その年の暮れから美穂と英明の新婚生活がスタートした。

 少し広めのマンションに引っ越し、荷ときをしている時、美穂は小さめの段ボールの中にフォトスタンドを見つけ、手に取った。一枚の写真に、英明とその両親、そして英明によく似た中年の女性、その人の前に立つ小学生ぐらいの少年。

 「ああ、その写真」

 英明が別の段ボールを抱えて部屋に入ってきた。

 「姉とその息子も写ってるだろ? もう随分前のものなんだけどさ」

 「この子、誠也君?」

 「そうだよ。その頃は結構やんちゃでね」

 英明は笑いながら奥の部屋に入っていった。

 

 美穂はその写真をしばらく見つめていた。少年時代の誠也は、思いの外華奢な体つきで、いたずらっぽい笑みを浮かべて写っている。美穂はかつて彼に抱かれた時のことを思い出していた。逞しい腕に抱きすくめられ、夢見心地で過ごした時間を。

 

 

 英明は美穂との交際中から、事あるごとにしきりに子供が欲しいと言っていた。自分はもう若くないから、早い内に子供を作りたいんだ、と美穂を説得していた。

 美穂はこの先ずっと家族としてこの男性と人生を共にすることを心に決めていたので、それに応える心の準備はできていた。

 

 美穂はベッドで息を整えながら、隣でまだはあはあと荒い息を繰り返している英明に言った。

 「女の子だったらいいね」

 「女の子が欲しいの? 美穂は」

 「父親にとっての娘は妻以上の存在だって言うでしょ?」

 「そう言うね。でも僕がそうなるなんて実感はまだないよ」

 英明は照れたように笑った。

 「僕にとっては今も、これからも君が一番だよ」

 英明はそう言って、そっと美穂の身体を抱き、素肌をその大きな手のひらでさすった。

 美穂の心の中に柔らかく温かい安心感が穏やかに広がっていった。

 

 引っ越しの荷物がすっかり片付いてしまうのには一か月近く掛かったが、新しいベッドで英明が夜に美穂を求めたのは引っ越してから二日目だった。それから彼は一週間に二度ぐらいの頻度で美穂に挑んだ。

 ただ、やっぱり英明はその行為が辛そうだった。交際期間を含めて、もう何度も彼との情事を経験したが、いつも彼のものは硬くなりきれず、最後のフィニッシュまでにひどく時間が掛かるのだった。美穂はそれなりに気持ち良く、心が許せる男性に抱かれているという安心感はあったが、全身が弾けるような快感で包み込まれ、時にはそれに飲み込まれるような熱く激しいセックスはこの男性とはまだ一度も経験したことがなかった。その上、英明は最後に上り詰める時に、顔を真っ赤にして苦しそうに呻く。その反応は、気持ち良さの頂点というより、苦痛の絶頂というものに近かった。

 「英明さんは、あたしとの行為が楽しい?」

 「え? どうしたの? 急に」

 「なんか、いつも辛そうだから……」

 英明は申し訳なさそうな顔を美穂に向けた。「いつか言ったことがあったと思うけど、僕はセックスがあまり得意じゃない。というより、あまり気持ちいいと感じないんだ。昔から」

 「そうなの?」

 「それは決して君との行為が楽しくないってことじゃなくて、これまでの経験でも、それほど良い気持ちになったことはないんだ」

 「無理してるのね」

 「たぶん……」英明は頭を掻いた。「でも、君の身体を気持ち良くしてあげるのも夫としての僕の務めだから、がんばるよ」

 

 こういう男性もいるんだ、と美穂は改めて思った。男という生き物は常に性的なことを考えていて、チャンスがあれば女を抱きたいと考えているものだと思い込んでいた。そしてその行為に挑めば、決まって弾けるような快感を覚える。それはヘタをすると依存に走ってしまう程魅力的なもの、そうどんな男でも感じていると信じ込んでいた。しかしすぐ横にいるこの男性がその範疇にないことを、美穂は確かに身を以て実感していた。

 それから美穂は生理や排卵の時期を英明にも教え、妊娠する可能性が少ない時には無理して自分を抱かなくていいから、と伝え、英明もそれを了承した。

 

 

 年が明けた。英明と美穂は連れだって英明の実家の増岡家を訪ねた。

 「明けましておめでとうございます」

 美穂は英明の両親に玄関先で頭を下げた。

 「いらっしゃい、待ってたのよ、さあ上がって頂戴」

 英明の母親良枝は64歳。英明と同じように長く教職にあり、公立中学校を教頭まで務め、定年後は再任用を希望し、今は地元K市内の中学校の特別支援学級の担任をしている。父親道明の方は若い頃から勤めているすずかけ二丁目の『志賀工務店』に66になった今も通っている。腕の良い大工として若い職人たちの先頭に立ってばりばり働いている。

 「誠(せい)ちゃんももう来てるから、さっそく食事にしましょう」

 良枝は上機嫌でそう言って、英明たちを上がらせるとすぐに台所に駆け込んだ。

 

 義母良枝が『誠ちゃん』と呼んだのは、彼女の孫にあたる誠也のことだった。美穂が座敷の襖を開けると、掃き出し窓から差し込む陽を背中に浴びて誠也が座卓に向かって座っているのが真っ先に目に入った。彼は一瞬美穂を見て、すぐに目をそらした。

 「あんまり何も用意できてないけど、ゆっくりしていってね」

 瓶ビールを両手に持ってきた良枝がそれをテーブルに置くと、誠也はさっそく近くにあった栓抜きを手にとって一本開け、はす向かいに座った英明に勧めた。「叔父さん、どうぞ」

 「ありがとう。誠也にもなかなか会えないな。こんな時しか」

 「そうですね」誠也は笑った。

 

 誠也はその妻を連れてきてはいないようだった。結婚していれば正月など実家を訪ねる時には夫婦で来るのが世間の常識なのに、誠也の場合はそうではなかった。やはり彼の妻というのはそういう人なんだろうか、それとも退っ引きならない用事があってここに来ていないのか……。

 美穂は良枝について部屋を出た。そして一緒に台所に立った。

 「あらあら、美穂さん、座ってて頂戴、お客さんなんだから」

 「いえ、お義母さん、手伝います。あたしも増岡家の一員に加えてもらったんですから」

 「悪いわねえ、じゃあそこにある取り皿を持って行ってもらえる?」

 「はい」

 美穂はできるだけ誠也を見ないようにしたかった。英明と結婚して、一緒に暮らし始めて時間が経てば誠也のことは自然に忘れていくだろうと思っていた。しかし、さっき座敷に足を踏み入れ、彼と目が合った時、その一瞬の出来事で美穂の心と身体は如実に反応した。かつて親友のマユミが言った『そう簡単にいくの?』という言葉が何度も美穂の頭の中で反芻され、美穂の心はすでにかき乱されていたのだった。

 

 正月とは言っても、ここに集っているのは増岡家の道明、良枝のホスト夫婦の他には英明と自分と誠也というたった5人の少人数だ。会話も当然全員参加になってしまう。一つの座卓を囲んでいるのに、美穂が図らずも真向かいに座った誠也と口を利かないのは逆に不自然なことだった。

 「子供はまだ? 美穂さん」

 良枝が不意に問いかけてきた。

 「いやいや、おまえ、」横に座って焼酎を飲んでいた道明がすぐに口を挟んだ。「まだ結婚して二か月も経ってねえんだぞ、焦り過ぎじゃねえのかい?」

 「だって、英明ももう34よ、早い方が子供のためにはいいのよ」

 学校に勤め、いろんな家庭で育った子供たちと接してきたその良枝の言葉にはなかなかの重みが感じられた。

 「そう慌てなくても子は授かりもんだ。おめえが気に病んでもしかたねえよ」

 そう言って道明はお湯割りの焼酎をうまそうに飲んだ。

 美穂の右横に座った英明は複雑な顔をしてビールを煽った。

 

 「誠也君は今日は一人? 奥さんは?」

 美穂は思い切って誠也に話を振ってみた。その瞬間、部屋の空気が一気に淀んだ。機関銃のようにのべつしゃべり続けていた良枝は水を打ったように黙り込み、道明は一瞬手を止めた後、眉間に皺を寄せて焼酎のグラスを口に運んだ。

 「ああ、彼女は自分の実家に行ってます。親に呼び出されたとかで……」

 平静を装ったつもりだろうが、誠也は明らかに動揺していた。動揺と言うよりいたたまれない様子だった。腰をもぞもぞと動かして彼は座布団に座り直した。

 美穂は激しく後悔した。この場では口にしてはならない話題だったのだ。

 「飲んで」

 美穂はそう言うのがやっとだった。瓶を傾け、誠也の持つグラスに少しぬるくなったビールを注いだ。

 「親父は身体の調子はどうなんだ?」英明がわざとらしいぐらいの明るい声で父親道明に問いかけた。

 「なんだ、身体の調子って。わしはどこも悪くねえぞ」

 「だってもう66なんだろ? いろいろ気をつけないと」

 「けっ、大きなお世話だ」

 「もう、いつもこうなのよ」良枝が困ったように眉尻を下げた。「あたしも時々言うんだけどね、市の定期健康診断に連れてくのにも一苦労なんだから」

 「じいちゃんは病院嫌いだからね」誠也が割って入った。

 「どこも悪くねえのに医者なんか行くか」

 

 自分の不用意な一言のせいで重く沈んでいた空気が元の正月らしいアットホームな雰囲気に戻ったことを美穂は感謝した。親戚内で話題にすることさえ憚られる程、誠也の妻の評判が良くないことがはっきりした。その時美穂は言いようのない無力感に苛まれていた。

 

 

 それから間もなくして、美穂が妊娠していることが判明した。英明は飛び上がらんばかりに喜んだ。電話口で良枝も悲鳴に近い大声で喜びを表現した。

 美穂は新しい命を、好きな男性と一緒にこしらえたこの小さな命を自らの身体で育むという喜びを噛みしめていた。母親になるというのはこういうことか、と美穂は自分がさらに人生を前に進んだという充実感を覚えていた。そして自分が人生を共に歩くと誓ったこの男性と一緒にこの子の親になるために、出産についての本や育児雑誌を努めて読むようになっていた。

 

 自分のお腹が大きくなっていくにつれ、美穂の英明への思いもどんどん膨らんでいった。生まれる幼子を二人で守り育てるという漠然とした気持ちがしだいに現実味を帯びていった。夫の英明は、美穂が臨月近くになるとできる限り妻と一緒にいようと必要以上の仕事に手を出さず、同僚との飲み会も最小限のものに限定して、家庭にいる時間を最大限確保して美穂の身体とそこに宿った我が子をいたわるのだった。美穂はそういう英明の姿を見て、この人と結婚できて本当に良かった、きっと幸せな三人暮らしができる、と心から安心するのだった。英明はきっといい父親になるだろう。

 

 そしてその年の9月、二人が結婚した日から数えて一年も経たずに美穂は女児を出産した。名付けはそれほど難航しなかった。美穂が考えた『真琴』という名をその女の子に授け、英明と一緒に子育ての日々を送ることになったのだった。美穂の予想通り、英明は真琴を生まれたその日から溺愛した。目の中に入れても痛くないというのはまさにこの人のためにある言葉だ、と美穂は半ば呆れたようによく口にした。

 

 「そんなものよ」マユミは笑いながら言った。「うちのケニーも明らかに真雪だけをえこひいきしてるもん。ま、その分あたしが健太郎の方を溺愛してるんだけどね」

 『シンチョコ』の喫茶スペースで美穂とマユミは久しぶりに会って話していた。

 四か月を過ぎた真琴は美穂の腕の中ですやすやと寝息をたてている。

 「可愛いわね。あたしも昔を思い出すよ」その愛らしい寝顔を覗き込んで、マユミは目を細めた。「目元はお父さん似ね」

 「うん。みんなそう言う」

 「でもすぐ大きくなっちゃうよ?」

 「真雪ちゃんと健太郎君はもうすぐ5歳だよね。可愛いよね、二人とも」

 「もう双子だから赤ん坊の頃は大変だったよ」

 「あんたはその自慢の巨乳を二つも持ってるじゃない。母乳は余裕だったでしょ?」

 「な、何言ってるの。やめてよね、巨乳だなんて」

 「二人でも飲みきれないぐらい出してたんじゃない? あ、残りはケニーが飲んでくれるか」

 「な、なに言ってるの。恥ずかしいこと言わないでよ」マユミは赤面した。「でもケニーは子育てにすっごく協力的だからあたしは幸せかな」

 「やっぱりさ、英明さんも34歳だし、余計に可愛いって思うんだろうね」

 「そうね。若い頃は子供そっちのけで自分が遊びたいって思ってる人が多いから、特に父親は育児に無関心だって言うよね」

 「真琴にとっては幸せな状況かな。甘やかしすぎるのには気をつけとかないといけないけどね」

 美穂はそう言って笑いながらカップを持ち上げた。

 「どうして『真琴』っていう名前にしたの? 何か由来でも?」

 美穂は動揺したように数回瞬きをして、無理に笑顔を作りながら言った。「女の子らしくていいな、って前から思ってたの」

 「美穂や英明さんの字を使ったりはしてないのね」

 「あ、あまり囚われるのもどうかと思って」

 そう、と小さく言ってマユミもコーヒーを一口飲んだ。

 

 「ねえ、マユミ」

 カップを持つ手を止めて、マユミは美穂に目を向けた。「なに?」

 「あたしね、この子を産んで英明さんのことはますますかけがえのない人に思えるようになったんだけど、その……」

 美穂はそこまで言って口をつぐんだ。

 マユミがばつが悪そうにうつむいた美穂を見て、カップを静かにソーサーに戻した。

 「忘れられてないんでしょ。誠也君のこと」

 美穂はうつむいたままかすかにうなずいた。そして小さなため息をついた。

 「もうあの人のことを忘れることなんかできないんじゃないかって思い始めたの」

 「なんで忘れる必要があるのよ。それでいいじゃない、彼を好きなままで」

 「だって、それって問題じゃない。結婚した以上愛する人は一人だけって決まってるじゃない」

 美穂はそれでもすがるような目でマユミを見た。

 マユミは穏やかな笑みを浮かべて言った。

 「あたしはもちろんだけど、ケニーも真雪、健太郎二人とも愛してるよ。どっちか一人だけなんて絶対できない」

 「二人ともあんたの子供じゃない。そんなの当たり前よ」

 「真雪は結構活発でよくしゃべるしいつもにこにこしてる。でも健太郎は大人しくて落ち着いてる。タイプが違う二人だけどあたしたちは同じように大好きだよ。それにケニーはあたしを愛してるし、あたしも彼は大好き」

 「それって要するに『家族愛』でしょ? まあ、ケニーにはそれプラスαの愛情もあるでしょうけど」

 「ケニーのことが好きだと言っても、いつも抱かれて気持ちよくなりたいって思うわけじゃないよ。話をしてるだけで幸せって感じたり、手をつないでるだけで癒やされたりすることもよくある。きっと子供たちが成長すれば同じことするし、今だって健太郎や真雪にあたしキスしたりするよ? そう考えると恋人と家族の違いってなんだろう、って思うこともあるなあ……」

 美穂は黙ったままマユミの顔を見つめていた。

 「何でもかんでも選ぶ時は一つだけ残して後は捨ててしまえ、好きになる人は一人だけじゃなきゃだめ、なんて不自然だし、どだい無理だよ。人の心はそんなドライに割り切れるもんじゃないよ」

 美穂は静かに言った。

 「あんたの言いたいことは何となくわかる」

 腕の中で眠っていた真琴が不意に小さく手足を動かし始めたので、美穂はその顔を見ながらゆっくりと揺らしてあやした。小さな愛らしいため息をついて、その幼子は再びすやすやと眠り始めた。