Twin's Story Chocolate Time 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第3話

 

海の香りとボタンダウンのシャツ


3.ヒロユキ

 『ヒロユキ』は頭髪がロマンスグレーの紳士的な男性だった。濃いグレーのスーツにモスグリーンの細身のネクタイを締めていた。少し街から離れた喫茶店で待ち合わせをした。初対面で彼は美紀の目を見て微笑みながら右手を躊躇いがちに差し出した。美紀はその手を握りかえした。その手のひらは少し汗ばんでいた。

 『ヒロユキ』はあっさり本名を明かした。桂木 浩幸。43歳。農林水産庁の出先機関に勤めている公務員であることを、彼が渡してくれた名刺で知ることができた。


 テーブルに向かい合って座った桂木は、太い黒縁の眼鏡の位置を直しながら言った。

「お会いできて嬉しいです」そして笑った。

「あの、」美紀は渡された名刺から目を上げて、申し訳なさそうに言った。「こんな個人的なこと、あたしに教えてもいいんですか?」

 桂木はあはは、と笑った。

「私の個人情報を悪用するような女性ではないでしょう? 貴女は」

「信用して下さってるんですね」美紀は恐縮して、少し身を硬くした。


 この歳でまだ独身だなんて恥ずかしいですよね、と桂木が言うと、美紀も自分の独り身のことを打ち明け、なかなか恋人もできない奥手でいやになる、といったことまで話した。

 そしてしばらくとりとめもないことを話した後、目の前のコーヒーを飲み干して桂木は言った。

「この後、どうします?」

「え?」

「私たちの相性を……その、確かめませんか?」


 美紀は桂木がそわそわし始めたことに気づいた。その男性は大人びた風貌に不釣り合いなほど、落ち着かないように目線が揺れ動き、時折ネクタイの結び目に手をやって位置を整えた。


 緊張したような表情で黙り込んだ美紀の顔を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ桂木は小さな声で言った。

「いや、あの、貴女がもう帰られるというのであれば、引き留めません。もちろん」

 美紀はこの男性のその緊張した顔を見て、ふふっと微笑んだ。彼女の胸の中心が少し熱くなってきた。

「わかりました。貴男にお任せします」

「ほ、ほんとですか?!」桂木は腰を浮かせて大声を出した。「あ、ありがとう」

 美紀はその時、いつか誰かから聞いた言葉を思い出していた。


 ――女って、身体を許した相手にいきなり恋することがあるんだ。それで結婚を決意する人も少なくないって言うよ。


 大学の時の友達だったと思うが、その後、その彼女は妙に自信ありげに続けた。


 ――それまでその人を別に何とも思ってなくても、抱かれたってだけで気持ちまで持って行かれることだってあるんだから。



 美紀を後部座席に乗せた桂木のシルバーメタリックの車は、町はずれにある一軒のホテルの暗い地下駐車場の一角に納まった。桂木は焦ったようにナンバープレートの前に目隠し用の小さな看板を立てた。

 まだ明るい時間だったこともあり、空き部屋は多かった。桂木は迷うことなく一つの部屋を選んで点灯しているボタンを押した。その部屋の写真のバックライトが点滅を始めるのを見た時、美紀は今までに経験したことのない、速い鼓動を感じ始めた。


 その部屋は淡いピンク色の壁だった。二人がけの小さめのソファ、大型液晶テレビ、マッサージチェアが置かれていた。部屋の真ん中にあるベッドには白い無味乾燥なカバーが掛けられ、ピロケースは不釣り合いな南国系の花柄だった。

「シャワー、先にどうぞ」上着を脱いだ桂木が、ネクタイを焦って緩めながら言った。

 美紀は素直に従った。

 彼女がバスルームから出て、パイル地の短いローブを羽織って部屋に戻った時、桂木はすでに下着姿になっていた。地味なねずみ色の少しだぶついた、ウェストゴムがへそ辺りまであるブリーフだった。


 ベッドの真ん中に下着姿で横たわり、ケットを首まで掛けていた美紀を見るなり、桂木は焦ったように唯一身につけていた下着を脱ぎ始めた。左脚にそれが引っかかり、彼はよろめいてベッドに両手をついた。

 全裸になった桂木はケットを乱暴にめくり、いきなり彼女の身体に覆い被さってきた。そして鼻息を荒くしながら背中に手を回した。指をせっかちに動かしながらブラのベルトを外そうとするが、なかなかホックを外せないでいた。美紀が自分の手を背中に回し掛けた時、桂木はちっという舌打ちをして、同時にようやくホックが外れた。

 それから彼は美紀のレースの着いた薄いピンク色のショーツに手を掛け、一気に引き下ろした。


 美紀はそんな桂木の焦りきった行為に少しずつ拒絶感を感じ始めていた。


「桂木さん」美紀は小さく言った。「そんなに焦らなくても……」

 桂木は美紀のその言葉を聞くや、動きを止め、彼女の目を睨み付けるようにして、固く結んでいた口を出し抜けに美紀の唇に押しつけてきた。

 それから桂木はねばねばした舌をべろべろと出して、美紀の唇や口の中、口の周りを舐め始めた。


 苦いタバコの匂いがした。


 桂木は枕元にティッシュと一緒に置いてあったプラスチックの包みを手に取り、乱暴に袋を破り捨てて中のゴムを取り出した。美紀の両脚を広げさせたまま、彼は彼女の足下で膝立ちをしてそのゴムを自分のものに被せ始めた。

 ずいぶん手間取っているようだった。美紀は薄目を開けてその様子を見ていた。すでに身体中にたくさん汗をかいている。ごわごわした胸毛が露に濡れた苔のようにべっとりと生えていた。

 長い時間を掛けてゴムを着け終わった桂木は、美紀の右手を取り、自分のペニスを握らせた。そして小さく、しごいてくれ、と言った。それが彼がベッドに来てから初めて口にした言葉だった。


 手に握らされたそれは、柔らかくてふわふわしている、と思った。しかしひどく熱を持っていた。美紀は昔飼っていたハムスターを手に乗せた時の感触に似ている、と思ったりした。

 なるほど、この男性は緊張しているんだ。あたしに硬くしてもらいたいんだ、と美紀は納得して、言われたとおりにそれを前後にしごいた。たるんだコンドームが外れないように気を遣いながら美紀はその作業を続けた。


 少しばかりそれが大きくなって、硬くなりかけたか、と美紀が思った時、桂木は彼女の手を振りほどき、両脚を大きく抱え上げて身体を傾けた。


 しかしそれはなかなか美紀の中に入っていかなかった。

 桂木はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら何度も挿入を試みた。彼の顔面も首筋も汗が流れ落ちるほどになっていた。

 彼は何度も自分の手でペニスを握って、時々しごいたりしながら美紀の秘部へ侵入しようと必死になっていた。


 結局桂木の武器は、美紀の中に入ることなく、十分に硬くなることもなく、彼はううっ、という呻き声と共にその薄いゴムの中に少しばかりの白い液を放出して果てた。


 美紀が脱いだ服を身につけるより早く、桂木は元のスーツ姿に戻っていた。彼女は洗面所で顔を洗った。特に念入りに口元を洗い、何度もうがいをした。

 メインルームに戻り、美紀は言った。

「コーヒーでも飲みますか?」

「そうだね。いただこうか」

 桂木はさっきのベッド上での様子とは人が違ったように落ち着き払い、口元に笑みさえ浮かべてソファに腰を下ろした。

 ブラウスのボタンを留め終わって、美紀は液晶テレビの横に置いてあったコーヒーメーカーから一つのカップにその粉っぽい香りのするコーヒーを注ぐと、桂木の前に置いた。

「君は?」桂木は顔を上げた。

「あたし、コーヒーは苦手なんです」

「そう」

 桂木は一口それをすすると、口を離して横に座った美紀に身体を向けた。

「次は絶対大丈夫だから」

 桂木は満面の笑みでそう言って美紀の手を握った。


 美紀はもうこの男性と会うつもりはなかった。


「タバコ、お吸いになるの?」

 美紀が訊いた。

「え? 吸わないよ。プロフィールに書いてただろ?」

 美紀はそれを問いつめるのも無意味な気がして、そう、とだけ言って立ち上がった。

 桂木は不服そうに美紀を見上げた。

「もうちょっとゆっくりしていかない?」

「ごめんなさい。もう帰らないと」



 マンションの自分の部屋のドアを開けた時、腕時計の針はまだ8時前だった。


 桂木は美紀を車に乗せ、ホテルを出ると、運転しながらしつこくすぐにまた会おう、メールするから、と何度も念を押してきた。美紀は後部座席にずっと黙って座っていた。大通りに出る交差点で信号待ちをしている時、美紀はここで降ります、と言って、引き留める桂木を振り切って車から降りた。すぐに信号が変わり、何度も振り向いて美紀の姿を目で追っていた桂木は、後続車からの容赦ないクラクションでしぶしぶ車を発進させた。美紀はそこからタクシーに乗って帰宅した。


 部屋に入るやいなや美紀は上着を脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛けた。そして着ているものを全て脱ぎ去りあっという間に全裸になると、身につけていたその衣服を丸めて乱暴に洗濯機に放り込んだ。

 バスルームのドアを開け、美紀は焦ったように給湯レバーを持ち上げ、シャワーを全開にしてすぐに全身に浴びせかけた。身震いするほど冷たい水がしだいに温かさを得て、美紀はその迸るお湯に打たれながらしばらくじっとたたずんでいた。

「失敗だったな……」

 シャワーを背中に浴びながら、美紀は角が取れて丸く小さくなった深海のような色の石けん『シースパイス』を手に取り鼻に近づけ、大きく息を吸い込んだ。

 何か触れてはならないものに手を出してしまって、身体の中にどんよりとうずくまるように残っていたくすみが、その爽やかな香りによって浄化されていくような気がして、美紀はため息をついた。

「また買ってこなきゃ」

 美紀は手のひらに載せたその石けんを見つめながら呟いた。


 部屋に戻った美紀は、ショーツを穿き、いつものメンズのシャツを羽織ってノートパソコンを開いた。

「もうやめようかな……」

 美紀は『ハッピーカップル』のマイページを開いた。相変わらず身体をもてあましてセックスしたくてたまならないことがその文面からあからさまに解るようなメッセージが大量に届いていた。

 その中に『ヒロユキ』からのメッセージもあった。


『今度いつ会う? 私はいつでも君を抱いてあげられる。予定を教えて』


 美紀はもう『ヒロユキ』にメッセージを返信する気はなかった。だが、はっきり断った方がいいのだろうか、とも思っていた。


 その受信メッセージのすぐ下に『こうじ』からのメッセージが入っていた。

『調子はどう? 仕事はうまくいってる? 今日は特に暑かったけど、体調管理はしっかりとしてね。一人暮らしだと不摂生になりがちだし。あ、ごめんなさい、すっかりため口になっちゃってますね』

 美紀は思わず苦笑した。この男性はあたしとの話題がなくて困ってる。きっと会いたがってるんだろうな。


『こうじさんはフリーターって仰ってましたけど、あたしも一人で暮らしてます。気楽でいいけどもうあんまり若くないし、いい人がいればいいな、と思ってこのサイトに登録したんです』


 美紀は今まで『こうじ』とのメッセージのやりとりで――もちろん他の男性との実際の会話ででも――口にしたことのなかったことを記した。しかし事実だった。このサイトで選んだ三人の男性の内、この『こうじ』だけが何か違う雰囲気を持っている気がした。

 美紀は続けて書いた。

『よかったら一度お会いしませんか? 女の方からこんなお誘いをしたら引かれてしまうかもしれませんね(笑)』


 ノートパソコンをそのままにして、よし、と威勢良く言って立ち上がった美紀は、シャツのボタンを留めながらキッチンに足を向けた。

「お腹空いてきちゃった」

 美紀はそう言って、大きめの鍋に水を張って火に掛けた後、ストッカーからタマネギとニンニクとオリーブオイル、それにパスタの袋を取り出した。冷蔵庫からスライスベーコンを出してきて細かく刻み、タマネギとニンニクも手際よくスライスし始めた時、鍋の水がふつふつと小さな音を立て始めた。