Twin's Story 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第2作

忘れ得ぬ夢~浅葱色の恋物語~

8.半世紀の時を経て


――謹啓

 『Simpson's Chocolate House』の皆様方にはますますご健勝にてお過ごしのことと拝察いたします。クリスマスシーズンを間近に控え、貴店も目の回るような忙しい時期を迎えておられることでしょう。


 さて、いきなり不躾ながらこのお便りを差し上げましたのは、私の父照彦からの強い要望があったからです。本来ならば父本人による言葉でシヅ子様にこの思いをお伝えするべきところですが、父も高齢になり、ペンを握ることが困難な状況。昔の人間故、もとよりワープロの操作などできるわけもなく、息子の私が代筆をしているというわけです。

 ただ、父の今のこの「思い」を貴女に伝えるべきかどうかということについては、彼自身ずっと悩んでいたようです。かつて貴女とは一切コンタクトを取らない、と宣言したと聞いています。父もそのことをかなり気にしていて、最後まで迷っておりましたが、自分自身の区切りをつけるために、最終的には貴女や貴女のご家族に対しての無礼を承知で、このような手紙をお送りすることを決心したようです。

 その上、ここに書いていることは本来父と貴女しか知らない高度にプライベートな内容であるにも関わらず、こうして第三者の私が関わっていることも、貴女を不快にさせる要因になるかと思います。そこはどうか、現在の父の身体的状況や真剣で熱い心情をお酌み取り頂き、お許しをいただきたいと思います。


 先日の日曜日、私は電話で父に呼びつけられ、彼と母が長男夫婦といっしょに住んでいる実家に出向きました。母は息子夫婦に連れられ温泉へ出かけていて、家には父しかいませんでした。

 彼は私にパソコンを持ってこい、と言いつけておりましたので、私は自分の使っているノートパソコンを持って部屋を訪ねました。

 ドアを開けると、父は赤ワインのハーフボトルと格闘しておりました。コルクの栓を開けるのに手間取っていたのです。そもそも字も満足に書けないほどに弱っている父の手で、ワインのコルク栓を開けることなど不可能に近いのです。それでも父は手を貸そうとする私を断固拒否して、長い時間を掛け、ついにそのコルクをぼろぼろにしながらもどうにか開けることに成功しました。

 父がなぜ今まで一度も飲んだことのないワインなんかを部屋に持ち込んでいたのか、と不思議に思いましたが、理由を訊いても、ちょっと飲んでみたかったんだ、と言うばかりでした。

 彼の傍らにはまた、古く煤けた細長い箱が置いてありました。私はワイン同様それも私をここに呼びつけたことに何か関係あるものだと思いましたが、父がそれについて自ら口を開くまでは敢えて訊かないことにしました。

 彼は、座卓に向かい合った私にパソコンを起動させ、これもわざわざ買ってきたらしい小さなワイングラスに赤い色をした酒を注ぎながら言います。手紙の代筆を頼む、と。

 グラスに注がれたワインにはたくさんのコルクのかけらが浮かんでおりました。



 遡って今年の6月の終わり、久しぶりに実家を訪ねた私とその妻は、年老いた両親と兄夫婦と共に夕食を楽しみました。

「ま、たまにはゆっくり親父と話でもしていってくれよ」

 歳の離れた兄は夕食後、そう言ってさっさと二階に上がっていきました。台所では食事の片付けと称して妻たちのかまびすしい会話が止めどなく繰り広げられているようでした。


 父照彦は、私に向かってぼそりと言いました。「シヅ子はどうしてる?」

 テレビのバラエティ番組を見るともなく見ていた私は振り向き、狐につままれたような顔をしました。「なんだって?」

「だから、おまえの娘のシヅ子は、」

「俺の娘は香織と志織の二人しかいないけど」

「そうそうその志織はどうしてる?」

 私は怪訝な表情を崩そうともせずに答えました。「普通に働いてるよ。会社で」

「彼氏はいるのか?」

「つき合ってる男はいるらしいよ」

「なにっ?!」父はいきなり大声を出しました。「どこで知り合ったオトコだ?」

 私はますます眉間の皺を深くして言いました。「何だよ、父さん、何興奮してるんだよ」

「まさか妻子持ちとつき合ってるんじゃなかろうな?」

 私は思わず噴き出しました。「そんなわけないだろ。なにバカなこと言ってるんだ」

「シヅ子は会社で、」

「志織だってば。自分の孫娘の名前を間違えないでくれないかな」

「会社で、その……上司から誘惑されたりしとらんのだろうな?」

 私はイライラしながら言いました。「知るかよ。って言うか、そんなことされたら拒絶するだろ、普通」

 父は少しうつむいて、上目遣いで私を見ました。「心配なんだよ……」

「あり得ない」私は肩をすくめ、目の前の父親に身を乗り出し、言い聞かせるように大きな声でゆっくりと言いました。「つき合ってる彼氏は会社の先輩らしいけど、ちゃんとした独身だし、そこで上司に絡まれたりしたら、その彼が始末つけてくれるんじゃないか?」

「……そうか」

 彼は安心したようにため息をつきました。

「何だってんだよ、まったく……」

 私は座卓に置かれていた湯飲みを手に取りました。

「おまえは、」

 また唐突に父が口を開きました。私は思わず目を上げました。

「まさか会社で若い子に手を出したりしとらんだろうな?」

「は?」

「宴会の場で口説いたりしとらんだろうな?」

「父さん……」私は本気で呆れ顔をしました。そしてこの老いた父が心配になりました。「どうしたんだよ。変だよ、今日は」

「いかん! 絶対いかんぞ! その子にはちゃんと恋人がいるかもしれんのだからな」

「いいかげんにしろよ。俺がそんなことするわけないだろ」

「シヅ子にも言っとけ」

「……『志織』だから」

「そんな誘惑に乗っちゃだめだ、って言っとけ!」


 

 その時、父が私の娘の志織のことをシヅ子シヅ子、と繰り返すので、私はついにこの人にも認知症の兆候が現れ始めたかと真剣に思い始めていました。

 腰を浮かせ、興奮して早口でまくし立てる父にお茶を飲ませてなだめ、ようやく落ち着かせると、私は大丈夫か、と言って父の背中をさすってやりました。

 彼はうんうん、と何度も小さく頷いて、横に座った私に向かって言いました。

「おまえに頼みがある」

 彼は湯飲みを目の前に静かに置いて、睨むように私を見ながら、今から話すことは誰にも言ってはならん、自分と妻が共に天国に召されるまで、家族にも、私の妻にも決して口外するな、と言いました。

 その深刻きわまりない父の様子に私が戸惑いながらもわかった、と言うと、彼は奥の台所をちらちら気にしながら、ある人の居場所が知りたいのだ、と言うのです。

 父があまりにも頻繁に妻たちのいる台所を気にするので、私はたまりかねて彼の手を引き、部屋まで連れて行きました。


 そこで初めて私は父から貴女のこと、貴女と父との過去を聞いたのです。彼が『シヅ子』という名前に拘っていた理由がようやく解りました。認知症の前兆ではなかったようで、私はほっとしました。


 帰宅してから、私は彼が記憶していた断片的なことを頼りに、パソコンを使って調べました。そして何とか貴女のお住まいを突き止めると、すぐに父に電話をしました。それは『Simpson's Chocolate House』のことではないか、オーナーの名前がシンプソンでチョコレートハウスだから、と伝えると、父は電話口でもわかるほどに興奮して、私に命令したのです。その店を訪ねてくれと。

 父のあまりの熱狂ぶりに断る術を失った私は、この夏貴女のお店を訪ねました。

 

 

 そして今日、再び父の部屋を訪ねた私は、そのことを元に貴女への手紙の代筆を頼まれたのです。

 父は正座をして、向かい合って座った私の目をじっと見ながら、緊張したように言いました。今からシヅ子さんに手紙を書く。そしてごくりと唾を飲み込むと、いいか、一言一句正確に、私が言うとおりに文字にするのだぞ、と念を押してきました。



 ここからはその父照彦本人の言葉です。彼が口にしたとおりの文章です。



 僕は貴女に、あの最後の晩『君も忘れないで欲しい。彼の手を永遠に離さなくて済むように』と言いました。覚えていますか? この言葉を僕は撤回します。どうか忘れて下さい。僕との時間の全てを含めて。

 あの言葉は男のわがままそのものであると遅まきながら気づきました。僕の心のどこかに、自分と貴女との出来事を思い出として大切にしまっておきたい、という思いがあったのだと思います。しかし貴女とその愛する恋人の絆を断ち切るような行為を続けておきながら、『忘れないで欲しい』とは何と傲慢で思い上がった考えだったのでしょう。まったくいい大人でありながらああいう言葉を吐いたことを、僕は今、強く後悔し、自分自身を腹立たしく思っています。

 その上、妊娠していたら責任を取るから連絡を、と言った言葉も無礼千万で、非常識で、僕は情けなさに今すぐにでも消えてしまいたくなるぐらいです。貴女が妊娠していようといまいと、僕はすぐに貴女の恋人に会って謝罪するべきでした。そして彼からどんなひどい目に遭わされようとも、それを甘んじて受け入れるべきでした。彼自身、男として自分の愛する女性の中に他のオトコがその精を放つ、などということを想像するだけで胸が爆発しそうになるはずです。そればかりかきっと相手のオトコの息の根を止めてやると怒りに震えるだろうことは想像に難くありません。そういう想像力があの時の僕にはありませんでした。お許し下さい。本当に申し訳ありませんでした。

 しかし、今だからこんなことが言えるのかも知れませんが、もし僕があの時、もう10歳、いや5歳若かったら、貴女を躊躇いなく彼から奪い取り、どんな手を使ってでも妻と離婚し、貴女を二度と離さないと叫びながら抱きしめていたと思います。それぐらい僕は貴女に本気になっていました。まったく恐ろしいことです。そう考えると僕が貴女を苦しいながらもあの時手放すことができたのは、思えば僕にとって、もちろん貴女にとっても本当に幸運なことだったと思います。


 ただ、お解りいただきたいのは、『彼の手を永遠に離さないでほしい』という願いは、あの時から僕の中に間違いなくあったということです。貴女が幸せになる最善の方法は、心から愛し合っている恋人とこれからずっと一緒の時間を過ごしていくこと。そういう思いは僕の頭の中に確かにありました。大好きだった貴女が、本当に幸せになることを考えなければならない。貴女との最後の行為の後、特にそう強く思ったのです。

 もちろん、それは『頭の中で』とお断りしたように、あの時はそう簡単に貴女を手放す気持ちにはなっていませんでした。貴女に渡すつもりの診察費を覚悟を決めてずっと前から準備していたにも関わらず、いざ貴女を抱いてしまうと大きな迷いが生じてしまっていました。しかし、貴女が僕の身体の上で震えながら涙をこぼし続けているその表情が僕を現実に引き戻しました。ああ、この人はやっぱり恋人の元に帰るべき人なんだ、と貴女の閉じられた目から頬を伝う涙を見て、僕は決心したのです。

 これもただの言い訳にしかならないことはわかっています。理屈で解っていたとは言え、貴女との関係を止められないままずるずると引き延ばしていたこと、そのことで貴女の心と身体を縛り付けていたこと。貴女とご主人に対して犯した僕の罪の重さは計り知れず、まして消えることなどありませんから。

 

 そうそう、貴女にお渡しした診察費の封筒、確かに敦子さんから受け取りました。これについても、僕の配慮の足りなさで貴女にいらぬご心労をお掛けしました。本当に申し訳ありません。その時、彼女から貴女に妊娠の心配がないこともお聞きしました。身勝手な言い分ではありますが、僕は正直ほっとしました。ただ、返していただいたあのお金は、もともと貴女のために使うはずのものでしたから、施設長にお願いして、花の種や苗を買うための足しにしていただくことにしました。そう言えば同封していたコスモスの写真が入っていませんでしたが、貴女の手元に残ったのでしょうか。お持ちだったとしてももう捨てられたでしょうね。あれは切り花にできない、貴女が大好きなコスモスの花を、せめてもと『たんぽぽの花畑』で撮ったものでした。

 

 僕ももう米寿。その誕生日に、そろそろ終仕度(ついじたく)をしなければ、と思い立ちました。こうして貴女への今の思いを手紙に託したのも唯一そういう理由からです。僕の人生の中での最大の失敗。そして罪。赦してくれるはずのない貴女に、それでも僕の最後の気持ちをお伝えしたかったのです。

 

 ただ、今の貴女の所在を突き止めるのにはちょっと苦労しました。

 かつて貴女と共に勤めていたあの『緑風園』は、貴女が退職されて半年後に僕も辞めました。未練がましい言い方ですが、貴女との関係を潔く完全に断ち切るためでもありました。貴女が去った後の職場には、その至る所に貴女の姿や笑顔の幻が残照のように残っていて、そのままこの職場で働き続けるにはあまりにも切なく、苦し過ぎたのです。その、僕が職場を去る本当の理由をご存じだったのは敦子さんと木村さんだけでした。

 木村さんは僕が退職を公言してすぐ、5月の休みに僕を訪ねてくれて、貴女に嘘をついて心を揺さぶってしまったことを打ち明けて下さり、丁寧に謝ってこられました。また僕がまだ貴女への思いを引きずっているのではないかと心配されていました。しかしその頃には僕の気持ちはもう随分落ち着いていて、家族の元に帰ることへの心の準備もほぼ整っていましたから、木村さんも安心されていたようです。

 貴女以上にご心配を掛けてしまっていた敦子さんは、退職する日、僕に『ご家族を大切になさってくださいね』と仰って下さいました。

 今のこの気持ちをお手紙でお伝えするにあたり、今年の6月、その敦子さんに連絡を取りました。貴女もご存じの通り、彼女は当時所属していたつばきクラスの男性と結婚し、その後も長くあの施設に勤められ、現在は退職して名古屋市内にお住まいです。彼女はきっと貴女と今も交流があるだろう、と思ったのです。

 ところが、僕が電話をし、シヅ子さんの今のお住まいを教えて欲しい、とお願いすると、敦子さんはにべもなく開口一番『お断りします』と仰いました。無理もないですね。親友の貴女を弄んだ男を、あの人も赦すわけがありません。『神村さんにはシヅ子にとっては主任のままでいて欲しかった』とも仰いました。もっともな言葉です。

 あれから半世紀近くも経つのに、僕は貴女だけでなく、こうしていろんな人を傷つけ続けているのだな、と恥じ入るばかりでした。そして受話器を置いた後、僕は何て無神経なことをお願いしたのだろう、とひどく後悔しました。

 

 貴女の居場所を特定する糸口になったのは、当時貴女に頻繁に届いていた彼からの手紙。差出人が英語名だったので覚えていました。Simpsonさん。大阪でチョコレート職人の修業をされている、という話をスタッフの木村さんからお聞きしたことを思い出し、息子にネットで調べてもらいました。『Chocolate』や『Simpson』『スイーツ』などをキーワードに検索していたようです。そしてようやく貴女が当時の彼と共に、すずかけ町という場所でチョコレートハウスを経営していらっしゃることを突き止めました。

 ただ、だからといって僕自身が貴女を訪ねるわけにはいきません。貴女と再会するなどという不遜な行為を自分で禁じているからです(もちろん脚も弱っていて、とうていそんな場所まで行けるわけはありませんが)。電話でお話しすることも許されません。そんなことをしてしまったら、また貴女に余計な心配や不快感を生み出してしまいます。そこで僕は息子にお店を訪ねてもらうことにしました。もちろん彼が僕の息子であるなどということはあなたに一切伝えない約束で。

 わざわざ新幹線に乗り、半日がかりで彼はこの夏一人の客として貴女のお店を訪ねてくれました。貴女のことはすぐにわかった、と申しておりました。優しく言葉をかけていただいた、とも。

 息子には、貴女が穏やかに、幸せに暮らしていることを確認するだけでいい、と申しつけていましたが、彼もいざ店を訪ねると、その恋人だったご主人はどんな人なんだろう、子供さんはいるのか、などといろいろ興味を持ってしまったらしくて、つい店の中で不審な言動をとってしまったと後悔しております。申し訳ありません。僕からもお詫びします。それでもその時は約束通り自分の素性を貴女にお伝えすることはなかったので、もし貴女の印象に残っているのであれば、ただのしつこい客だとしか思われなかったことでしょう。とりあえずほっと安心したところです。

 

 息子が言っておりました。とても素敵なおばあさまだったと。ご主人によく似ていらっしゃる青い目の息子さんは明るく、立派に二代目として店を継いでいらっしゃるようですね。お二人が仲良くアトリエ(お菓子屋の厨房をこう呼ぶことを初めて知りました)で仕事をしていらっしゃる姿を見て、とても微笑ましく思った、と申しておりました。お孫さんもいらっしゃるとか。若くフレッシュな男性が忙しく店内を動き回っておられたのがとても印象的だったそうです。

 僕は息子から貴店の『アーモンド入りチョコレート』の話を聞いて、涙が出るほど嬉しくなりました。なんでも貴女とご主人がご自分のお店を持たれて最初に開発されたオリジナルのチョコレートだとか。貴女が無事に愛する彼と一緒になり、生涯を共にすると誓った証なのだ、と思い、僕の罪が赦されたのだ、と勝手に解釈して感激したのです。息子が買って帰ったそのチョコレートを口に入れた途端、僕は図らずも実際に涙が止まらなくなり、息子にひどく心配されてしまいました。

 

 貴女の貴重な時間を奪い、こんなだらだらと長くとりとめもない、独りよがりな老人の駄文におつき合いいただいたこと、心より感謝します。

 

 どうか『彼の手を永遠に離さないで』という部分だけを残して、僕の言葉は僕の存在と共に貴女の中から消し去って下さい。

 

 

――父からのお便りは以上です。

 もう少しおつき合い下さい。彼の息子として私自身、貴女にどうしてもお伝えしておきたいことがあるからです。

 私は現在47歳です。私が生まれた時、父照彦は41歳になっていました。母はかろうじて30代。しかし高齢出産です。妊娠の確率も低い上に、生まれる子供に障害が発現する可能性も高いと言われています。それなのに、何故長兄とは15歳、二番目の姉とは一回りも歳の離れた私が生まれたのか。その経緯は貴女にお知らせする義務があると思います。

 

 父は前にも書いた通り貴女がかの施設を辞められて半年後に退職しました。

 現在62になっている兄に聞いたところ、父は兄が小学校高学年の頃からあまり自分たちに関わらなくなった、ということでした。母との会話もしだいに減り、兄が中学校に入学してすぐ父は自宅とは別のアパートに住み始め、週に一度程しか帰って来なくなった、と聞いています。自分と当時小学生だった妹はいわゆる母子家庭で過ごしているようなものだったとも言っておりました。母はそれでも気丈に彼らの世話をしてくれたらしいのですが、夜になるとよくため息をついたり、涙ぐんだりしていたそうです。

 ところが、次の年の6月、突然父が仕事を辞め、家に戻ってきました。母は平静を装っていたらしいのですが、それからすぐに私がお腹に宿ったことが判ると、彼女は父と共にひどく喜んでいたそうです。父にはもちろん母にさえ反抗気味で暗い表情だった兄や姉もしだいに明るさを取り戻し、父が職を移って収入が減ったにも関わらず、家族は穏やかに恢復したと言うことでした。

クリックで拡大

 これは私の勝手な想像なのですが、貴女がかの施設を去られて、父がそこを退職するまでの約半年間は、父にとって相当苦しい日々だったと思います。大好きだった貴女を思い、その面影を抱いて自らを慰める夜も続いたことでしょう、本人も言っているように、職場でも貴女の名残を感じては切なさに胸がつぶれる思いをしていたと思います。しかし、彼の心は次第に妻、そして子供たちに向いていったことも確かです。いつしか貴女への思いが潮が引くように穏やかに遠ざかり、代わりに家族への思いが少しずつその心を満たしていったのでしょう。父は半年をかけて真に貴女を解放し、家族を再び包み込む決意をしたのだと思います。


 私は、父と貴女の関係について、母もうすうす勘づいていたのではないか、と思っています。父と母のその時の会話や気持ちについて、私には窺い知ることすらできません。しかし貴女との時間は、父が家族の元に戻ってきた時、彼の心の中ですでに過去のものになり、母もそれを赦していたのは間違いないことだと思います。

 こんなことを傍観者である私が口にすることではありませんが、貴女にいらぬ心配をお掛けしてはいけないと思い、父の言葉と併せて記させていただきました。私たち家族は、それからずっと平穏です。どうかご安心下さい。


 結局父は、息子の私に口述筆記をさせ、少しばかりの昔話をしてくれている間、テーブルに置いていたワインのグラスを一度も手に取ることはありませんでした。このお酒はおそらく父が貴女と過ごしていた時の何かに関わるものだったのでしょう。しかし、私はそれを敢えて父に問いませんでした。彼がグラスとボトルを私に差し出して、お前にやる、もう私は死ぬまでこの酒を飲むことはないだろうから、とそれまで私が見たこともないひどく切なげな笑顔でため息をついたからです。私はグラスにも、瓶の中にもコルクくずが山のように浮かんでいたそのワインを、思わず苦笑いしながら受け取るしかありませんでした。

 私は彼の横に置いてあった箱のことについてどうしても知りたくて、思い切って尋ねました。すると父はその箱を手に取り、あっさりと蓋を開けて中を見せてくれました。そこには所々虫の食ったネクタイが入っていました。彼はそれを少しの間見つめた後、元通り蓋をして、私に言いました。この箱を覚えておけ。タンスの奥にしまっておくから。そして私の棺桶に入れて一緒に天国に送ってくれ、と。

 私はそのネクタイの経緯についても、その時涙ぐんでいた彼には到底訊くことはできませんでした。


 語り終わり、何かに解き放たれたように長く穏やかなため息をついた父は、薄い青緑色の封筒を取り出して私に手渡しながら言いました。「これに入れて送ってくれ」と。


 長時間に亘り、このようなとりとめのない文にお付き合いいただきありがとうございました。寒さ厳しき折、ご家族共々息災にてお過ごし下さることを、父と共に心よりお祈り申し上げます。

 敬具


                           神村篤志

シンプソン・シヅ子 様



「時間、っちゅうのは全ての人間に優しいんやな……」ケネスが静かに言った。

 横で一緒に読んでいたマユミも穏やかに笑みを浮かべて目をしばたたかせた。

「わたし今日届いたその手紙の差出人見た時、どきっとしたで」

「『神村』やったからか?」

 シヅ子は頷いた。「その上、下の名前があの人と違うやろ? まさか亡くなってもて、その知らせか、思たで。しかも、ほとんど誰も知らん、わたしすら封印しとったあの出来事の関係者が、なんで今頃、思た」

「おかあちゃんは」ケネスが手紙をシヅ子に手渡しながら言った。「もしこの手紙で神村さんが亡くなった、聞いとったらどんな気持ちになっとったんやろな」

「それは、」


 シヅ子は手紙を握りしめたまま、少しの間考えていた。


「心がざわついたやろな。もやもやしたもんが残ったままになったかもしれへん」

「どういうことや?」

「あの人がその後、家族とどうなったか、っちゅうことがやっぱり一番気がかりやった。それにあの人、悪人でもあれへんのに、わたしとの関係をずっと引きずって悶々と後悔し続けとるんとちゃうかな、思とったから」シヅ子は顔を上げて微笑んだ。「そやけど、この手紙もろうて、すっかり安心さしてもろた」

「ええ息子さんやな。この人自身がおかあちゃんと別れた神村さんの奥さんへの愛の証っちゅうことやからな」

「そうやな」シヅ子は穏やかに目を伏せた。


「夏にうちの店に来た、言うてはったけど、おかあちゃんは気づかへんかったんか? この息子さんに」

「気づいた、っちゅうより、もうびっくり仰天してしもたわ。体型も声も髪型も笑顔もあの人と瓜二つやったから」

「ばればれやったんやな」

「いやいや、もちろんそれがあの人の息子やなんて思うわけあれへん。そらそうや。歳格好が、あの時のあの人と同じなんやから」

「そう言えばそうやな」ケネスは笑った。

「世の中には、まあ、よう似た人がいるもんやなあ、思たで」

 ケネスがにやりとして言った。「どきどきしたり、せえへんかったか?」

「せえへんかった」シヅ子はオウム返しに言った。

 ケネスは肩をすくめた。「へえ」

「懐かしいだけやった。もう今さらときめいたりせえへんて」シヅ子は人差し指を立てた。「わたしがどきどきすんのは、今はアルバートだけやさかいな」

 ケネスは呆れたように笑った。「まだどきどきすんねんな、親父に。幸せなこっちゃな、二人とも」

「素敵なご夫婦ですね」マユミも笑った。

 シヅ子も少し照れたように笑った。

 

「この手紙、読ましてもろたら、もうこれで、ほんまにわたしもあの人もあのことを忘れられる、思た。あの人がこの中で言うてた通り」

 ケネスが悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。「わいは決して忘れられへん、思うで、おかあちゃんも神村さんも」

「え?」シヅ子は怪訝な顔で息子を見た。

 ケネスは爽やかな顔で言った。「別に忘れんでもええやんか。その出来事はもう大昔のことやし、ある意味それがあったから今の親父との濃厚な時間もあんねやろ?」

「そうなんかな……。確かに今はもう、淡い夢みたいな出来事に思えるな、あのこと」

「淡い夢? それにしては微に入り細に亘り、臨場感たっぷりで話しとったやないか。まるでエロ小説聞かしてもうてるみたいやった。わい、なかなか興奮して身体がむずむずしとる」ケネスは横に座った妻マユミの手をテーブルの下でぎゅっと握り、横目でシヅ子を見ながら続けた「おかあちゃん、今でもはっきり覚えとんのやろ? まるで昨日の出来事のように」

 シヅ子は観念したように言った。「忘れとうても忘れられへんがな……」

「その夢のままで覚えといたらええやん。今となってはもう二人が燃え上がることなんかあり得んし。愛しかった気持ちとか、切なかった気持ちとかと一緒に覚えとったらええがな。きっと神村さんもそう思てる」

「ケネス……」

 ケネスは自信たっぷりに、少しふんぞり返って言った。「今の手紙読んだら丸わかりやんか。あの人絶対死ぬまで忘れたりせえへんで、おかあちゃんのこと。おかあちゃんを本気で好きやったこと」

「困ったな……」シヅ子は苦笑いをした。


「おかあちゃんは、今の神村さんに会いたい、思えへんか?」

「そうやな……」シヅ子は穏やかな顔で少し考えた。

「どうせ、もう元鞘に戻ったりすることあれへんのやから、超久しぶりに会うて語り合うたりしとうないか?」

「……」

「脚が弱ってる、言うてはったけど、その気になれば今は駅もタクシーもバリアフリーやし、息子さんに連れられてでもおかあちゃん訪ねてここまで来れんことないやろ? 神村さんかてほんまはおかあちゃんに再会したい、思てるんちゃうかな」

「いや、」シヅ子が微笑みながら言った。「やっぱ会わん方がええ」

「なんで? 親父がいてて気まずいんか?」

「いや、そういうことやのうて、わたしが今あの人に会うてしもたら、あの時間は夢でなくなるやんか。お互いの今の老いた姿見てしもたら、壊れてしまうがな。せっかくの夢が」

 ケネスは顎に手を当てて言った。「そうか、そう言えばそうやな」

「あの人もきっとそう思てる」

「そうかもしれへんな。確かに文字だけやったら、今の気持ち伝えても夢は壊れたりせえへんからな」

 シヅ子は独り言のように言った。「あの人の悩んだ末の最善の方法やったんやないんか? この手紙」


「そやけどしっかりした文章やで。米寿の年寄りが言うたとは思えへん。さすがに本の虫だけあって、きちんとした日本語の紳士的な香りが文章からも漂うてくるわ。」

「ほんとだね」マユミも言った。

「神村さんが今も浅倉シヅ子のことはっきり覚えとって、真剣に今の思いを伝えよ思てる証拠やで」

 シヅ子は申し訳なさそうに肩をすくめた。「そうみたいやな……」

「ええやんか、それで。今は神村さんとおかあちゃんの夢の中にお互いが生きとるっちゅうことやろ? 現実の生活ではおかあちゃん、親父とずっとべたべた愛し合うとるわけやし」

「また恥ずかしいこと言いよるわ、この子は」シヅ子は小さく言って、照れくさそうに笑った。


「ケニー、」マユミがケネスの耳に囁いた。「いつまで手、握ってるの」

 ケネスは少し頬を赤らめてマユミに囁き返した。「さっきからうずうずしとる。もうあかん、マーユ、今夜……ええか?」

「もう、ケニーったら……」マユミは困ったような顔で同じように頬を赤くして小さく頷いた。

 ケネスは満足そうに微笑んでマユミから手を離し、テーブルのアルバムを引き寄せた。そして両肘をついて、それを見下ろした。

「なんか、」

 隣のマユミが小首をかしげてケネスを見た。「どうしたの?」

 集合写真の右端、シヅ子と神村が斜めに位置しているところを軽く指さして、マユミを見ながらケネスは言った。「始めはこのオトコ、なんちゅうことしてくれたんや、いてもうたろか、思て憎んどったけど、」

 ケネスは写真に目を戻した。「今見てみたら、なんやええ人に見えるわ」

「いい人じゃない」マユミが言った。

 ケネスはそのまま小さく頷いた。

 

「人生の途中で、油断して転んだだけ。怪我もしたけど、ちゃんと起き上がって、足や手に着いた泥も払って、また歩き始めたじゃない」

「マーユ、ええこと言うな……」

 マユミは照れたように小さな声で言った。「今になってようやくかさぶたが取れた、ってことなのかな」

 シヅ子が穏やかなため息をついて言った。「わたしも一緒に転んだんやな。あの人と一緒に。偶然手、繋いどったから……」

「そやな。ほんで一緒に立ち上がって、手え離して、それぞれ別の方向に歩き始めた、っちゅうことや」

「お義母さんの歩いていった先にはアルお義父さまがいらっしゃって、しっかり抱き留めて下さったんですね」

「いや、歩いてへん。走ったで、わたし。全速力で」シヅ子は言って笑った。「アルを突き飛ばす勢いで走ったで」

「親父も大変やな。こないなめんどくさい女に体当たりされて」

「やかましわ! そのお陰であんたがここにおるねんで! ちょっとは感謝したらどやねん」

「はい。そうでした。すんまへん」ケネスはぺこぺこと頭を下げた。

 三人は大笑いした。

 

 

 目の前のコーヒーを飲み干したシヅ子は、ゆっくりと腰を上げ、座卓を立つと、暖炉に身体を向けしゃがみ込んだ。

「神村さんとの行為は紙切れやけど、アルとの時間は薪みたいなもんなんや。不倫はすぐに火がついてあっという間に激しく燃え上がっても、あっけなく火が消えたら冷たい灰が残るだけや。そやけど薪はずっと熱く燃えて、火が消えても熾きとしていつまでも温かく残る。そんなもんや」

 そう独り言のように呟いたシヅ子は、持っていた手紙を封筒ごと明るく燃え立つ暖炉の中に入れた。

 

 それは眩しい炎を上げて燃え上がり、やがて白い灰になって数回小さく舞い上がった後、積まれた薪の隙間から下の熾きの中にさらさらと落ちていった。

 シヅ子は振り向き、ケネスとマユミを見た。「そやけど、放っておいたら、薪でもやっぱり消えて冷たくなってまう。時々補充せなあかん」

 そう言って、傍らに積まれた薪を一本手に取り、暖炉に入れた。ぱちぱちと音がして火の粉が舞い、それは燃え立つ炎にすぐに包まれ、自らも炎を上げ始めた。

 

 

 シヅ子が部屋に入った時、アルバートは赤い水玉のパジャマ姿で、窓際のロッキングチェアに揺られながら眼鏡を鼻までずり下げてうたた寝をしていた。膝には茶色の革カバーの掛けられた本が伏せられている。

 シヅ子はそっとその本を手に取った。

 椅子の横の丸い小さなオーク材のテーブルに、一本の赤ワインのボトルが立っている。その横には小ぶりのワイングラスが二客。

「朝言うてたワインがこれなんやな」シヅ子は独り言を口にして微笑みを浮かべた。


 テーブルに置かれていた金色のしおりをその本に挟んで閉じた時、アルバートがしょぼしょぼと目を覚まして眼鏡を外した。

 そばに立っているシヅ子を見上げたアルバートはにっこり笑って言った。

「ハニー、いっしょにガトーショコラ、食べマショウ」

「いや一人で食べんとちゃんと待っててくれてたん? アル」

「ハイ」

 アルバートは照れくさそうに頭を掻いた。


 シヅ子はベッドの脇のキャビネットから白いティーポットとダージリンの茶葉を取り出した。アルバートも椅子から立ち、彼女の横に寄り添うように立って二客のティーカップを手に取りテーブルに置いた。そして小さな冷蔵庫から二切れのチョコレート色の菓子の載せられた一枚の白い皿を取り出し、テーブルのカップの横に並べて置いた。

 シヅ子はお湯を入れたティーポットを運んできた。

「ごめんな、遅うなってしもて。話が長うなってな。ずっと待ってたん?」

「大丈夫。おかげでゆっくり本を読んでいられマシタ」

「ほんまはイライラして待っとったんやろ?」

「シヅ子を待つのは全然苦になりマセンよ」

「ほんまに?」

「遅くなっても必ずワタシのところに戻って来ますカラね」アルバートはぱちんとチャーミングなウィンクをした。


 シヅ子の鼻の奥につんとした小さな痛みが走った。


「それにしては待ちくたびれて鼻ちょうちん膨らかして眠ってたやん」

「本の中に眠りの呪文が書いてあったのデース」アルバートはシヅ子に椅子を勧めた。

 シヅ子は笑いながらそれに座った。


「アルは今でもなかなかわたしを責めてくれへんな」

 アルバートも椅子に腰を下ろした。

「責めて欲しいんデスカ?」

「わたしが粗相してもうたら、ちゃんと責めて欲しいわ」

「『ソソウ』? なんデスカ、それ……」

「失敗や軽率な過ちのこっちゃ」

「よくわかりまセーン」

 アルバートは困ったように眉尻を下げて笑った。


 シヅ子はポットから二つのカップに紅茶を注ぎ入れた。爽やかな香りが広がった。アルバートは目を閉じて鼻を鳴らした。

「ガトーショコラにはやっぱりこのお茶デスね」

「昔から好きやったな、アル」

「それは、ワタシがシヅ子はんと初めてデートした時に飲んだお茶だからデス」

「そうなん?」シヅ子は意外そうな顔をした。

「ワタシ、嘘は言いまセン」

「そうやったか? わたし覚えてへんわ」

 アルバートはひどく悲しい顔をして残念そうに言った。「それはヒドイ」

「あのな、」シヅ子は反抗的な目で夫を睨んだ。「あん時はアルにぽーっとなってて、何飲んだかなんて覚えてへんのや」

 そしてほんのりと頬を赤くした。


 アルバートは一転にこにこ笑いながら言った。

「相変わらずチャーミングデスネ。シヅ子の赤い顔」


 シヅ子は瞳を潤ませ、横に座ったその『恋人』の青い目を見つめた。

 そして小さな声で言った。


「アル、わたしにキスして」


 何も言わずににっこり笑ったアルバートは、椅子から腰を浮かせ、隣に座っていたシヅ子の頬を両手で柔らかく包み込んで静かに唇を彼女のそれに宛がった。

 薄目を開けたシヅ子は、一瞬そのアルバートの顔が在りし日の、結婚前につき合っていた頃の若々しい姿に見えた。


 はあ、と遠慮なく熱い吐息を吐いたシヅ子は、座り直した夫に赤い顔をしたまま目を向けた。

「相変わらず素敵や、アルのキス。チョコの匂いもするし」

「それは、このお菓子のせいデース」アルバートは笑いながらガトーショコラの最後のかけらをフォークで刺した。

「ハイ、あーん」

 アルバートが言うと、シヅ子は照れながら口を開いて目を閉じた。

 シヅ子はそれをゆっくりと味わいながら、紅茶のカップを手に取った。

「アルのキス、初めてされた時から全然変わってへんわ」

「ウソ」アルバートは肩をすくめた。「ワタシの唇、もうしなびてしまってマス」

「わたしのんもそうや。お互いそうやから変われへんのやないか」

「オオ、なるホド。ウマいこと言いマスネ、ハニー」


 シヅ子は空になった皿をテーブルの端に寄せた。

「なあなあ、ワインも飲まへんか?」シヅ子はアルバートに身体を向けた。「これやろ? 明智んトコからもろたん」

 アルバートはにっこり笑った。「相変わらず元気デスネ、シヅ子はん」

 シヅ子は立ち上がり、冷蔵庫を開けて小さな包みを取り出した。「これ、つまみに」

「何デスカ? ソレハ」

 シヅ子は包装を開き、中身をアルバートに見せた。

「オオ! カマンベール・チーズやおまへんカ」

 シヅ子は眉間の皺を深くした。「アル、あんた妙なタイミングで大阪弁使うの、やめてくれへんか?」

「仕方ないでショ。誰の夫だと思ってマスカ」アルバートは両手を広げ、肩をすくめた。「にしても、珍しいデスネ。いつもはさきイカかたこ焼き味のポテチなのに」

「思い出したんや」

「何ヲ?」

「若い時一緒に見たエッチシーン満載の『ホールド・ミー・テンダリー』や」

「『Hold Me Tenderly』? ああ! 覚えてマス! はっキリくっキリ。あの素敵な映画デスネ」アルバートはにこにこしながら異常にはしゃいだ。

「あの時あんた、ラブシーン見て興奮してたやんか」

 アルバートはいきなり真顔に戻り、焦ったように目を泳がせた。「それは忘れマシタ」


「わたしの手、ずっと握ったまま脚とか背中とか耳とか胸とかずっと触ってたやん。もう鬱陶しくてたまらんかったで。おまけにその夜はわたしをうつぶせに押し倒して、後ろからなんべんも攻めたやんか」

 アルバートは手を打った。「ソウか、あの恋人たちがワインといっしょに食べてたチーズでしたネ、カマンベール」

「話、そらしとる……」


「蘇りマスネ。あのドキドキ」

 シヅ子は小さく言った。「ほんまやな……」

「明日の映画も楽しみデスネ」アルバートは目を輝かせた。

「言うとくけど……」シヅ子はその夫を軽く睨んで言った。「映画館でわたしにべたべた触ったりせんといてな」

「え? だめデスカ?」

「当たり前や! 何恥ずかしいこと言うてんねん。人前でやることやないやろ、そんなん」シヅ子は顔を赤くした。「それより明日の晩、わたしを映画のエッチシーンと同じ目に遭わすつもりやないやろな」

「しないという保証はできまセーン」

「堪忍してえな……」シヅ子は困った顔で笑った。


 アルバートはワインのボトルを手に取り、慣れた手つきでオープナーをコルクにねじ込みながら言った。「ワインには媚薬効果のあるポリフェノールが豊富に含まれてマース」

「何いきなり講釈垂れてんのや?」

「その効果で身体がムズムズしてくるはずデース」

「……あのな」

 コルクをすぽん、と軽快な音を立てて抜き去ったアルバートは口角を上げて言った。

「ドリンク剤なんか飲まなくてもよさそうデスネ、今夜は」

「あほ」シヅ子は頬を赤くしたまま思わずアルバートから顔を背け、目だけを彼に向けた。

 アルバートはにこにこ笑いながら、二つのグラスにワインを注ぎ、その一つを手にとってシヅ子に渡した。彼女はそれを受け取りながら、アルバートの目を見つめ、ぎこちなく微笑んだ。シヅ子の頬はますます赤くなっていた。

 アルバートももう一つのグラスを持った。

「そのチャーミングな赤い顔が大好きデース」


 そして二人はグラスを触れ合わせた。高く透き通った心地よい音がした。


「なあなあ、アル」シヅ子はグラスの半分を口にして、隣に座った夫に目を向けた。

「ハイ?」

 シヅ子はグラスをテーブルに置いて、アルバートの空いた左手を握った。

「これ飲んだら、」

「飲んダラ?」

 アルバートもテーブルにグラスを置いた。

「わたしを抱いてくれへんか? 初めての時のように優しゅう」

 アルバートはにっこり笑った。

「ワタシはいつもシヅ子を優しく抱いてあげるデショ?」

「そうやな、」シヅ子も夫の目を見てにっこり笑った。「いつも、どんな時でも……何があっても優しゅう抱いてくれるわな、アルは」


 シヅ子はアルバートの肩に頭をもたせかけて幸せそうに目を閉じた。

 アルバートはそっとその髪を撫でた。


――the End


                                                                                2015,3,14


※本作品の著作権はS.Simpsonにあります。無断での転載、転用、複製を固く禁止します。

※Copyright © Secret Simpson 2015 all rights reserved


若き日のシヅ子とアルバート
若き日のシヅ子とアルバート
「あとがき」へ
次のページは「あとがき」です