃれたそのカントリー風の店の風貌と、腕の良いショコラティエである店主アルバートの手によるチョコレートの数々のお陰でたちまち人々の心を掴み、今や近隣の町のみならずインターネットによる通信販売でも安定した固定客、リピーターを得ていた。訪れる客は親しみを込めていつしかこの店を『シンチョコ』と呼んでいた。

 

 この冬は例年になく寒い日が続き、ケネスの妻マユミ(40)は暖かく穏やかな春の日を待ちわびる気持ちをいつになく強く持っていた。

 そして四月、新学期が始まって大通りの桜並木もすっかり花を散らし、今は瑞々しい緑の葉を鮮やかに広げている。そして柔らかな肌触りの風が、新しい季節の幕開けに相応しい軽やかでうきうきするような気分を至る所に運び届けていた。『シンチョコ』の前庭にそびえ立つプラタナスも、その明るく穏やかな季節を満喫するようにその葉を揺らし、さざめいていた。

 

 マユミは、午前中の来客のピークが済んで、やれやれと伸びをしていた時に、店内の喫茶スペースの窓の外で小さく手を振りながらいたずらっぽく微笑んでいる女性に気づいた。

 店のエントランスの大きなドアを開けて、マユミはそのスポーティでタイトなジーンズ、桜色のゆったりとしたニットの春用プルオーバーの上に赤いショートコートを羽織った女性を招き入れた。

 

 「もう、来るなら前もって電話ぐらいしてくれてもいいでしょ?」

 マユミは困ったように笑いながら高校来の友人美穂を、いつもの隅のテーブルに促した。

 「ちゃんとあんたの手が空いた頃に来てやってるんだから文句言わない」

 「そのコート、鮮やかでいい色だね」マユミが言った。「まるでリンゴみたい」

 美穂はひどく嬉しそうに笑ってありがとう、と言いながらそのコートを脱いだ後、それをテーブル脇のカカオの木の形をしたハンガーに吊した。

 

 デキャンタからコーヒーを二つのカップに注ぎ分けて、マユミはそれをテーブルに運んできた。そしてカフェオレ色の前掛けを外しながら美穂に向き合って座った。

 「美穂、赤いコートなんか持ってたっけ?」

 「新調したの。似合ってた?」

 「なんか新鮮。今まであんたが赤系の色の服を着たの見たことなかったから」

 「気分を一新させたかったんだよ」

 「悪くないね。なんかちょっと垢抜けた感じ」

 「今までそんなに野暮ったかった? あたし」

 「そんなこと言ってないでしょ」

 

 「そうそう、こないだの成人式、真雪ちゃんも健太郎君も出席したんでしょ?」

 「うん。真雪は朝から着付けとかヘアセットとかで大変だった。女の子を持つとそういうのが面倒ね。健太郎の方はちょっと高めのスーツにそれなりのネクタイ締めて、はいおしまい」

 マユミは笑った。

 ケネスとマユミの夫婦には双子の兄妹健太郎と真雪がいた。

 「早いね、もう二人とも二十歳になったのね」美穂はにこにこしながらコーヒーを一口すすった。「ところで真雪ちゃん、龍くんとはうまくいってるの?」

 「もうラブラブ」マユミは少し呆れたように肩をすくめた。「でも真雪にとって龍くんは恋人というより弟みたいな位置づけかも。もともといとこ同士だからね」

 「龍くんまだ高校生だよね? 将来結婚するつもりなのかな……」

 マユミはテーブルに身を乗り出し、口角を上げて小声で言った。

 「去年のクリスマス・イブにプロポーズしたみたいよ、真雪の方から」

 「へえ、すごい! で、挙式はいつ?」

 あはは、と笑ってマユミは言った。「まだまだ先よ先。龍くん、まだ16だよ? それにどちらかが経済的に安定してからじゃないと結婚なんて無理でしょ?」

 「そりゃそうだ」

 

 「美穂の所の真琴ちゃんも年頃だね、来年高校でしょ?」

 「そうなの」

 「賢いから進学校狙ってるんでしょ?」

 「背伸びしちゃってね。将来は先生みたいな先生になるって言ってるわよ」

 「何それ。先生って?」

 「うちに家庭教師に来てる『誠也先生』に憧れてるんだよ」

 「そういうことね」マユミは笑った。「ご主人の英明さんはそろそろ校長先生じゃない?」

 「そうねえ、あの人ももう教頭になって三年経ったし、毎年校長試験受けさせられてるのは事実」

 「受けさせられてる?」

 「教頭になったら半強制的に事務所から言われるんだって」

 「そうなんだ……。でも英明さんなら校長として適任じゃない? 実直だし、教育熱心だし」

 「そうねえ」

 美穂は照れたように頭を掻いた。

 

 しばらく二人の話が途切れ、美穂はコーヒーを半分ほど飲んでカップをソーサーに戻した後、ほんのりと頬を染めて穏やかな口調で言った。

 「ねえ、マユミ、あたしの話、聞いて」

 「どうしたの?」

 「今までいろいろあったけどね、ようやく……」

 マユミも手に持っていたカップをテーブルに戻してその友人の幸せそうな視線を受け止めた。

 美穂はバッグから一枚の写真を取りだし、テーブルに載せた。そこには少し恥じらったように微笑む美穂を真ん中にして両方から彼女に寄り添うように立つ二人の男性の姿があった。