Chocolate Time 外伝 Hot Chocolate Time 3 (第3集) 第1作

鍵盤に乗せたラブレター

《2.男女交際》


 明智勇輔はすずかけ工業高校水泳部の二年生部長だった。

 二時過ぎの休憩時間に同じ二年の男子部員が少し顔を赤くして勇輔に近づいてきた。

「おい、勇輔」

「なんだ、秀島」

「うららちゃんのアドレス教えろ」

「はあ?」勇輔は思いきり眉間に皺を寄せた。

「お近づきになりたいんだよ」


 勇輔は軽蔑したようにその部員を斜めに見て腰に両手を当てた。

「俺の妹とつき合いたかったら、面と向かって告白しろ。そんな大事な気持ちは相手の目を見ながら、自分の言葉で伝えるもんだ。そんな回りくどい、卑怯な手、使うんじゃねえ」

「それができないからおまえに頼んでるんだろ」

「チャンスじゃねえか。今休憩時間だ」勇輔は室内をぐるりと見回し、プールの反対側のベンチに溜まっていた女子部員に目を向けた。「ほれ、あそこにいんぞ。呼び出してコクったらどうだ? 今」

 秀島は拗ねたように口をとがらせた。「なんだよ、それ。おまえ妹のことだからって、めちゃめちゃ無愛想だな」

「ばあか、それが常識ってもんだ」

「偉そうに……」秀島は恨めしそうな目をした。

「二日後、大会だぞ、そもそもそんなことやってる場合じゃねえだろ。」



 夕方、部活が済んで、その勇輔の一つ下の妹うららは、道具を肩に担いでプール棟隣に立っている芸術棟のエントランスに急いだ。

「たぶん、まだいるよね、冬樹、音楽室に」

 そう独り言を呟きながら彼女は靴を脱いで、その建物に入った。


 うららと冬樹は同学年で同じ1年電子情報科クラスに所属していた。


 丁度階段の上り口のところで、下りてきた冬樹と鉢合わせしたうららは、焦ったように彼に声を掛けた。

「あ、冬樹」

「あれ、明智さん」

 冬樹は階段の途中で立ち止まった。

「ちょ、ちょっと話、いいかな……」うららは少しうつむき加減で言った。

「なに? どうしたの?」


 冬樹は階段を下まで降りてうららに身体を向けた。

 一つ深呼吸をして、うららは一歩冬樹に近づいた。

「冬樹、誰か好きな子、いるの?」

「えっ?」


「ご、ごめんね、突然こんなこと……」

 ポケットから濃い緑色のハンドタオルを取り出して、焦ったように額の汗を拭った後冬樹は少し動揺したように瞳を揺らめかせながら言った。「べ、別にいないけど……」

 うららはもう一度深呼吸をした。頬がほんのりとピンク色に染まっていた。


「もし良かったら、あたしとつき合わない?」


「え?」


 しばらく冬樹はうららの眼を見つめていたが、急に襲ってきた息苦しさに、思わず目をそらした。

「い、今じゃなくてもいいから、返事……」


 冬樹は顔を上げた。

「いいよ」

「え?」

「ぼ、僕も明智さんのことが、気になってた」


 うららの笑顔が弾けた。「ほ、ほんとに?」

 冬樹は柔らかく微笑みながら言った。「ぼ、僕で良ければ……」

「嬉しい!」

 うららは飛び跳ねて冬樹の手を取った。


 冬樹の心の奥に、針が刺さったような鋭い痛みが走った。



 その日の夜、夕食を済ませた冬樹は、家からさほど離れていない姉春菜のマンションを訪ねた。

「どうしたの? 冬樹」

 冬樹は不安そうな顔でドアの外に立ちすくんでいた。

「あの……姉ちゃん」

 もじもじしている彼に微笑みかけて、春菜は言った。

「中に入ったら?」

「う、うん」


 部屋に通された冬樹は、白い小さな座卓に向かって正座したまま困ったような顔をしていた。

 春菜がアイスコーヒーのグラスを二つ持ってきてテーブルに置くと、冬樹は顔を上げて姉を見た。

「姉ちゃん、健太郎さんとはラブラブなんでしょ?」

「なによ、突然」

 春菜も冬樹に向かい合って座り、自分のグラスに手を掛けた。


 冬樹が唐突に言った。「あ、あのさ、デートって、どんなことすればいいの?」

 春菜は思わず咥えていたストローから口を離した。

「え? あなた誰かとつき合ってるの?」

「う、うん。同級生にコクられた。今日」

「女のコ……だよね?」

「そ、そうだけど」冬樹はストローを咥えたまま上目遣いで春菜の顔を見た。


 春菜は冬樹が持っていた切り抜きの写真のことを思い出していた。


「あなたもOKしたわけ? それでもうデートの約束したんだ」

「うん」

「そうね、まず、いっぱい話してお互いを知ることね」

「どんな話題を持ち出せばいいのかな……」

「学校で話したことないの? その子と」

「これと言って……用事がある時ぐらい」

「男の子ってそうだよね。あんまりとりとめもなくだらだらと話すことはないか。女子と違って」

「とりとめもなくだらだらと話せばいいの?」

 春菜は吹き出した。「そうじゃなくって」


「あんまり共通の話題がなさそうでさ」

「その子、何か部活に入ってるの?」

「う、うん。水泳部……」

 冬樹は思わず春菜から目をそらした。

「水泳部?」


 春菜は彼が密かに持っている、あの水着の生徒の写真のことを、また思い出した。


「じゃあ、そのこと、話題にしたら?」

「そ、そうだね」


「あなた、何かおどおどしてない? 姉ちゃんの前なのに」

「そ、そんなことない」冬樹は顔を上げた。

 春菜は笑顔で言った。

「その時になればいろいろ話すことも出てくるよ」

「そうかな……」

 冬樹はグラスに刺さったストローで、中の氷を掻き回した。

「でも、急にムラムラしちゃって、強引にキスを迫ったりしちゃだめよ」

「そ、そんなことしないから!」出し抜けに冬樹は顔を上げ、真っ赤になって言った。

「あなた、心配しすぎよ。小さい頃からそうだったけど」



「ありがとう、姉ちゃん」

「楽しんでね、デート」

 冬樹は照れたように頭を掻いて、ドアの外まで見送った姉に背中を向けた。



 明智家の夕食時。

「ねえ、兄貴、」

 ちゃぶ台に向かったうららが、隣に座りご飯を豪快に口に掻き込んでいた勇輔に顔を向けた。

「なんだ」

 勇輔は、口をもぐもぐさせながらその妹の顔を見た。

「おべんと、ついてるよ」うららは自分のほっぺたを指した。

 勇輔は、自分のほっぺたの同じ場所についていたご飯粒をつまんで口に入れた。

「で?」

 うららは小さく頷いた。「ちょっと相談したいことがあってさ。後でお風呂から上がったら兄貴の部屋に行くから」

「わーった」勇輔は茶碗に残ったご飯をがふがふと口に詰め込んだ。



 勇輔の部屋に入ったうららは、床に腹ばいになって雑誌を読んでいたその兄を見下ろして、持っていた缶入りサイダーを差し出した。

「お、済まねえな」

 勇輔は起き上がり、その場にあぐらをかいてすぐに受け取った缶のプルタブを起こした。

 うららも勇輔に向かい合って座り、自分の缶を開け、一口飲んだ。


「で、話って?」

 勇輔が先に言った。

「うん。あのね、デートの時、男の子って、何されたら嬉しいのかな」

「何だと?! デートだあ?」勇輔はびっくしりて目を見開いた。

「そうだよ」うららは缶に口をつけたまま横目で兄を見た。

「相手は?」

「同級生の男子。冬樹」

「秀島、敗北!」勇輔は独り言を言って、口を押さえ、くっくっく、と笑いをかみ殺した。「で、おまえいつから付き合ってるんだよ」

「今日」


 ぶほ! 勇輔の口の中で膨張した炭酸が噴き出した。


「何よ、汚いな!」

 うららは床に置いてあったティッシュをざかざかと取り出して、勇輔の口からあちこちにこぼれたサイダーの飛沫を拭き取った。

「きょ、今日かよ!」

「うん。今日。昼間コクったらOKしてくれた。『僕も気になってた』って言ってくれたんだよ」

 うららは嬉しそうに持っていた缶を両手で包み込んで頬を赤くした。

「へえ」

 勇輔は肩をすくめて、缶の中身をごくごくと飲んだ。


 口を拭って、勇輔はうららの顔を見た。

「本当に好きならとりあえず話して、お互いのことをよくわかるべきだな」

「話す話題がかみ合わなさそうなんだよ」

「なんじゃそりゃ」

「あたしとは違う世界に住んでるような男子だし」

「なんでそんなやつにコクる?」

「しょうがないじゃん。好きになったんだから」

 勇輔は呆れたようにため息をついた。

「ま、その時になれば話せるんじゃねえか? あれこれ。おまえおしゃべりだから沈黙で気まずくなるこたねえと思うぞ」

「褒めてるようには聞こえない」うららは上目遣いで勇輔を睨んだ。

「褒めてねえし」


 うららは小さなため息をついた。

「やっぱり最初はそっからだよね」

「なんだよ、おまえ初デートでキスしたりアレしたりしたいのかよ」勇輔は自分で言ったその台詞に少し赤面し、ばつが悪そうにサイダーを一口飲んだ。

「そんなこと言ってないでしょ」うららは兄を斜に見て、軽蔑したように言った。

 勇輔は少し真剣な表情で言った。「でも気をつけねえと、あっちから身体を触ってきたり、いきなりキス迫ったりすっかもしれねえぞ。そいつをあんまり調子に乗らせねえことだな。挑発的な行動はNGだ」

「兄貴は初デートでもそんな気になるの?」

「相手次第だな」

「ゆくゆくはエッチしたい、って思うよね、男だし」

「だ、だから相手次第だろ」勇輔は焦ったようにそう言うと、残っていた缶入りサイダーを飲み干した。



 ――土曜日。うららと冬樹の初デートの日。


 青々とした空に真っ白い入道雲がもくもくと立ち上っている。コントラストの強い街全体が熱い陽炎でゆらゆら揺らめいている。


 うららと冬樹は一軒のレストランに入った。

「暑いね、言ってもしかたないけど」

 うららが出されたおしぼりで手をごしごしと拭きながら言った。

「夏だからね」

 冬樹は指先を一本ずつ丁寧に拭いていた。向かいに座ったうららは、それを見て、ばつが悪そうに頬を人差し指でぽりぽりと掻いた。


「冬樹はさ、なんで冬樹って名前なの?」

「冬生まれだから」冬樹はにっこりと微笑んだ。

「そっかー」

「姉ちゃんは春生まれだから春菜」

「なるほどね」うららは身を乗り出した。「春菜さんて、学校でも有名な人だったんでしょ?」

「え?」冬樹は意表を突かれたように顔を上げた。

「すっごく絵が上手な人で、何度もいろんなコンクールに入賞したんでしょ?」

「大したことないよ」

 冬樹は照れたように目を伏せて、水の入ったグラスに手を掛けた。


「そのお姉ちゃんの春菜さんって、今年卒業した水泳部の健太郎さんと付き合ってるんでしょ?」

「よく知ってるね」

「うん。兄貴から聞いた」

 冬樹は思わずグラスから手を離した。「お兄ちゃんに?」

「そ。兄貴、その健太郎先輩を慕っててさ、いっつもケンタ先輩、ケンタ先輩って馴れ馴れしく呼んでた」

「そう」

「健太郎さんと春菜さんって仲良しだったのかな、ずっと」

「まあ同級生だしね」

「いつから付き合い始めたの?」

「高三の夏」

「じゃあまだ一年なんだね。どんなきっかけだったのかな」

「それは人に言うなって言われてる。結構強烈な出来事だったらしいから」

「強烈? そっかー。訊きたいけどだめだね。プライベートなことだし」

「ごめんね」

「ううん。あたしこそごめんなさい。根掘り葉掘り訊いちゃって」


 二人の前に、注文していたランチのプレートが運ばれてきた。

「いただきます」冬樹はそう呟いて、うららを見た。「食べようか」

「うん」うららも微笑みを返してカトラリーを手に取った。


 スープが半分ぐらい減ったところで、冬樹は不意に目を上げた。

「あの……明智さん」

「え?」うららは、口に運びかけたキャロットグラッセをフォークで持ち上げたまま、動きを止めた。

「お、お兄ちゃんってどんな人?」

「がさつ」

「がさつなの?」

「夕飯の時は、いっつもほっぺたにご飯粒をくっつけてる。口も悪いし、行儀も悪いし」

「そ、そう。で、今付き合ってる彼女がいるのかな」


 うららは怪訝な顔をした。

「どうしてそんなこと訊くの?」

「い、いや、水泳部で活躍してる二年生の部長なんでしょ? 勇輔さん。きっと人気者なんだろうなって……思ってさ」

「どうかな……今も続いているのかな」

「えっ? いるの? 彼女」冬樹は思わず腰を浮かせた。

 うららは横目で冬樹を睨むように見て言った。「なんか、今はあんまりそういう気配を感じないんだよね」

「そ、そうなの?」

「きっと別れたんだよ。勘でわかる」

「そう」冬樹は安心したようにスープをスプーンですくって口に運んだ。

「あいつ、すぐ顔や態度に出るからね」

「部長って、大変なんだろうな、いろいろと……」手に持ったスプーンを見つめながら冬樹は独り言のように言った。


「もしかして冬樹、水泳に興味ある、とか……」

 冬樹は空になったスープ皿を脇にどけて、またうららに目を向けた。

「ゆ、勇輔さんって、何が好きなの? 食べるものとか」

「何でも食べるよ。食べられるものなら」

「特に好きなもの、なんてないの?」

「ああ見えて、甘い物がめっちゃ好きなんだよ。中でも『シンチョコ』の『ハイミルク・ホワイトチョコ』が大好物。でもこないだはノンアルコール・ビールをうまいうまいって飲んでた」

「ビール?」

「そ。うちは酒屋でしょ? 飲み物はなんでもあるからね。でも兄貴は律儀にアルコール類は飲まない」

「や、休みの日とか、何してるのかな、勇輔さん」


 うららは持っていたカトラリーをメインディッシュの皿に置いて、冬樹の顔をじっと見た。


「冬樹、なんで兄貴のことばっかり訊きたがるの?」

 冬樹ははっと表情を堅くした後、ひどく申し訳なさそうに眉尻を下げた。「あ、ご、ごめん」

「あたしとデートしてるんだから、あたしのことを訊くもんでしょ。それに」

 うららはじろりと冬樹の目を睨んだ。冬樹は思わず背中を伸ばした。

「なんで兄貴のことは『勇輔さん』って呼ぶのに、あたしのことは『明智さん』なんだよ。おかしいよ」

「ご、ごめん。わ、悪かった。ほんとに、ごめんなさい」

 冬樹はぺこぺこと頭を下げた。


 ふっと笑ってうららは言った。

「ねえ、あたしのことも『うらら』とかって呼んでよ」

「そ、そうだね」

 冬樹は頭を掻いた。



 その夜うららは勇輔の部屋を訪ねた。ノックもせずにドアを開けてずかずかと中に入り、床に膝を抱えて座り込んだ。

「こら、俺、入ってもいいなんて言ってないぞ」

「入っちゃいけないこと、やってたの? 一人エッチとか」

「あほかっ!」

 

「あのさ、あたし今日デートしたんだけど、冬樹と、予定通り」

「おお、どうだった?」机に向かっていた勇輔は椅子をぐるっと一回転半回して身体を妹に向けた。

「なんか……兄貴のことばっかり訊きたがるんだよね」

「俺のこと?」勇輔は自分の鼻を人差し指でぐいっと押さえた。「そいつ、どんなやつなんだ?」

「おとなしい地味男」

「なんでそんなのがいいんだよ、おまえ」

「自分のペースで付き合えるから。それに何か彼には色気を感じるんだよね」

「色気?」

「うん。他の男子にはない雰囲気というか……。でもまじめだし、誠実だし、礼儀もわきまえてるよ。それに、何より彼の弾くピアノがすっごく素敵なんだ」

「ピアノ?」

「学校でいつも練習してるみたい。今も」


 夏休み中の部活の時間、泳いでいる最中に、音楽室からたびたびピアノの音が聞こえていたことは勇輔も気づいていた。

 もしかしたら、あいつ? と勇輔は思った。先週の土曜日、自分が校庭で声を掛けた一年生の男子、あれがその冬樹だったのかも、と彼は考えたりした。


「そう言や、音楽室から聞こえてんな、ピアノの音」

「たぶん冬樹が弾いてるんだよ」

「プールは音楽室のすぐ向かいだかんな。ここんとこほぼ毎日。俺たちが部活やってる間中、ずっと聞こえてっけど」

「そうだね、確かに」

「あれは、そいつが弾いてたのか……鷲尾っちじゃなかったんだな」

「上手でしょ? そう思わない?」

「俺は音楽にゃあんまり詳しくねえが、確かにうまいかもな。で、その冬樹ってやつ、名字、なんていうんだ?」


「月影。月影冬樹だよ。ちょっとかっこよくない?」


「な、なんだと?!」

「何驚いてるの?」

「そいつ、もしかして姉ちゃんがいるだろ。春菜っていう」

「そうだよ。よく知ってるね」

「去年の三年の部員で、俺、ケンタ先輩って呼んでた人がいたんだけど、その彼女が春菜さんなんだ」

「知ってる。それ前に兄貴から聞いた。忘れてたね? でも奇遇だよね」

 勇輔はばつが悪そうに後頭部をぼりぼりと掻いた。「めちゃめちゃ絵が上手な先輩なんだぜ」

「それも知ってる。校長室の前に掛けてあるおっきな額の絵、その春菜先輩が描いたんでしょ?」

「そう。すげーよな。夕日に輝く川の絵。吸い込まれそうだよな」

「うん。わかる。水のきらめきと、紫色の空の色……。あたし入学してあの絵見た時、しばらく足が動かなくなってたもん」


 そうかそうか、と腕をこまぬいて何度も頷いている勇輔の顔をうららは覗き込んだ。

「会ったことあるの? その春菜先輩に」

「一度だけな。ケンタ先輩とデート中だった」

「どんな人?」

「眼鏡掛けておとなしい感じだな」

「冬樹も眼鏡掛けてるよ。姉弟なんだね、やっぱり」

「そうか、春菜先輩の弟なんだな……」

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