十一月。秋も深まり、しばらく下界の慌ただしさに翻弄されていた美穂が朝から見上げた時の青空は、いつの間にか透明度を増し、遙かに高くなっていた。

 その日の午後1時から始まった結婚披露宴は、親戚、招待客含めて30人ほどだった。英明も美穂もあまり派手な式を望まなかったからだ。美穂の両親や英明の親族もそれは納得してくれていた。

 こぢんまりとした会場で和やかな雰囲気の中、披露宴は進んだ。

 ピンク色のワンピースを着たマユミが高砂にやってきてウェディングドレス姿の美穂の前に立った。

 「おめでとう、美穂。ようやくゴールインだね」

 「ありがとうマユミ」

 「高校の仲間の中では最後から二番目だね」

 「そうね、みんな思ったより早くくっついちゃったね」

 「残るはユカリだけ」

 「あの子、なんか結婚しそうにないよね」

 マユミはウィンクをして小声で言った。

 「実はつき合ってる人、いるんだよ、ユカリ」

 「ほんとに? 知らなかった」

 「こないだお店に二人で来てたもん。もうすっごく仲良し」

 「二次会に来るんだよね? ユカリ」

 「うん、この後あたしが迎えに行くことになってる」

 「からかってやろうよ、二人で」

 マユミは笑った。「そうね」

 その時美穂の横に英明が立った。「マユミさん、今日はありがとう。忙しいのにすみません」

 「増岡先生、美穂をよろしくお願いします。こんな子ですけど」

 英明は思わず笑って言った。「どんな子でしたっけ?」

 美穂は顔を英明に向けて口を尖らせた。「今から解るでしょ」

 マユミは口を押さえて笑った。

 

 披露宴が終わり、ホールの入り口に立って招待客を送り出した英明と美穂は、控え室で着替えを済ませコーヒーを飲んでいた。

 「二次会大丈夫? あなた結構飲まされてたけど」

 「大丈夫だよ。自制する」

 英明は顔を赤くして親指を立てた。

 「ところで」美穂は躊躇いがちに口を開いた。「亡くなったお姉さんの息子さん、招待客の中に入ってなかったけど、良かったの?」

 「ああ、あいつは二次会から参加するって言ってたよ。嫁が厳しくてなかなか自由にできないらしい」

 「結婚してるの?」

 英明は肩をすくめた。「披露宴に出るとなったら夫婦で参加が当たり前だろ? でも他の親戚たちと顔を合わせたがらないんだよ、奥さんの方が」

 「そう、大変なんだね……」

 「僕たちにも扱いにくい嫁なんだ」

 「ご親族で二次会に来られるのはその甥御さんだけなんだね」

 「うん。僕が呼んだんだよ。たまには飲んで羽を伸ばしたいだろうし。それにあいつ明るくて昔から場を盛り上げるムードメーカーなんだ。君もきっとすぐに打ち解けて楽しめるよ」

 

 

 二次会は『らっきょう』という居酒屋だった。その奥にちょっとした少人数用の個室があって、二つのテーブルにお通しと箸が全部で11人分並べられていた。

 英明と美穂は壁を背にした席に並んで座った。この二次会に参加するのは英明の学校の同僚4人、美穂の高校時代の同級生マユミとユカリ、短大時代の友人二人、そして英明の例の甥。

 

 英明の同僚と美穂の短大時代の友人が席についたところでその会は始まった。

 英明の横に座った同僚の乾杯、というかけ声と共に皆がグラスやジョッキを合わせ、すぐに賑やかに盛り上がった。すでに参加者には昼間の披露宴で少なからずアルコールが入っているだけに、賑やかな宴会モードに入るのにはいくらも時間はかからなかった。

 それから間もなくマユミがユカリを連れてやってきた。

 「ごめんなさい、遅くなっちゃって」

 マユミが申し訳なさそうに言って美穂の隣に座った。その横にジャージ姿のユカリが座った。

 美穂が言った。「あんたなんでジャージ? ユカリ」

 「今までジムにいたんだ」

 マユミがおしぼりで手を拭きながら横目でユカリを軽く睨んだ。

 「二次会とは言え、少しはよそ行きの格好で来るもんでしょ?」

 「あたしにとってはこれがよそ行きだもん」

 「何言ってるの。高校時代からちっとも変わってないね、あんたは」美穂は遠慮なく呆れ顔をした。「飲み物は?」

 「ああ、入る時に頼んできた」

 「抜け目ないね」

 

 美穂の隣に座った英明が時計を見て言った。「遅いな……ちゃんと6時からって伝えたのに」

 「甥御さん?」

 「うん、」英明がとっさに顔を上げた。「あ、来たみたいだな、誠也」

 

 誠也? 美穂の身体の中で何かが弾けたような音がした。

 

 「ごめんなさい、叔父さん、途中、道が混んでて、」

 個室の入り口に立って頭を掻いていた誠也の手が止まった。美穂と目が合ったのだった。

 「なんだ、車で来たのか?」

 「そうだけど」

 「飲まないのか? せっかく居酒屋に来てるのに」

 「今日は休肝日なんだ」

 「嘘つけ」

 誠也は笑った。「ここまでの足がなくてさ」

 

 誠也は敢えて美穂とは目を合わせないようにしながら空いていた個室の入り口に近い席に座り、おしぼりで手を拭いた。

 美穂の耳に、自分の心臓の速打ちが聞こえてきた。そしてまたあの身体の中心の疼きも……。

 

 宴が始まり小一時間ほどが経った頃には、もうそこにいる出席者のほとんどが酔いが回って大声になっていた。英明も美穂の短大時代の友人たちともすっかり打ち解けて、同僚たちも交えて職場での愚痴や昔話を語り合っては大笑いしていた。

 「あたし、ちょっとトイレに行ってくる」

 美穂が隣の英明にそう告げて席を立った。

 「ごめん、マユミ通して」

 美穂は席を離れ、個室を出て行った。ユカリの隣の席に座っていた誠也は、その姿を周りに気づかれないように目だけで追った。

 

 戻ってきた美穂はマユミとユカリに向かって言った。「ごめん一人分そっちに詰めて」

 「え?」マユミが美穂に顔を向けた。「あたしが英明さんの隣でいいのかな?」

 「平気よ。って言うか、もう彼、なかなか眠そうだから反応薄いよ」

 英明の横に移動したマユミ、その横にユカリ、そして誠也。美穂は誠也の横、この個室の入り口に近い端の席に座った。

 「英明さんの甥御さん、だよね?」

 「あ、はい。叔父がお世話になります」

 誠也は他人行儀な挨拶をして、テーブルに三つ指を突き額を擦りつけた。

 「誠也さん、っていうお名前なの?」

 「そうです。叔父から聞いたんですか?」

 「さっき初めて聞いたの」

 「そりゃひどい」

 誠也は笑った。

 それは事実だった。美穂は英明から甥が誠也という名前だということは、一度も聞いたことがなかったのだ。

 

 美穂と誠也は、今初めて会ったような会話を続けていた。他の参加者も別段それに気を向けることなく、相変わらずやかましいほどの声を張り上げ、遠慮なく騒いでいた。

 「どこでお仕事されてるの?」

 美穂が聞いた。

 「まだ大学三年です」

 「そうなんだ。バイトとかしてるの?」

 「こないだ辞めました。入学してすぐから青果の卸しの仕事を週に二日やってたんですけど、このところゼミが忙しくて、昼間はちょっと無理なんで」

 「なんで青果の?」

 「俺リンゴが大好きなんですよ」

 「って、扱ってたリンゴは売り物でしょ?」

 美穂は笑った。

 誠也は眉尻を下げて美穂に目を向けた。「でも九月にいきなり配達先を変えられちゃって」

 「そうなの?」

 「はい。なぜか理由はわかりませんけど、それまで何か月も届けていたスーパーから、別の所に」

 

 テーブルの下で、美穂は思わず誠也の手をぎゅっと握りしめた。

 

 動揺したように目をしばたたかせて誠也は訊いた。

 「み、美穂さんは仕事はされてないんですか?」

 「うん。あたしも辞めたの。勤めてたスーパーの店長が横暴で我慢できなかったから」

 「いつ?」

 「九月の半ば」

 「そうなんですね……」

 誠也の目を見つめて、美穂は言った。

 「それにあたし、毎週水曜日の朝に青果の卸でお店に来る人とせっかく仲良くなれたのに、急に来なくなったから張り合いがなくなっちゃって」

 

 誠也は繋ぎ合った美穂の手に指を絡めて握り直した。美穂の手のひらはしっとりと汗ばんでいた。

 

 「これからしばらくは専業主婦ですか?」

 「そうね」

 その時、英明の隣に座っていたマユミが美穂に顔を向けた。「美穂ー」

 美穂と誠也はとっさに握り合っていた手を離した。

 「な、何? どうしたの?」

 「英明さん、もうだめみたい。すっごく眠たそう」

 英明が弱々しい声で目をようやく半開きにして美穂を見ながら言った。「だめだ、もう起きてられない」

 美穂がやれやれという顔で立ち上がった。「しょうがないなあ……」

 そして隣の誠也を見下ろしながら言った。「誠也君、車で来てるんでしょ? あたし英明さんと一緒に帰るから送ってくれる?」

 誠也はひどく嬉しそうににっこりと笑った。「任せてください、美穂さん。俺が責任持って」