Twin's Story "Chocolate Time" 外伝第3集 第4話
アダルトビデオの向こう側
《0.プロローグ》
K市すずかけ二丁目、一級河川篠懸(すずかけ)川近くに広い敷地を持つ「志賀工務店」がある。江戸時代の頃から続くと言われているこの工務店では現在、町の商工会が認定しその職人技の高さを証明する「すずかけマイスター・ゴールド」の称号を持つ志賀建蔵(71)が棟梁として現役で活躍していた。
建蔵の下で働く職人の中に、彼の孫将太がいた。今年成人を迎えた彼は、地元のすずかけ工業高等学校を卒業した後、すぐに家業の工務店に就職。今は建蔵の片腕として、またこの工務店の跡継ぎとして立派にその職務を果たしている。
ただ、将太は高校時代ひどく荒れていた。心に深い傷を負っていたからだ。それを救ったのは当時の音楽教師で担任の鷲尾彩友美だった。彼女は将太の背負わされた重い辛さを受け止め、同時に彼の持つ熱い気持ちに応えてその傷を癒していった。その彩友美は将太が高校を卒業して一年後に彼と結婚し、現在二人は工務店の敷地内に建蔵が建てた一軒家で仲睦まじく暮らしている。
将太の心がすさんでしまった原因は、その母親が家を出て行ったことだった。彼が高校に入学してすぐ、長く病を患っていた父親が亡くなった。その直後、母香代は他の男の元に走ったのだ。
多感な将太には酷い出来事だった。祖父の建蔵も激昂し、同時に将太への不憫な思いを募らせ、このたった一人残された孫を守るためにあらゆる努力をした。しかしいかんせん世代の違う建蔵には将太の心の奥底まで見通すことができず、一時期手詰まり状態になっていた。
将太が結果的に道を踏み外すことにならなかったのは、同じすずかけ町の三丁目にチョコレートハウスを構える建蔵の友人のケネス・シンプソンや彩友美の存在があったからだった。将太に真剣に関わり、親身になって相談に乗ってくれた古くからの友人であるケネスはもとより、将太の高校時代に担任として彼を信頼し、守り通したそんな若い彩友美を、建蔵は心から信頼し大切にしているのだった。
彩友美(25)は、工務店の豪奢な門の脇に立つ大きなケヤキの木の下に立って首に掛けたタオルで額の汗を拭きながらペットボトルの水を喉を鳴らして飲んでいる将太に目を向けた。
「将ちゃん」
木のそばに立ち、その太い幹を撫でながら力強い枝振りを内側から見上げていた将太は振り向いた。
「なに?」
「ほんとに立派な木だよね」
「じいちゃんの自慢の木なんだ。うちのシンボルツリーってとこかな」
将太は妻の顔を見て微笑んだ。
「この大きさ……もうどれくらいの間ここに立ってるのかな……」
「ケヤキは成長が早いから」将太はまたペットボトルを口に持っていった。「それでも200年ぐらいは経ってるってじいちゃん言ってた」
「ほんとに?」彩友美は驚いたように言って思わずその巨木を見上げた。
「俺もちっちゃい頃からこの木には世話になったよ」
彩友美と将太は木陰に置かれた木のベンチの一つに並んで腰を下ろした。5月の暖かく柔らかな風がゆっくりと通り過ぎて、茂った木の葉をさざめかせた。
「世話になった、って?」
将太は笑いをこらえながら言った。「悪さして父ちゃんに叱られた時に、この木の幹を蹴飛ばしてうさばらしとか」
彩友美は吹き出した。「やだ、ひどい」
「じいちゃんと一緒にはしご掛けてあの枝まで登ったこともあったな」
将太は箒のように広がる枝の一本を指さした。
「思ったより高くてさ、俺、脚が震えてたけど、じいちゃんの前では平然としてたよ」
「幾つの時?」
「高一」
「え? もうちっちゃな子供じゃないじゃない」
将太はうつむいて小さくため息をついた。「じいちゃんは、」
そして再び顔を上げてその枝の先で風にそよぐ瑞々しい緑をたたえた葉に目を向けた。「俺に強くなれ、って言いたかったんだと思うよ」
「強く?」
将太は彩友美に目を向け直した。
「父ちゃんが死んだ翌日だったよ」
彩友美ははっとして口をつぐんだ。
将太は左手でそっと彩友美の肩を抱いて、遠い目をしながら言った。
「でも俺、強くはなれなかった。彩友美にも迷惑掛けたよね、あの頃……」
彩友美は切なげな目をして、その弱冠二十歳の夫の横顔を見つめた。
「君がいなかったら、俺、今頃どんな人間になってたかわからない。感謝してるよ」
「あなたにはおじいちゃんの意思が伝わってたと思うわ」
将太は無言で彩友美を見た。
「孫のあなたにこの木のように強くなれ、っていう意思。高校時代の将太君は本物のワルにはなれてなかったでしょ?」
「そうかな……」
彩友美は躊躇いがちに言った。
「今でもお母さんのこと、恨んでる?」
「いや、」
将太は彩友美の肩から手を離し、自分の膝に乗せた。
「それも運命だったんだ、って思えるようになったよ」
「そう?」
「いや、運命というより成り行きかな……」
「成り行き……」
「母ちゃんには母ちゃんなりの考えがあったんだろうから」
「将ちゃん……」
将太は彩友美の手を取り、自分の膝に乗せさせた。
「彩友美のお陰だよ。何もかも」将太はまた彩友美の目を見つめ、にっこり笑った。「ほんとにありがとう。俺を救ってくれて」
彩友美は頬を赤くして照れたように微笑んだ。
将太は身体を後ろにそらし、その巨木を見上げながら言った。
「俺さ、この木の葉っぱが風にざわめく音が好きなんだ」
「そうなの?」
「ほら、ちょっと波の音に似ているじゃん」
「将ちゃん海、好きだもんね」
「ちっちゃい頃にさ、母ちゃんとよく海岸を散歩した」
「どこの海岸?」
「母ちゃんの実家が海のそばでさ、俺もそこで生まれたって聞いた」
「そう。だから海が好きなのね」
「この音は、俺の身体の中に染みついてる音に似ているんだろうね」
将太は穏やかな笑顔を彩友美に向けた。
「だから癒やされるんだ、とっても」
彩友美も瞳を閉じ、ケヤキの木の葉がそよ風にさざめく音に耳を傾けた。
「それはそうと、」
将太が不意に言って、彩友美は思わず目を開いた。
「彩友美、最近食欲がないみたいだけど」
「うん。そうなの。このところあんまり食が進まない」
「どっか悪いんじゃないの? 医者に診てもらったら?」
将太は心配そうに彩友美の顔を覗き込んだ。
「そんな大したことはないと思うけどね」彩友美は笑った。
「明日、病院に連れて行ってあげるよ。念のため」
「そうね。マルモン・クリニックに行って診てもらおうかな。久しぶりに和代先生にも会いたいし。心配してくれてありがとう、将ちゃん」
「当然だろ」
将太は彩友美の身体に手を回して自分の方に引き寄せた。