Twin's Story 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第2作

忘れ得ぬ夢~浅葱色の恋物語~

2.温かな職場


 私は地元の短大を卒業すると、名古屋の障害者福祉施設『緑風園』に就職した。アルバートは相変わらず大阪でチョコレート職人として働いていたので、それから二人は頻繁に手紙のやりとりをして、お互いの想いを確かめ合わざるを得なかった。


 郊外にあるその施設での仕事は、入所している障害者の介助と訓練が中心だった。私は脳に障害のある入所者のクラス「たんぽぽ」の担当で、6人のスタッフと一緒に毎日朝から夕方まで、15人ほどの生徒の世話をしていた。生徒と言っても、下は17歳から上は52歳までの入所者。彼らの一日の生活の流れはそれぞれの特性に合わせて細かく決められていたが、そのプログラム通りに彼らが行動してくれるはずもなく、就職してすぐの頃はその想定外のことばかりの日々に疲れ果て、社員寮に帰ると夕食をとるのもそこそこに歯磨きもせず布団に倒れ込むこともたびたびあった。

 たんぽぽクラスの主任は神村照彦という背の高い40前の男性だった。職場では常に黒いスーツ姿で、笑顔がひどく優しく、私も仲間たちも彼の掛けてくれる慰めやいたわりの言葉に救われることも多かった。いわば上司としての適性を十分に持ち合わせた男性だった。


 私たちスタッフは昼、入所者の食事の介助をしながら、そこで一緒に弁当を食べることになっていたのだが、やはりクラスの生徒たちに振り回され、いつも自分が何を食べたのかさえわからないような状態だった。

 私と同じ短大出身で、在学中から仲の良かった橘(たちばな)敦子という友人が肢体不自由児クラス「つばき」に配属されていた。私と一緒にこの4月に就職し、同じ社員寮に入っていたのだった。

 その日昼食後交代でとる休憩時間に、たまたま彼女と一緒になった。ぞれぞれ所属が別々で、同じ施設内と言っても、その仕事の場所も内容も違っていたので、仕事中はなかなか話すこともできなかったが、その日は久しぶりに顔を合わせることができて、朝から溜まっていた疲れが少し癒やされる気がした。


「思ったよりキツイな、この仕事。そない思えへん? あっちゃん」

 私がため息交じりに同胞の前で気兼ねなく使える郷里大阪の言葉で言うと、敦子も困ったような目をして言った。

「そうやな。屋外活動はまだ暑いし、生徒は言うこと聞けへんし。そやかてあんた恵まれてるやん」

「なんで?」

「主任の神村さん、優しくて気遣い上手やし」

「あんたとこの主任はそうやないん?」

「あんまりわたしたちに関わってくれへん。外で垣根の剪定ばっかやってて」

「そうかー」


 その時、彼女がたった今『優しくて気遣い上手』と形容した神村主任がその休憩室に入ってきた。

「浅倉さん、何か困ったことはない?」

 私は少し慌てたように答えた。「え? はい。特に。今日はだいたい予定通りです」

「そう。良かった。二人ともゆっくりしてね。クラスでは気が抜けないからせめてこの時間だけでも」

 そう言って彼は入り口近くにある自動販売機で缶コーヒーを手にすると、もう一度私たちの方を振り向き、にっこり笑ってすぐに出て行った。


「事務所の前にも自販機あんのにな」敦子がテーブルに身を乗り出し、私の顔を覗き込みながら小さな声で言った。

「ほんまやな。なんでわざわざこんなとこまでコーヒー買いに来はんねやろ」

「それが気遣い、ってもんや。缶コーヒー買う口実でここ覗いて、わざわざあんたに声掛けてくれはったんやない。ああ、わたしんとこの主任にも見習うてほしいもんやわ」

 敦子はそうため息交じりに言って、紙コップに入ったオレンジジュースを飲み干した。



 数日後のある日。真夏の暑さも峠を越したのだろう、施設の裏手にある林でけたたましく鳴いていた蝉も、心なしかとぎれとぎれで控えめ鳴き方に変わっていた。


 午後5時を過ぎると、生徒たちは保護者の迎えの車や路線バスで一斉に帰宅していく。

 私は施設から歩いて1分ほどの場所にあるバス停で、担当の生徒二人をバスに乗せた。そしていつものように運転手に一声掛けた後、そのバスが走り去るのを見届けてから施設に戻った。

 正門を入った所で私は、門の横にある小さな花壇に咲き始めたコスモスが目にとまって、しばらくそこに立ったままそれを見ていた。その時、不意に肩を軽くたたかれ、思わず振り向いた。それは神村だった。いつものように彼は穏やかに微笑みながら私の顔を見下ろしている。

「どうしたの? じっと何か見てたみたいだけど。気になるものでも?」

「え、ええ。そろそろコスモスの時季だな、って思って見てたんです」

 神村も私が見ていた花壇に目をやった。

「ああ、これね。そうだね。もう、すぐに秋がやって来る。花、好きなの?」

「ええ。わたし、特にコスモスが大好きなんです」

「へえ。どうして?」

 私は少し困った顔をした。「特に理由はないんですけど……」

「そう」


 神村は微笑みながら私に顔を向け直した。「今日も一日ご苦労さん。疲れただろう?」

「そうですね……」私は遠慮なく大きなため息をついた。「こんなにハードな仕事だとは思ってませんでした。今さらですけど。学校で勉強してた時、想像してたのとは全然違います」

 神村は小さく笑った。「最初はみんなそんなもんだよ。そのうち慣れてくる」

「そうだといいんですけど……。もう半年近くなるのに、まだ皆さんにご迷惑をおかけしてばっかりで……」

「そんなことないよ。浅倉さんはよく働いてくれてる。僕もとっても助かってる」神村は目を細めた。「バス停まで生徒を送って、運転手にまで声を掛ける職員は今までいなかった」

「え? どうしてご存じなんですか?」

「うん。この前バス会社に挨拶に行った時、営業所の所長さんが言ってたんだ。運転手も助かってるって仰ってたよ」

「主任はどうしてバスの営業所に?」

 神村はひょいと肩をすくめた。「だって、うちの生徒が毎日世話になってるからね。月に一度ぐらいは出かけてるよ」

「そうだったんですね……」

 私はこの主任のフットワークの軽さや細かい気配りに感心しきりだった。

「ありがとう。いつも生徒のために」神村は私に向かって微笑んだ。

 私は照れたようにうつむいた。

「どう? 続けられそう? この仕事」

「はい、もちろんです。せっかく雇っていただいたんですから、わたしがんばります」

「そう。偉いね。でも無理はしないこと。わからないことや悩むことがあったら遠慮なく相談してね。プライベートなことでもOKだから」

「え?」私は思わず顔を上げた。

 主任は少し小首をかしげて私に目を向けていた。

「ありがとうございます」私は微笑みを絶やさないその上司の顔を見つめた。「わたし、恵まれてると思います。ほんとにいい職場で……。スタッフもみんないい人だし。主任も素敵な人で……」

 私はそこまで言ってはっとして言葉を飲んだ。『素敵』という言葉が話の流れに不釣り合いだと思ったのだ。


 その背の高い男性は何も言わずまたぽんぽんと私の肩をたたくと、施設の建物の中に消えた。



 9月に入って気づいたことがある。それは神村主任の弁当が手作りではなくなったことだ。

 彼は私たちがクラスの生徒たちと格闘しながら昼食をとる場に、週に2度程度やってきて、一緒に彼らの世話をしながら弁当を食べてくれるのだが、気づいた時にはそれが「おたふく弁当」に変わっていたのだ。

 「おたふく弁当」と私たちが呼んでいるのは、「おたふく」という仕出し屋が毎朝8時までに電話で注文を受け、昼の時間に会わせて配達してくれる弁当のことだった。独身の、特に男性職員はたいていそのシステムを利用する。職員室での朝の打ち合わせが終わると、誰とはなしに必要数を取りまとめて「おたふく」に電話をするのが日課になっていた。私は栄養が偏るのもいやだし、弁当を作ることをそれほど苦にしていなかったので、今までその「おたふく弁当」を利用したことは一度もなかった。

 私が見る限り、それから神村の弁当が手作りに戻ったことはない。ただ、だからといって主任である神村にその理由を尋ねるのも気が引けた。何か家庭内に事情かあるのかもしれないとは思ったが、それをあれこれ訊くことは、彼と私のその時の関係から言っても越権行為だとしか思えなかったからだ。


 そのことに気づいて、それほど日が経たないある朝のこと。私は久しぶりに早く出勤したので、いつも隣の机に座ったスタッフの一人、林田がやっていた作業をやることにした。彼女はいつも誰よりも早く出勤して、給湯室に入り、熱い茶を入れたみんなの湯飲みを朝の打ち合わせのタイミングに合わせてデスクに配って回る、という仕事をやっていた。私は五月頃、その二つ年上の彼女に、私がやります、と申し出たことがあったが、彼女は自分の仕事だから、と頑なにそれを譲ってはくれなかった。


 その日は私が給湯室でやかんの湯を沸かしている時に彼女がやってきて、やはりその後の作業をシェアしてはくれなかった。

「いいのよ、浅倉さん。これは私が好きでやってることだから」

「で、でも、わたし、新入りですし……」

 沸騰し始めたやかんの乗ったガス台の火を消した彼女は、遠慮なく呆れ顔をして言った。「まだ新入りの気でいるわけ?」

 林田は笑いながらスタッフの湯飲みを丸い盆に並べ始めた。

「じゃあ、手伝います」

 私はそう言って、大きめの急須に茶葉を入れ始めた。


 私はその作業をしながら、自分の考えが浅はかだったことを悟った。盆に並べられた様々な形と大きさの湯飲みはその半数以上が個人の持ち物で、残りは私を含めた数人だけが使わせてもらっている、施設で買い置きしてある味気ない湯飲みだったからだ。

「そう言えばみんな『マイ湯飲み』だった……」私が小さく呟くと、急須に湯を入れ終わった林田は口角を上げて言った。

「ね、いきなりじゃ無理なんだから」

 勝ち誇ったようにそう言いながら、彼女は並べられた個性的な湯飲みを一つずつ指さしながら、その持ち主を教えてくれた。「これは木村さんの、こっちが主任の」

 そうして彼女は私に顔を向け直してにっこりと笑った。

「しかたない。じゃあ、配ってくれる? 浅倉さん」

「あ、はい」

 私は、いつも彼女が独占していたその作業の一部でも任されたのが、妙に嬉しかった。


 私が職員のデスクを回りながら湯飲みを乗せ始めた時、施設長室での主任会議から神村が丁度戻ってきて、自分のきちんと整理された両袖の机に向かってよいしょ、と腰を下ろした。私は少し慌ててその机に近づき、神村の前に彼専用の白磁の湯飲みを置いた。

 神村は思わず私を見上げて、ひどく嬉しそうに微笑んだ。「あれ? 今朝は浅倉さんがやってくれてるの?」

「は、はい。林田さんに無理を言って、手伝わせてもらってるんです」

「またそんなこと言って」給湯室から出てきた林田が呆れたように言った。「神村主任、私が頼んだんです、彼女に」そして私にかわいらしいウィンクを投げた。

 神村はふふっと満足したように笑うと、その湯飲みを持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけた後、少しだけ茶をすすった。

「ああ、おいしい」神村は大きなため息をついた。

 私は残りのスタッフの分を配り終わり給湯室に戻ると、盆をふきんで拭って元の位置に立て直した。



 明くる日から朝のお茶配りは、私と林田の共同作業になっていた。

「あんなこと言ったけど、助かるわ、浅倉さん」

「そうですか?」私は茶筒の蓋に手を掛けて言った。

「このささやかな仕事自体は、私、苦にならないんだけどね、」林田はやかんの位置を少しずらして続けた。「私が休みの日が気がかりで」

「そうなんですか?」

「そうよ。だって、みんなの湯飲み、知ってる人、私以外にいなかったわけだし」

 困ったように眉を下げた林田に、私は目を向けて言った。「わたしがやりますから、これから気兼ねなくお休みをとってください、林田さん」

 林田はにっこりと私に笑顔を向けた。「ありがとう。そうする。浅倉さんって若いのにしっかりしてるわね」


 私は茶葉を入れ終わった急須を横に置いて、いつもの盆にスタッフの湯飲みを並べている時、そのほとんどにかなりの茶渋がこびりついていることがむやみに気になり始めた。

「林田先輩」

 急須にやかんから湯を注いでいた林田が、その作業を続けながら応えた。「なあに?」

「ここに漂白剤って、置いてあります?」

 やかんを五徳に置き直した林田は、残念そうに言った。

「漂白剤は置いてないわね。私見たことないもの」

「そうですか……」



 その日の仕事が終わってすぐ、私は近くの小さなスーパーから食器用漂白剤を買ってきた。そして給湯室に入ると、早速スタッフ全員の湯飲みを洗い桶に入れ、ポットの残り湯と足し水でひたひたにしてその漂白剤を中に垂らした。

 そしてその明くる日、林田よりもうんと早く出勤した私は、つけ置きしていたみんなの湯飲みをすすぎ、食器用洗剤で洗い直して、前の日漂白剤といっしょに買った真新しいさらしのふきんで丁寧に拭き上げた。


 そのことに最初に気づいたのは、当然林田だった。

「あれえ?! きれいになってる!」

 彼女は私が盆にすでに並べていたスタッフ全員の湯飲みを見てびっくりしたように大声を出した。

「もしかして、漂白したの? 浅倉さん」

「は、はい。ちょっとお節介だったでしょうか……」

「そんなことないわ。みんな喜ぶわよ。誰だって茶渋で汚れた湯飲みよりきれいな方がいいもの」


 その日、私がいつものようにデスクにみんなの茶を配っていると、神村がわざと他のスタッフにも聞こえるように言った。「浅倉さん、ありがとう。湯飲み、きれいにしてくれて」

 そして手を止めた私に向かって嬉しそうな笑顔を投げた。

 立ち上がって机に手をついたその背の高い主任に、私も恥ずかしげな笑みを返した

 

 用意した全員分を配り終わり、自分の机に向かって座った私は、ふう、とため息をついた。そして虚ろな目で本立てに並んだ障害者福祉関連の本の背表紙を眺めながら、湯飲みを持ち上げ、茶を一口すすった。

「どうしたの?」

 隣の林田が椅子に腰掛けると私に顔を向けた。「何だか元気ないわね」

「いえ、何でもないです。大丈夫です」そして私は無理して笑顔を作り、言った。「今日もがんばりましょう、先輩」

 

 

 私がため息をついたのには訳があった。大阪の恋人アルバートからの手紙が2週間ほど途絶えていたからだった。私はその間3通の手紙をしたためて彼に送った。しかし、毎日の仕事を終えてこの机を見ても、彼からの便りは置かれていなかった。

 私は彼に、手紙は寮ではなく職場に送って欲しいと頼んでいた。恋しい彼の、たどたどしくも一生懸命に書いた日本語の手紙を一刻も早く読みたかったからだ。

 最近は、いつも郵便物を宛名に応じて配ってくれる事務員の女性よりも先に、施設の郵便受けを覗くこともあった。しかしアルバートからの手紙はその束の中に発見できなかった。そんな日がここのところずっと続いていたのだった。

 

 

 それから数日経ったある日。夏に逆戻りしたかのように朝から気温がぐんぐん上がった。私は昼休みの時間に、クラスの女子生徒の使う教材について相談しようと主任を職員室に訪ねた。

 いつもその時間、机で文庫本を広げ、コーヒーを飲みながらくつろいでいるはずの彼の姿はなかった。

「主任はどこにいらっしゃるか、知りませんか?」

 私はハンカチで額の汗を拭いながら、丁度そこにいた同僚に訊いた。

「ああ、主任は午前中から裏庭にいるよ。花壇の手入れをするって」

「ええっ?! こんなに暑いのに?」

「主任、好きだからね、土いじり」

 その同僚は自分の机の引き出しから歯磨きセットを取り出すと、足早に職員室を出て行った。

 

 私は裏庭に出た。その広い芝生の庭を取り囲むようにして、煉瓦で囲まれたいくつかの花壇があり、それは各クラスごとに割り当てられ、名前がつけられていた。

 私は『たんぽぽの花畑』という木の立て札が刺さった花壇に目を向けた。プレハブのさして大きくもない農具倉庫のすぐ横にある、二坪ほどの広さのその花壇に向かって、神村主任はTシャツにジャージー姿でしゃがみ込み、汗だくになって一心に雑草抜きをしていた。

 

 丁度その時、二人の車いすの若い生徒がボールを持ってスロープを降りてきた。

「あなたたち、外で遊ぶのなら、帽子かぶらなきゃだめよ」

 私のその声を聞いて、神村は振り向き、にっこりと笑って軍手をはめた手を小さく振った。

 私は裏庭への出口に戻り、車いすの二人が所属するクラスの教室に向かった。そして中にいた担当の職員に事情を話して、二人の荷物から帽子を出してもらい、それを受け取ってすぐに裏庭に戻った。

「ほら。今日は特に暑いんだから。熱中症になっちゃうよ」

 私はそう言いながら二人に無理矢理帽子をぎゅっとかぶせてやった。


 目を上げると、先の花壇に神村はいなかった。

「あれ、もう中に入られたのかな……」

 私はそう独り言をつぶやきながら『たんぽぽの花畑』に近づいた。そこでは夏の間眩しく空を見上げるように咲いていたひまわりが、もう時季が過ぎてしょんぼりとうなだれ、枯れて立っていたはずだ。それはすっかり抜き取られていて、今が盛りと咲き誇るコスモスだけが、その花壇の半分に残されていた。そしてその根元の雑草もきれいに抜き取られ、土は丁寧にならされていた。

「神村主任」私はきょろきょろしながらそう声を上げてみた。

 彼の姿は見えなかった。

「浅倉さん?」

 農具倉庫の方から声が聞こえた。

 私はその小屋の裏手に回ってみた。


 少し西に傾いた陽をその庇が遮っている倉庫の陰に、神村主任は座って水筒の水を飲んでいた。

「やあ、浅倉さん。どうしたの?」

 そう言いながら主任はいつもの笑顔を私に向けてきた。

 彼はジャージを膝までまくり上げ、上に着ていたTシャツを脱いで裸になっていた。首にタオルが掛けられ、彼は汗で光った顔をそれで拭った。


 私は自分の鼓動が速くなっているのに気づいた。


「僕に用だった?」

「え? は、はい。大した用事じゃないんですけど……」

 神村は立ち上がった。


 背の高い彼のその半裸姿を見た時、私は大阪の恋人アルバートの身体を強く思い出していた。

 服を着ている時は、どちらかというと華奢に見えるその身体は意外に筋肉質で、ふっくらと盛り上がった胸の筋肉が健康的で逞しい印象を与えた。


「ごめんね、こんなはしたない格好で」神村は申し訳なさそうに笑って、また水を喉を鳴らして飲んだ。

「花壇の手入れをなさってたんですね」

「うん。君たち忙しそうだし。僕も嫌いじゃないから」

「お昼、まだなんでしょう?」

「ああ、一区切りついたら食べようと思ってた。もう片付けようとしてたところだよ」

 そう言って彼は私を伴って『たんぽぽの花畑』の見える所に移動した。

「確かに主任、お好きそうですね、園芸」

 神村は肩をすくめた。「若い頃はこんなことには全然興味も知識もなかった。でもこの職場に来て、しぶしぶやってるうちにおもしろくなってきてね」

「そうなんですね」

「でも良かった」

「え?」

 神村は私の顔を見てにっこり笑った。「ここにコスモス植えといて良かった」


 改めて見ても素敵な笑顔だった。子供のように屈託なく自然な笑顔が作れる人は、そう多くはない。私の知っているだけでもこの目の前の男性と、大阪にいる恋人アルバートぐらいだ。


「コスモス、好きなんでしょう?」神村が訊いた。

「はい」

「もうしばらくはこうして咲いてくれてるから、たっぷり楽しんでね」

「ありがとうございます」

 神村は腰に手を当て、ふっとため息をついた。「一年中咲いてればいいのにね」

 わたしは小さく笑って言った。「それじゃあ好きになれません」

「どうして?」

「花は自分が決めて咲く一時期にしか見ることができないから、きれいに見えるんです。そうじゃないですか? 土いじり好きの神村主任」

「素敵なこと言うね、浅倉さん。確かに君の言う通りだ」神村は右手を後頭部に当てた。


 その時私は、神村の首から鎖骨に向かって汗の粒が流れ落ちるのを見た。それはそのまま勢いづいて彼の胸を伝い、へその横を通り過ぎて穿いているジャージーのウェストゴムに吸い込まれた。


「自分の手で蒔いた種が芽を出して、育って、世話をした自分へのお礼のようにきれいな花を咲かせてくれる。そう思うと何だか楽しくてね。病みつきになっちゃったんだ」

 神村は本当に楽しそうに笑った。


「コスモスってね、」神村は花壇に向かってしゃがみ込み、競うように咲くその花の一輪にそっと手を触れた。「水揚げが悪くて、切り花には向かないんだ」

「知ってます」

 神村はそのまま振り向いて私の顔を見上げた。

 私も神村の隣にしゃがんだ。「花瓶に挿しても、三日と保たない。そんな花ですよね、コスモスって」

「うん。だからこの花を君の机に飾るのは無理だなあ」

 神村は立ち上がって頭を掻いた。


 頬を赤らめている私に気づき、彼は慌てたように言った。

「あ、ご、ごめん、すぐにシャツ、着るから」

 そして慌てて彼は手に持っていたTシャツを広げると、首に提げていたタオルをとって首を通した。そのシンプルで白い生地のシャツは、彼の肌から大量に噴き出していた汗に濡れて、彼の胸の乳首を透けさせた。



 鼓動はますます速くなり、慌てたように立ち上がると、私はここに彼を訪ねた用事もすっかり忘れて、その場を焦ったように離れた。

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