Twin's Story Chocolate Time 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第3話

 

海の香りとボタンダウンのシャツ


9.居酒屋『久宝』

 ミカは美紀の部屋のドアチャイムを押した。もう三度目だったが反応がない。

「なんだってんだ、約束してたのに……」イライラしながらバッグからケータイを取り出そうとした時、背後に人の気配がしてミカは振り向いた。

 そこには黒縁の眼鏡を掛け、グレーのスーツを着たロマンスグレーの頭髪の中年男性が無言で立っていた。


「おや、貴男は?」

 ミカはその男に身体を向けて腰に手を当てた。

「おたくは誰です?」

 その男はあからさまに懐疑的な表情をしてミカを睨んだ。

「あたしはここの住人の親友です。何か用ですか? 桂木さん。桂木浩幸さん」

 桂木は驚いて一歩後ずさった。

「美紀からは絶縁されたはずでは? まだ付きまとう気ですか?」

「あ、あんたには関係ない」

「あたしの大切な親友がみすみす不幸になるのを見過ごすとでも?」

「不幸になんかしやしない。私は彼女を愛している」

 はっ、とせせら笑って、ミカは言った。

「貴男がやっていることは立派なストーカー行為。あたしすでに貴男のことを美紀から聞いて警察に相談しています」

「な、なんだって?」

「元々口の堅い子で、人の秘密を口外したりはしないけど、貴男のことは別。何とかして欲しい、って泣きつかれてね。いろいろ聞きましたよ」ミカは不気味な笑みを浮かべた。

「くっ……」

 桂木は脂汗をかき、滑稽な程歯を食いしばって身体を細かく震わせ始めた。
「勤務先にも訴えましょうか? 国家公務員なんでしょ? 農水省のお役人さんだとか」
 じりじりと後ろに下がり始めたのその男を、ミカは口角を上げて睨み付け、追い打ちをかけるように低い声で続けた。「興信所に依頼して、すでに貴男の家族構成、住所まで特定できてます。過去の女性関係も」


 桂木は言葉をなくして青ざめた。


 ミカはニヤニヤ笑いながら続けた「美紀を信用して教えて下さった個人情報。ここまで執拗に付きまとわれたら、それを使って仕返ししたくもなるでしょ?」
「ひ、卑怯だぞ」桂木は噛みしめていた唇をぶるぶると震わせた。
 ミカは声を荒げた。「何が卑怯よ! 貴男だって、美紀の電話番号、勝手に勤め先の店長に聞き出したんでしょ?!」

 ミカは一歩その男に近づき、腰に手を当てて大声を出した。

「とっとと消えな! この場で警察呼んでもいいんだよ?」

 桂木はきびすを返して何もないところで何度もつまずきそうになりながら走り去っていった。

 その背中に向かって、ミカはドスの利いた声で恫喝した。「もう二度と美紀に近づくんじゃないよ! このクズ男!」


 ミカはその場でケータイを取りだし、警察ではなく美紀に電話をした。

「今どこにいんの?」

『ごめん、ミカ、あたし逃げてる』

「知ってる。桂木のヤツからだろ?」

『え? どうして知ってるの?』

「たった今あんたの部屋の前に来たあいつを脅して罵って追っ払ってやった」

『ほ、ほんとに?』

「ああ。警察に言うぞ、って言って、個人情報をばらすぞ、って凄んだらしっぽ巻いて逃げてったよ。あははは!」


 ミカはついさっきの桂木とのやりとりを美紀に話して聞かせた。

「え? あたしあの人の住所とか女性関係とか知らないよ」

「ハッタリかましたんだよ」ミカはウィンクした。「青ざめてたから、身に覚えあるんじゃない?」

 美紀は少し涙声になっていた。『ありがとう、ミカ、助かった……』

「何てことないよ。あんなゴミ野郎、あたしも許せないからね」

『裏手の喫茶店『ジャマイカ』にいる。来てくれる?』

「わかった。すぐ行くよ」

 ミカはそう言って通話を切った。


 喫茶店『ジャマイカ』の一番奥の薄暗いテーブルに美紀は一人でうずくまるように背を向けて座っていた。

 ミカは近づき、美紀、と小さな声で呼んだ。彼女は申し訳なさそうな目でミカを見上げた。

「ミカ、ごめん。面倒なこと、させちゃって」

「全然気にすることないよ」

 ミカは美紀の向かいに座った。すぐに男性店員がやってきて注文を訊いた。ミカがホットコーヒーを、と言うと、彼はテーブルに置かれた注文票を取り上げて書き込み、そこを離れた。

「しっかし、あの男、見るからに病的な目してたね」

「そ、そう?」美紀は怯えたように言った。

「ストーカーってあんな目してるんだ、ってなかなか勉強になったよ」ミカは笑った。

 先の店員が白いカップを運んできて、お待たせしました、と言ってミカの前に置いた。

「また来るかもしれないね、あの人……」

「大丈夫なんじゃない?」ミカはカップを持ち上げた。「あたしがしこたま脅してやったから」


「でも、」美紀は中身が半分ほど減った紅茶のカップの載ったソーサーの縁を指でそっとなぞりながらうつむいて言った。「あんなにしつこい人だから、まだ諦めてないのかも……」

 ミカは顎に手を当てて言った。「また現れる可能性は、確かに0じゃないね」

「本当に軽率だった。あたし、人を見る目がないのかな……」

 

 組んだ手に顎を乗せたミカはにこにこ笑いながら言った。

「あんたがちゃんとしたパートナーとつき合って、その人にガードしてもらえばいい話じゃん」

「え?」美紀は思わず目を上げた。

 ミカはコーヒーを飲み干して膝を打った。「よしっ!」

 立ち上がったミカを見上げた美紀はきょとんとした表情で言った。「ミカ……」

「出るよ、美紀。飲むぞ」

「な、何よ、こんな時に……」

「これが飲まずにいられっか、ての」

 ミカは笑いながら美紀の肩を叩いた。



 ケンジはかつて通っていた『尚健体育大学』の屋内プールにいた。指導教官の木下は相変わらず口汚く部員たちを指導していた。

 プールサイドのベンチに座って、ケンジは洋輔と話していた。

「木下先生、全然変わってないな」

 ケンジが言うと、隣に立った洋輔も困ったような顔で応えた。

「俺、先生に褒められたことなかったからなー。今でもちょっとびくびくしてら」

 ケンジは笑った。

「そんなことより、ケンジ、なんで俺をこんなとこに呼び出す?」

「いや、懐かしくてつい。おまえは後輩の指導しに来たりしないのか? 家、近いじゃないか」

「数年前に木下先生に呼ばれて大会前に指導したことはあったけどよ、ここんとこ全然泳いでねえし、正直あんまり気はすすまねえ」


「おまえ、」ケンジが少し真剣な目を洋輔に向けた。「こないだ電話で自分の気持ちを俺に話すって言ってたが」

 洋輔は思わず身を固くした。

「俺、まだ聞いてないんだが。そろそろ話してもらってもいいか?」

 しばしの沈黙の後、洋輔は自分の膝に視線を落としたまま呟くように言った。「俺、つき合ってた彼女とは別れた」

 ケンジはちょっと意外な顔をした。「ケンカでもしたのか?」

「いや」

「いつものようにもう飽きた、って軽いノリで捨てたんじゃないだろうな?」

 洋輔はムッとしたようにケンジを睨んだ。「そんなことしねえよ。……こ、今回は」そしてすぐに目をそらした。

 ケンジは肩をすくめて洋輔の肩に手を置き、じっと彼の目を見つめた。「本命に気持ちを伝える決心をした。そうなんだな? 久宝」

 洋輔は思わずケンジから目を背けた。


 不意にケンジは立ち上がった。そして腕時計に目をやり、すぐに座ったままの洋輔を見下ろした。

「おまえが美紀先輩にちゃんと気持ちを伝えるってんなら、今からおまえんちに行くぞ」

「な、なんで美紀先輩に……」洋輔は真っ赤になってケンジを見上げた。

「顔に書いてある」ケンジは笑った。

「おい、ケンジ、意味がよくわかんねえんだけど。なんで俺んちに、」洋輔は立ち上がった。

「飲むんだよ。行くぞ、一緒に」ケンジはにこにこ笑いながら洋輔の腕を掴んだ。



「いやあ、久しぶりだね、この居酒屋」

「そ、そうだね」

 『居酒屋久宝』の小上がりに美紀とミカは向かい合って座っていた。ミカはお通しの枝豆に手を伸ばした。

「よく飲んでたよな、ここで、みんなと」

「懐かしいね」美紀はぎこちない笑みを浮かべた。

 生ビールのジョッキが二つ運ばれて来ると、ミカはすぐにそれを手に取り、ぐいぐいと喉を鳴らして飲んだ。

「相変わらずだね、ミカ」

「あんたも飲めば?」

 美紀は申し訳なさそうに眉尻を下げた。「あんたみたいにごくごく飲む気分じゃないなあ、今は……」


 その時、店の入り口の引き戸ががたがたと派手な音を立てた。

 えらっしゃい! と串焼きの厨房から声を掛けた店の主は、入ってきた男を見て不機嫌そうにつぶやいた。「なんだ洋輔のヤツか」

 店に飛び込んできた洋輔は立ち止まってきょろきょろと店内を見回した。まだ早い時刻だったので、客は点々とテーブルを埋めている程度だった。

「おいでなすったか……」ミカは小さくつぶやいて、またジョッキをあおった。


 洋輔は顔を赤くして、躊躇いがちに美紀たちのいるテーブルに近づき、横に立った。

 美紀はそんな洋輔を見ることもできずに身を堅くして膝に置いた拳を握りしめていた。

「せ、先輩……」洋輔が喉から絞り出すような声を出した。

 美紀はようやく上目遣いでその後輩を見た。

 出し抜けに洋輔は三和土に土下座をして、大きな声で言った。「美紀先輩っ! いらっしゃいませ!」

 テーブルに頬杖を突いていたミカは、思わず顎をその手からずり落とし、思い切り呆れ顔をして心底おもしろくなさそうに言った。「なんだよ、それ。そこは『俺とつき合って下さい』じゃないのか?」

 そう言って立ち上がったミカは、洋輔の腕を乱暴にとって立たせ、美紀の横に無理矢理座らせた。そして並んだ二人に向かってすごんだ。

「さあ、話を進めろ。いいかげん決着つけな」

 しかし二人はもじもじしながら黙っているだけだった。


 また店の入り口の引き戸が開く音がした。

 えらっしゃい! と今度こそはと威勢良く主が叫んだ。そして入ってきた客を見て、嬉しそうに続けた。「おう! ケンジじゃねえか。久しぶりだな」

 お邪魔します、と言ってケンジは戸を閉め、ミカたちのいるテーブルを見つけて近づいてきた。

「来たね」ミカが言った。

 ケンジは靴を脱ぎ、小上がりのテーブルのミカの隣に座りながら言った。「話は進んだ?」

「時間掛かりそうなんだよ。もうイライラしちゃう」ミカは眉間に皺を寄せて枝豆を摘み上げた。


「俺……」洋輔がぽつりと口を開き始めた。

 ケンジはおしぼりを、ミカは枝豆のさやを持ったまま動きを止め目を輝かせ、洋輔の次の言葉を待った。横に座った美紀はますます身を固くした。

「お、俺が、美紀先輩の、その、は、初めての男だって知りませんでした」

 そしてまた頭を下げテーブルに額を擦りつけた。「すんませんっ!」

「いや……そんなことどうでもいいから、」ミカが右手をひらひらさせながら言った。

「どうでもよくないっすよ。だ、だって先輩の大事な大事な女の操を、俺が奪っちまったわけでしょ?」

「じゃあ責任取れば?」ミカは投げやりな口調で言った。

 洋輔はまた黙り込んだ。


 ミカがますますいらいらしながら言った。「あのな、久宝、ケンジも聞いて。美紀はね、こないだからストーカー被害に遭ってるんだ」

「えっ?」ケンジが少し腰を浮かせた。

「ええっ?」洋輔は鋭く顔を上げた。

「キモい中年男に付きまとわれてたんだぞ。知らなかっただろ」

「な、なんでそんな!」

 洋輔はその日初めて隣の美紀の顔をまじまじと見た。

「あたし……」美紀はうつむいたまま独り言のように言った。「恋人が欲しくて……っていうか、結婚相手がいればいいな、って思って、その、出会い系サイトに登録しちゃったんだ」

 洋輔もケンジも固唾を呑んでその続きの言葉を待った。

「その相手から……しつこく……」

「み、美紀先輩……」

「あたし、きっぱり断ったんだよ、でも、今日もあたしの部屋に訪ねてきて……」

 美紀は涙目になっていた。

「そ、それって……」

 ミカが言った。「性懲りもなく美紀に今から部屋に行く、って電話掛けてきやがってさ、そいつ。怖くなって逃げてた美紀の代わりにあたしが玄関先で追い払ってやった」

「そ、そんなことしてたのか、おまえ……」横のケンジが眉間に皺を寄せて言った。

「絶好のタイミングだったね。あたしが美紀んちのドアチャイム押してた時、のっそりやって来てさ、見るからに病んでる感じだったから、消えろ、二度と来んな、って凄んでやったよ。あっはっは」

「さすがミカ先輩……」

 洋輔が安心したように言った。


「でも、」ミカが指を立てて洋輔に身を乗り出した。「美紀の勤め先にそいつがまたやって来る可能性は残ってる。前科があるんだ」

「そうなのか?」ケンジが言った。

「美紀の仕事が終わるのを待って無理矢理誘ってきた。そうだろ? 美紀」

 美紀はコクンとうなずいた。

「あ! もしかしてそれがあの時!」洋輔が小さく叫んだ。

「久宝君、あ、あの時はほんとにありがとう」美紀が消え入るような声で言った。

「あいつかー。実はストーカーだったんすね。確かにまともなヤツには見えなかったな」

 洋輔は険しい顔をして拳を握りしめた。

「でさ、美紀はもうそこの仕事辞めたんだよね」

「……うん。ほかにもいろいろあって。あの店で働き続ける自信無くしたから」

「無理もないっすね……」

 ミカは美紀に向き直った。

「仕事、どうすんの? 美紀。新しく見つけなきゃ」


「……あたし、接客は自分で向いてると思う」そう言いながら美紀はちらちらと洋輔の方に視線を送った。「飲食店みたいなとこで働くのは苦にならない」

「ふうん……」ミカは焼き鳥の串を取り上げた。

 ほんのりと頬を赤くして、洋輔は横目で美紀を見ながら言った。

「俺、今、求人出してるところ知ってます。み、美紀先輩にぴったりな飲食店」

「え? どこだよ、それ」ケンジが口をもぐもぐさせながら言った。


 洋輔が緊張した面持ちで言った。「い、居酒屋久宝」


 美紀は思わず洋輔の顔を見た。そして少しの間絶句したまま彼の目を見つめた。

 洋輔はとっさにうつむき、自分の膝に視線を落とした。

 テーブルの下でミカは隣のケンジの手をぎゅっと握った。ケンジも汗ばんだ手のひらで握り返した。そして二人とも固唾を飲んで、次の展開を待った。


 長い沈黙の後、美紀が絞り出すような声でやっと言った。

「い、今、面接してもらっても、いいかな」

 洋輔は顔を上げ、瞳を落ち着かないように揺らめかせながら、引きつった笑みを片頬に浮かべて、そっと美紀の手を取った。

「そ、その必要はないっす、先輩。お、俺が採用します」


 やれやれ、と大きなため息をついて握っていたケンジの手を離し、ミカはジョッキに残り生ぬるくなったビールを飲み干した。

「お代わり!」

「あ、はいはい」洋輔は照れたように笑って、ミカの空になったジョッキを持って立ち上がった。