Twin's Story "Chocolate Time" 外伝第3集 第4話
アダルトビデオの向こう側
《3.救済者》
香代にとって初めての撮影から二週間が経った頃、次の仕事の依頼が来た。黒田からのメール文には、台本は拓也が届けるとあった。それを知って香代の胸の中に温かいものが穏やかに広がっていった。
拓也は事前に電話をして、約束通りその晩、香代を訪ねた。
「こんばんは香代さん。夜でもまだ暑いですね」拓也の頬を汗の粒が流れ落ちた。
香代はその拓也の少し恥じらったような顔を見て、思わず頬を緩めた。
「はい、これが台本」
拓也は香代にステープル止めされた薄い冊子を手渡した。
「これも同じ『クリエイト・えろす』の制作作品だけど、今度はちゃんとした男優だよ、相手役。俺もよく一緒に仕事するヤツだから心配ないよ」
「そう。ありがとう」
「内容はやっぱり主婦の寝取られものだけど、黒田社長と違って真面目に演技でやってくれるから、貴女も安心してやれると思うよ」
香代は躊躇いがちに言った。「ねえ、拓也さん」
「なに?」
「ちょっと寄っていかない? 中、涼しくしてるから」
拓也はにっこり笑った。
「いいの? お邪魔しても」
「少しお話がしたいの」
香代は拓也をいつものリビングではなく、自分の和室に通した。
「へえ、こんな部屋で暮らしてるんだね、香代さん。リカの部屋と違って質素だな」
「居心地いいわよ、けっこう」
「そう?」
「リカさんの部屋に入ったことあるの?」
拓也は肩をすくめた。「数回ね」
香代は上目遣いで拓也を見た。「何の用事で?」
「ちょっとした仕事の話だよ」
「……そう」
香代はトレイに乗せた麦茶を拓也の前に置いた。
「拓也さんは28って聞いたけど、ずっと若く見えるわ」
「そう? まだ成長してないってことかな」
拓也は恥ずかしげに頭を掻いた。
「ずっとこの仕事してるの?」
「うん。大学在学中からバイトでこの世界に。友達にはエロカメラマンって馬鹿にされるけどね」
「ちゃんとした仕事だと思うわ。私たちと違って……」
「なんで? 香代さんやリカの方がすごいよ。だって身体を張って仕事してるんだから」
香代はトレイから自分のコップを持ち上げ、うつむいて、また上目遣いで訊いた。
「リカさんとは仲良しなの?」
「仲良しってほどじゃないよ。でも僕がカメラマンを始めた時から時々一緒に仕事してる。古い同僚ってとこかな」
「……そう」
香代は麦茶を一口飲んだ。
「拓也さんは一人で暮らしてるの?」
「うん。そうだよ」
「ご両親と離れてて寂しいでしょう」
拓也は不意に香代から目をそらした。
「お母さんの方が寂しがってらっしゃるかもね」
ふふっと笑って香代が拓也の顔を見上げると、彼は難しい表情でうつむいていた。
少し気まずい思いで、また香代がコップを口に持っていった時、拓也が口を開いた。
「ねえ、香代さん」
拓也は妙に真面目な顔で香代の目を見つめていた。
「はい?」
「良かったら僕に詳しく話してくれない? 貴女がここに来た理由」
香代はコップを持った手を膝に置いて黙り込んだ。
拓也は慌てて言った。「あ、ご、ごめんなさい、話したくないことなんだね」
香代は顔を上げ、首を横に振った。
「嬉しい……」
その目には涙が浮かんでいた。
「貴男にも知って欲しかった……」
「香代さん……」
それから香代は拓也に、夫が亡くなってから黒田厚子に呼び出されたこと、夫の同級生の林から借金の話を聞かされたこと、黒田社長から直にAV女優としての契約をさせられたことなど、今まで自分の身に起こったことを何もかも吐き出すように話した。
ただ黙ってその話を聞いていた拓也は、持っていた麦茶のコップをトレイに戻し、そっと香代の手を取った。
「かわいそうだ……香代さん」
香代は黙っていた。
「貴女は何も悪くないのに、こんな目に遭っている貴女がかわいそうだ。それにお母さんに会えなくて寂しい思いをしてる息子さんも……」
拓也の瞳には涙が揺らめいていた。
「なんで貴男が泣くの。同情してくれてるの?」
「僕……貴女を守りたい。守らなきゃいけない気がする」
香代は震える声で言った。
「な、なによそれ。うわべだけの同情はやめてよ」
「たぶん……同情じゃない……と思う」
拓也はまたあのファインダー越しの香代のまなざしを思い出していた。そしてその時感じた胸の奥の熱っぽさも。
「貴女が僕に向けた目……助けて欲しいって言ってた」
「何言ってるの。ばかみたい。私、言われた通りにカメラを見つめてただけよ」
香代は拓也から目をそらし、こぼれる涙を指で拭った。
◆
香代にとって二度目の撮影は、前回と同じ撮影所のマンションだったが、違う部屋が使われた。そこは白い壁の洋室で、広い窓から本物の真夏の眩しい光が差し込むリビングのセットだった。香代のアパートにあるものとは格が違う豪華なソファが毛足の長いカーペットの上に置かれている。部屋の一角には大きなキャビネットが置かれ、さまざまな形のグラスやラムやウィスキーなどの洋酒の瓶が並んでいる。
「今回は暇を持て余した富豪夫人という設定だからな」
監督の黒田が言った。
瀟洒でノーブルなラベンダー色のワンピースを身につけ、フェイクのパールのネックレスをつけた香代は、暖炉脇の壁際に三脚を立てている拓也に視線を投げた。拓也はすぐにそれに気づき、小さく手を振ってにっこり笑った。
「用意、アクション!」
黒田の声が響いた。
夫が仕事で留守にしている昼下がり、ソファに座って退屈そうに雑誌をめくっていたカヨコは、来客のチャイムが鳴ったことに気づき、立ち上がって玄関に出た。そこには一人の男が立っていた。それはカヨコが大学時代につき合っていた元彼の俊也だった。
あまりの懐かしさにカヨコは俊也をリビングに招き入れた。そして二人は寄り添うようにソファに座って以前つき合っていた頃の話で盛り上がっていった。
そのうち、俊也はカヨコの肩を抱き、またあの時のように、と耳元で囁きながら、カヨコの来ていたワンピースの裾から手を忍び込ませた。
カヨコはだめ、と抵抗しながらも、次第にその元彼の意のままに身体を抱かれ、着衣を脱がされていった。
それからその男優は手慣れたように香代のカラダを撫で、さすり、唇を這わせて熱い愛撫を続けた。
拓也はファインダーを覗きながら『カヨコ』の表情を追った。
「あの、ちょっとカメラ止めて下さい」
カヨコの股間に手を忍び込ませた相手役の男優が言った。
「ん? どうした?」黒田が言った。
「この時点ではすでにカヨコはぐっしょり濡れてるという設定なんですけど……」
黒田は腕組みをして怒ったように言った。
「なにっ? おまえがあれだけいじり回しても濡れてないのか?」
「はあ……」
男優は申し訳なさそうに頭を掻いた。
セカンドカメラの若いスタッフがすぐ横に立っていた照明係の男に小さな声で言った。
「今回の男優、愛撫のエキスパートなのにな」
「あれだけやられてもその気になれない香代さんて、ある意味すごくね?」
「たいていの女優は、演技するのも忘れて本気で身を任せるってのにな」
「しょうがない。ローション持って来い」
黒田が言うと、別のスタッフが例の赤いラベルの容器を手に香代に近づき、躊躇わず秘部にその中身を塗りたくった。
「ごめんなさい」香代は小さな声で、覆い被さってきた男優に囁いた。「まだ緊張してて……」
その男優はふっと笑った。「あれで濡れなかったのは貴女が初めてですよ、香代さん。僕のテクもまだまだですね」
「ほんとにごめんなさい」
「気にしないで。じゃあ入れますよ。感じてなくても演技して下さいね」
男優はパチンとウィンクして、身体を起こし、自分のペニスを握って香代の秘部に押し当て、ゆっくりと挿入していった。香代はううっ、とうめき声を上げ、顔をしかめた。
男優の気遣いで香代の緊張は幾分和らぎはしたが、ローションはあまり功を奏していなかった。挿入されてからずっと秘部に感じる違和感と痛みは続いていた。いきおい性的な昂奮など覚えることはなく、身体はほとんど熱くならなかったが、自分なりに喘ぎ声を上げてみた。拓也の構えるカメラを見つめながら。
「この目、この目ですよ」
機器を調整する若いスタッフが、すぐ隣で同じようにモニターを凝視している黒田に向かって言った。
「人妻カヨコのこの何とも言えない切なげな目がすっごい評判なんです」
「そうなのか?」
黒田は面白くなさそうに言った。
「第一作目でも同じような目を何度もしてましたけど、あのDVDの視聴者のレビューのほとんどに書かれてました。まるで演技とは思えない、昂奮した、って」
「そうか」
拓也は、男優と繋がってから香代が頻繁に自分のカメラを見つめ、瞳を潤ませるのを見て、胸が締め付けられる思いだった。あれは演技じゃない、本当に辛いんだ。お金のためとは言え、好きでもない男に抱かれて、哀しみをこらえている目だ。
俊也がクライマックスでペニスを抜き去り、カヨコの胸に向かってその白い液を放出した後も、全裸になった彼女は放心したように、しかしずっと拓也をカメラのレンズ越しに見つめていた。
◆
高二の夏のある日、将太は学校の帰りに街のレンタルビデオショップに立ち寄った。
噴き出していた汗を半袖のシャツの袖口で拭いながら、彼は二階への階段を上った。
会員のカードを手に持ち、アクションもののDVDが並んだ棚の間を歩いていた彼は、その通路の先にあるアダルトコーナーにちらりと目をやった。嫌でも目立つ場所にディスプレイされた新作コーナーに立てられた数枚のDVDのタイトルには『カヨコ――犯される人妻』と赤いショッキングな文字が大きくデザインされている。そしてその下には、黒いパンストを無理矢理破られる赤い髪の女の写真があった。
将太の鼓動はわけもなく速くなっていた。
「カヨコ……嫌だな、母ちゃんの名前に似てる」
結局何もレンタルすることなく家に帰った将太は、今は誰も使わない両親の部屋に忍び込んだ。そこには亡くなった父親のものも、家を出て行った母親香代のものも全てそのまま残されていた。
将太は部屋の奥にあるタンスの一番上にある引き出しを開けてみた。そこには母香代の夏物のシャツやブラウスがきちんと畳まれて収められていた。
二番目の引き出しにはスカートやベルト、三番目には少し厚手のニットのセーターが入っていた。
そのどれもが将太には見覚えのあるものばかりだった。ここに入れてある全てを母が身につけていた姿を、彼は今でもありありと思い出すことができる。
自然と彼の目には涙が滲んでいた。
将太は一番下の引き出しを開けた。そこにはショーツやブラジャーが入っていた。彼はその片隅にあった小さく畳まれた黒いパンストを見て息をのんだ。涙を乱暴に右腕で拭って、それをじっと見つめていた将太は、決心したように手を伸ばし、そのパンストを手に握りしめて引き出しをバタンと閉め、慌てたようにその部屋を出て行った。
◆
「あんドーナツ買ってきたよ、香代さん」
珍しく拓也が昼前に香代をアパートに訪ねてきた。香代はすぐに彼を招き入れた。
畳にあぐらをかいて座るやいなや拓也は紙袋を開けて、あん入りドーナツを取り出した。
「拓也君、ちょっと待ってよ、お砂糖こぼれちゃう。お皿持ってくるから」
香代は言ってキッチンのキャビネットから白い皿を一枚取り出し、二つの湯飲みと急須の乗ったトレイに乗せてリビングに運んできた。
「どうしたの? 急にそんなもの買ってきたりして」
香代が拓也の湯飲みに茶をつぎながら言った。
「今日、朝飯食べる暇がなくてさ。いつもより早い撮影だったから」
「そうなの」
「それに近頃妙にお腹がすくんだ。食欲の秋だからかな」
拓也は笑った。
「私、秋ってきらい」
香代がぽつりと言った。
前に座って湯飲みを手に持った拓也が目を上げた。
「寂しいから。周りのものが一斉に活気を失っていくように思えるの」
「香代さん、もっとポジティブにいこうよ」
拓也はドーナツにかぶりついた。
香代がAV女優の仕事を始めてから二年半が経とうとしていた。カメラマンの拓也は香代にとって、もうなくてはならないほどの存在になっていた。拓也もこの憐れな境遇の女性に対して、ただの同情だけではない感情を持ち続け、それは次第に胸の中から湧き上がる熱を持ち始めていた。
「私ね、今も時々将太の夢をみるの」
拓也は意表を突かれたように食べかけたドーナツを口から離し、香代の顔を見た。「そう……」
「でもその時の将太はいつもまだちっちゃいままなの。幼稚園児ぐらい」
香代は微笑んだ。ひどく温かで優しい笑顔だった。
拓也がそんな香代の顔を見るのは初めてだった。
「それで、夢の中で香代さんは将太君を抱きしめてるわけ?」
「手を繋いで海岸を散歩してるの」
「海岸?」
「私の実家は海のそばなの。父は漁協の内部検査室長を務めてた。将太を産んだ時もその実家にしばらく帰ってたの」
「そう」
「だから時々海に行きたくなったり潮の香りを嗅いだりしたくなるのよ」
「ここから海は遠いな……」
拓也は困ったように言った。
「あ、ごめんなさい、貴男に海に連れて行ってくれ、って言ってるわけじゃないから」
香代は眉尻を下げた。
「将太が小さい頃はよく実家に連れて行ってたわ。あの子よく磯で貝殻を拾って遊んでた」
香代はそう言って、三面鏡の上に置いていた小さなポーチを手に取った。そしてその中から取り出した物を手のひらに載せ、拓也に見せた。
「貝殻。赤貝の?」
「そう。将太と一緒に海岸を歩いてた時に拾ったの」
「将太君が拾った貝殻?」
「ううん、将太が拾ったのはこれ」
香代はそれを裏返した。赤貝の殻の中に可愛らしいピンク色の小さな別の貝殻が、透明な樹脂に固められて入っていた。
「桜貝だね。ちっちゃくて可愛い」
拓也はそれに目を近づけた。
「将太が拾って『母ちゃんにあげる』って言って、私にくれたの」
「そう」拓也は思わず頬を緩めた。
「あの子が初めて私にくれたプレゼント。でも薄くて割れちゃいそうだから、赤貝の中にUVレジン液で固めて入れてるのよ」
香代はそれを拓也に手渡した。
「赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるみたいだ。香代さんの貝殻が将太君の桜貝を包み込んでる」
拓也はそれを愛しそうに眺め、すぐに香代の手に戻した。
香代は遠い目をしてため息をついた。
「私の耳の中には、ずっとその時の波の音が聞こえてるの」
拓也は今までに見たこともないような穏やかな顔で懐かしそうに話す香代を見つめながら、いつかこの女性を心から癒やせる場所に連れて行ってやりたいと強く思った。何の悩みも苦しみもない穏やかな場所に。そしてそのそばには彼女の最愛の息子将太がいなければならない。
「香代さんはチョコレート、好きだよね」
拓也が言った。
「なに? いきなり」
「『シンチョコ』にさ、サマー・レインボウっていうチョコレートがあって、口に入れると潮の香りがするんだよ」
「知ってる」
香代は嬉しそうに言った。
「私もよく買いに行ってた。でもあれ、夏季限定じゃない? 今十月よ」
「行ってみない? 気晴らしに。たまには外に出ないと」
「そうね……」
「お昼ご飯もまだだしさ、ついでにランチタイム!」
拓也は子供のようにはしゃいだ。
「じゃあ、ちょっと待ってて、変装強化するから」
「なにそれ。変装強化って」
香代は困った顔をした。
「もし、街で将太とかに会ったら……つらいもの」
拓也はしまった、という顔をした。
「それに、あの店のマスターのケニーさんとは昔から顔見知りだし……」
市内で一番賑やかな商業地区、すずかけ三丁目にカントリー風の大きなチョコレートハウスがある。創業20余年を数える『Simpson's Chocolate House』だ。常連客が名付けた『シンチョコ』という愛称が今では通称になり、その前庭にすらりと立つひときわ高いプラタナスの木は、『志賀工務店』のケヤキと並んで町のランドマークとしての威容を誇っている。
現在の店のオーナーはケネス・シンプソン(38)。父親アルバートがカナダから来日し、この場所に開業させた時、彼は18歳だった。中学の頃からカナダでも優秀なスイマーだったケネスは、17歳の時日本にスポーツ留学生としてやってきて、すずかけ高等学校の水泳部に所属していたことがある。その時に親しくなった同校水泳部員だった海棠ケンジとは今でも深いつき合いがある。その縁でシンプソン一家は家業のチョコレートハウスをこの町に出店することにしたのだった。そのケンジは現在同じ三丁目の『海棠スイミングスクール』のオーナーを妻ミカと共に務めている。
香代の住むアパートは駅の近くだったが、すずかけ三丁目はそこから大通りを南東に6km。篠懸川に掛かるすずかけ大橋を渡ってすぐの、車で15分ほどの道のりだった。
拓也の運転する白い軽自動車の助手席に座った香代は、大きなサングラスを掛けて濃いオレンジ色のルージュをさしてニットの帽子をかぶっていた。
「ごめんなさい、ケバいメイクよね」香代は自嘲気味につぶやいた。「なんか犯罪者みたい」
「こっちこそ。無神経に街に誘っちゃってごめん」
「いいの。なんか久しぶりでわくわくするわ」
香代はにこにこ笑いながら運転する拓也の横顔を見た。
「そうそう、拓也君」
「なに?」
「貴男がカメラマンを務めた作品が売れる理由がわかったわ」
「何ですか、いきなり」
拓也は意表を突かれて思わず丁寧な口調で応えた。
「こないだの私の作品、観て確信したの。前のDVDを観てもそう思ってたの。自分の肌って、こんなにきれいだったっけ、って」
「香代さんの肌は元々きれいじゃない」
「リカさんにも訊いたら同じこと言ってた。それは拓也君のマジックだって」
「そ、そう」
拓也は恥ずかしげに頭を掻いた。
「でね、私この前の撮影の時にセカンドカメラを務めてた山田君に訊いてみたの」
「山田に?」
「貴男がその後もう一本の作品を撮るために、先に現場を離れた後に」
「ねえねえ、山田君、拓也君のカメラで撮った女優って、みんな肌がきれいに写ってるように感じるんだけど」
山田は撮影の終わった機材を片付ける手を休めて香代に向き直った。「そう! そうなんすよ」
「何か秘密でもあるの?」
「カメラにはホワイトバランス調整っていう機能がついてるんすけど、」
「ホワイトバランス?」
「そ、白い物をちゃんと白に見えるように前もって設定することっすね」
「なんでそんなことするの? 白い物は白く写るんじゃないの?」
と思うでしょ、と山田は指を立て、言った。「例えば白いマグカップも黄色っぽい照明だと黄色に見えるでしょ?」
「そうか、そうよね」
「でも人間の目は無意識にそれを白、って判断して見てるんすよ。灯りの色を元に脳内で調整する。でもカメラはそんなに器用じゃない。」
「なるほどね」
「だから僕たちはそれを撮影前に微調整して、ビデオを見る人が違和感を持たないようにするってわけなんすよ」
「大変なんだね、カメラマンって」
「で、」山田は香代に身を乗り出して目を輝かせた。「こっからが拓也先輩のすごいとこなんすけど、」
「うん」
「あの人は女優さんの肌が一番きれいに、透き通って見えるように調整してるんす。しかもカット毎に」
「そうなの?」
「作品によっては黒ギャルが主演のものみたいに、肌の色の特徴をウリにしてるものもあるんすけど、そのウリを壊すことなく、艶やかで張りがあって、みずみずしい肌の色にしてしまう。もう神っすよ。僕たちの間では拓也先輩は『肌色マジシャン』って呼ばれてます」
「すごい人なのね、拓也君って……」
「おまけにあのカメラワーク。流れるようなティルトやパン、なめらかで加速度を微妙に変化させるズーム。それに見る者が見たいという画を完璧に判断して撮る。僕なんか何年かかってもあんなことできない。間違いなくAV界のトップ・カメラマンっすね」
拓也はハンドルを両手で握りしめ、しきりに恐縮して困ったような顔をしていた。
香代は言った。
「こんなすごい人と知り合えて、私すごく幸せね」
「そ、そんな山田の言うことなんか、真に受けちゃだめだよ、香代さん」
「たくさん勉強したんでしょう?」
「それは誰にも負けない自信があるよ。大学の時に創った短編がゼミで取り上げられてから、すっかりその気になって、それからはもうがむしゃらに」
拓也は笑った。
「きっと才能もあったんだわ」
「ただ、僕がAVカメラマンになったことを教授は嘆いてた。そんなものを撮るためにおまえを育てたんじゃない、ってね」
「どうしてこの世界に?」
「始めはバイト。でも世の中の人がそんな風に下に見ている作品を、もっとレベルが高いものにしたい、っていう思いもあった」
「現場で撮ってて集中できなくなることないの? 目の前でラブシーンやってるわけでしょ? その、カラダがむずむずしたりとか……」
「バイトの時はそうだったね」
拓也は照れくさそうに言った。
「でも、演じている女優さんも男優さんもスタッフも真剣なんだってことがわかったら、ただいい画を撮ることだけに没頭できるようになったよ」
「そうなの……」
「AV女優のことを、それまで誤解してた、ってことだね」
「誤解?」
「彼女たちだって、普通の女優さんと同じようにその演技を売って仕事をしているわけで、決して身体を売ってるわけじゃない。売春なんかと違って、尊い職業の一つだからね」
「みんなプライドがあるわね、確かに」
拓也は大きくうなずいた。
「そんな風にある意味誇りと覚悟を持たなきゃできない仕事なのに、世間からはずいぶん誤解されてるだろ? そう思うとすごく過酷な労働だと思うよ」
香代は目を閉じて小さくうなずいた。
「だから余計に、高いレベルのものを創ってAVに対する世間の偏見を少しでも減らそうって思ったんだよ」
「えらいわ……拓也君」
「なんて偉そうに言ってるけど、僕なんかができることには限界があるよね」
拓也は赤くなってまた頭を掻いた。そしてハンドルを切り、車を右折させた。
『シンチョコ』の広い前庭の一画にある石畳の駐車場に車を乗り入れた時、店の主のケネスに見送られるようにして中から一人の男子高校生が走り出てきた。そうして正面入り口の脇に駐めてあった自転車に飛び乗り、慌てたように走り去っていった。
香代はその高校生の後ろ姿を見て、息をのみ、身体を硬直させた。
「どうしたの?」
車を駐車スペースに駐めた拓也はエンジンを止めて香代に向き直った。
「い、いえ、何でもないわ」
拓也は外に回って助手席のドアを開け、香代を外へと促した。
店の外に出て先の高校生を見送ったケネスが一瞬空を仰いだ後店内に姿を消したことを確認して、香代は車を降りた。そしてああ、と小さくため息をついた。
「懐かしい……」
「雨が降り出したみたいだ」
拓也が言って、香代の手を取り、早足で店のエントランスに向かった。
シンチョコ近くの紅葉通りアーケードの端にある和食レストランの小上がりに拓也と香代は向かい合って座っていた。
「ごめん、やっぱり売ってなかったね、『サマー・レインボウ』」
拓也がおしぼりで手を拭きながら申し訳なさそうに言った。
「大丈夫。気にしないで。来年は夏に買いに行きましょう。忘れずに」
香代は笑った。しかしすぐに真顔に戻り、手を膝に乗せた。
「わざわざ連れてきてもらった拓也君には悪いけど、」
拓也は顔を上げた。
「やっぱり私、この街には来ない方が良かったのかもしれない……」
「もしかして」拓也が言った。「あの時店から出て行った高校生って」
香代は小さくうなずいた。
「つらい偶然だった……」
すぐに顔を上げて、香代は拓也を見て寂しげに微笑んだ。
「ごめんなさい、偶然よ、予測できなかったただの偶然」
そんな香代の無理のある笑顔に拓也は胸が締め付けられる思いだった。目の前に現れた自分の息子と会うことができない、声を掛け呼び止めることさえ。その理不尽極まりない事実が香代自身の責任ではないということが、拓也にむやみに歯がゆく、やるせない気持ちを抱かせるのだった。
拓也は窓の外に目をやった。いつしか雨は本降りになっていて、街全体が白く煙っていた。
「なんかすごい施設ができてるね」
「ほんとね」
アーケードの出口は大きな通りとの交差点になっていたが、そのアーケードの向かいの道路沿いに広く工事用の柵が設けられ、中では雨の中クレーン車が数台その長いアームを伸ばして太い鉄骨材を持ち上げていた。
「『海棠スイミング』のプールがあったところでしょう?」
「事業拡大してるらしいよ」
「そうなの……」
「プールの他にレストランやテナントショップ、シティホテルが建つ予定なんだって」
「そう、この街もますます活気づくわね」
「来年の10月にオープンって書いてある」
拓也は窓の外を指さした。
「そう言えば拓也君は、」香代が静かに言った。「自分のご家族のこと、話してくれたことないね、私に」
拓也は香代の顔を見つめ返した。
「貴男は私や息子の将太のことをずっと気に掛けてくれてるのに……」
香代は目を上げた。
「私も、もっと拓也君のことが知りたい」
香代から目をそらして困った顔をしていた拓也は、決心したように顔を上げ、香代の目を見つめた。
「このことを知っている人は、今はほとんどいないんだけど……」
香代は小さくうなずいた。
「僕は孤児なんだ」
香代は思わず身を硬くした。
「と言うより僕は両親の顔を知らない。僕を育ててくれたのは伯母さんなんだ」
「そ、そうだったの……ごめんなさい、貴男が、その……」
拓也は顔を上げて微笑んだ。
「ううん。こっちこそ。気を遣わせちゃってごめんね。大丈夫。今はもう平気だから」
居住まいを正した香代をまっすぐに見ながら、拓也は続けた。
「その伯母さんも、僕と血が繋がってるかどうかもわからなかった。もしかしたら赤の他人だったのかも」
「……」
「でも僕にとっては親同然。っていうか僕はずっと伯母さんを親だと思ってた」
「その伯母さんは、今どこに?」
「彼女は僕を大学にまで行かせてくれたんだけど、卒業を待たずに亡くなったんだ。だからその瞬間から僕は天涯孤独ってやつ」
拓也はうつむいて小さく笑った。
香代はしばらく言葉を無くして唇を噛みしめていた。
「でもさ、今はあんまり寂しいとは思ってないんだ。もうずいぶん日が経ったからね。それに仕事もたくさん頂いて、知り合いもいっぱいいるし」
拓也は顔を上げて微笑んだ
香代はようやく口を開いた。
「拓也君は、それからずっと一人で生きてきたのね……すごいわ、えらいよ、ほんとに……」
香代の目から涙がこぼれた。
「気を遣われるのは好きじゃないから、あまり人には話さなかったんだけど、このこと」
「ほんとにごめんなさい。訊いちゃいけないこと、訊いちゃって……」
拓也は首を振った。
「なんか香代さんに聞いてもらったらいい気持ちになったよ」
「いい気持ち?」
「うん、何だかいい気持ち」
拓也は屈託のないいつもの笑顔を香代に向けた。そして急に真面目な顔になって言った。
「僕はいつか必ず貴女を将太君の元に返す。決意を新たにしました」
そしてすぐにまた笑顔に戻った。
「拓也君……」