Twin's Story "Chocolate Time" 外伝第3集 第4話
アダルトビデオの向こう側
《4.セックス・セラピスト》
「どや、ケンジ、新しいプールは」
「ああ、快適だよ。照明も増えて明るくなったし、高精度カメラも設置したんだ」
海棠ケンジ(38)とケネス・シンプソン(39)はシンチョコの閉店後、店内の喫茶スペースで語らっていた。
「カメラ?」
「プールの真上から撮るカメラでさ、大会の時の判定にも役立つし、万一人が沈んでいても、すぐにわかるようになってる」
「なるほどな。安全管理。大事なこっちゃな」
ケネスはコーヒーのカップを口に運んだ。
「しかしおまえんとこ、えらい立派になりよったな」
「お陰さんでな」
ケンジは軽く肩をすくめてカップに手を掛けた。
「スイミングプールのドームの隣にテナントの入った三階建てのアミューズメント・プラザとかいう施設があんねやろ? レストランつきの」
「ああ、スポーツや健康をテーマにしてるから、それ系のショップにも入ってもらってる」
「三階に大浴場があるんやて? 流行っとるんか?」
「まだ開業したばかりだけどな。とりあえずいつも賑やかだ。小さい子供連れの家族が多いかな。おまえも早く家族連れて遊びに来いよ」
「ここんとこ忙しゅうてな」
ケネスは頭を掻いた。
「裏手のホテルも完成したんやろ?」
「そうだな。ホテルは来週開業する予定だ」
「町の大富豪やんか」
「いやらしい言い方するな」
ケンジは笑ってコーヒーを一口飲んだ。
「これでやっと落ち着けるよ。工事の間の約一年間、スイミングスクールは市の屋内プールを借りてたからな」
「あそこは狭いからな。スクールのカリキュラムをこなすのん、大変やったやろ」
「時間を短縮したり人数を調整したり、けっこう苦労したね」
「今度は前よりコースも増えて、生徒も増やせるんとちゃうか? サブプールもあんねやろ?」
「むやみに募集してもしょうがないよ。身の丈で続けるさ」
ケンジはテーブルのチョコレートに手を伸ばした。
「そう言やケンジ、おまえとミカ姉の妖しげなセラピストとしての顔、なかなか評判やで」
「妖しげとは何だ。ちゃんと資格があるんだぞ」
ケンジは少し赤面して反論した。
ケネスはにやにや笑いながら言った。
「いやいや、名称からしてなかなか妖しげやんか。『セックス・セラピスト』」
「うるさい」
ケンジとその二歳年上の妻ミカ(40)は、主にセックスについての悩みを持つカップルや夫婦へのカウンセリングやセラピーを昨年から行っていて、そういう看板も上げている。新しく開業するホテルの最上階には、その専用ルームが作られていた。
ケンジもミカも、在学していた健康・体育系の大学では水泳サークルに所属し、大会にも多く出場して実績を上げていた。サークルで先輩後輩の間柄だった二人は、卒業後結婚してすぐ、その高い水泳技術を生かしてケンジの生まれ育ったすずかけ町にある市内でも有数のスイミングスクールに就職した。そしてそのオーナーが引退すると、その経営をそっくり譲り受け、『海棠スイミングスクール』と名称を変えて新たにプログラムを作り直し、ケンジ、ミカ自身がインストラクターとなった。スクールは多くの優秀な選手を輩出して名を上げ、生徒数も増えたことから、オープン10周年を記念して今回ケンジは事業を拡大し『海棠スイミング・アミューズメント・ワールド(AW)』という健康・スポーツ系の総合施設を建設したのだ。
メインとなる公式競技でも使用できる50m8コースのメインプールと25m6コースのサブ・プール、それにジムやジャグジーを備えた大きなドーム型の『海棠スイミング・ドーム』。その隣に三階建ての『海棠アミューズメント・プラザ』。三階に広い大浴場を持ち、一階部分にはテナントのショップ、二階の一部にもスポーツ用品を扱うショップがあり、通りに面してファミリー向けのレストランが入っている。そしてその裏手に『シティホテルKAIDO』。14階建てで、地階に事務所、最上階に噂のセラピー・ルームがある。
『海棠スイミング・ドーム』通称『KAIドーム』の屋上の一部は空中庭園となっていて、緑化によって癒やしの空間が作り上げられていた。また、その建物の裏手には屋外プールも造られ、翌年夏にオープンする予定だった。波のプールや流れるドーナツ型プール、幼児用の水遊び場、それにスライダーやオープン・キッチン、カフェなども備えた、本格的シティ・リゾートとして新たな観光スポットになるのは間違いなしだった。
「そやけど、ケンジ。わい、前から思うとったんやけど」
「なんだ」
ケンジはカップをソーサーに戻してケネスに目を向けた。
「このバッジ、」ケネスは自分の白いユニフォームの襟についた金色の小さなバッジを指さした。「デザイン考え直して欲しい、思えへんか?」
「すずかけマイスターのこのバッジか?」
ケンジも自分の胸についた同じバッジに目を落とした。それは金色の鈴掛の木の葉の形で、真ん中に『S.M.』と赤いアルファベットが刻印されている。
K市の『すずかけマイスター制度』は、すずかけ町の商工会が推薦し市が公認している市内の優秀な技術者、職人、教育者など、社会への貢献度の高い人物に付与されるもので、市長印の押された証書とバッジが交付されることになっていた。その実績と貢献度に応じて『ゴールド』と『シルバー』の二種類があり、この『ゴールド』のバッジをつけている者は、現在市内に10人ほどしかいなかった。ケネスはショコラティエとしてゴールドランクに認定されている。
「『S.M.』って、なんかSM倶楽部の会員みたいで恥ずかし思えへんか? マイスターのこと知らん人が見たら絶対そない思うで」
「そう言われれば」
ケンジは笑った。
「おまえの場合は『セックス・マスター』の頭文字思われるで、うははは!」
ケネスは大口を開けて笑った。
「バカ言うな。何だよ『セックス・マスター』って」
ケンジはにわかに赤面した。
「で、おまえの証書には何て書いてあるんや? セックスセラピストか?」
ケンジはその旧来の親友を睨んだ。
「水泳指導者だよ」
「ああ、そっちか」
ケネスは笑った。
「知ってたくせに」
「ま、ありがたいこっちゃけどな」
「素直に喜べよ」
ケンジはカップを持ち上げ、残った一口を飲み干した。
秋を感じさせるような一陣の風が『海棠スイミングAW』の前の通りを吹きすぎた。通りに落ちていた数枚の枯葉が舞い、軽く回転して飛び去った。
通りに面した広い駐車場の一画から出発したスイミングスクールに通う生徒たちを乗せたバスを見送った後、ミカは隣に立ったケンジに言った。
「明日、クライアントとの面談が10時からだけど」
「そうだな。海山(みやま)和代も同席するのか?」
「来るって言ってた」
「そうか。今回の依頼人って、どんな感じなんだ?」
「ま、標準的なカップルだね。お互い愛し合ってるけどエッチがうまくいかなくて、彼女がなかなか感じない」
「で、海山和代の診察の結果は?」
「彼女の方の身体は健康そのもの。内分泌系も生殖系も全く問題なし」
「彼氏の方は?」
「こっちも健康体。元々高校時代ボクシングをやってたぐらいだし」
「しかし何だな、セックスのやり方を教えるっていうのも、なんかお節介だよな、考えてみれば」
「そう?」ミカはケンジを横目で見た。
「だって、みんなうまくいかないとこからスタートして、だんだん慣れてくるもんだろ? セックスなんて」
「この二人、付き合い始めて二年、身体の関係になって一年なんだってさ」
「え? そうなのか?」
「一年間挑戦し続けてもエッチがうまくいかないから泣きついてきたんでしょ? あたしたちに」
「そうなんだな」
ケンジはミカを促して『KAIドーム』の入り口に足を向けた。
◆
明くる朝、8時頃、ケンジがホテル地階の事務所に入るとすぐ、スマホの着信音が鳴った。
『ケンジさーん』
脳天気な高い声がいきなり聞こえた。
「なんだ海山和代。こんな早くから」
『今日、例のクライアントとの面談ですよね? 予定通り10時からですか? あたし何時頃行ったらいいですか? なんかおいしい物買ってきましょうか? ケンジさん何が好きでしたっけ? あ、シンチョコのガトーショコラなんかいいですね』
ケンジは眉間に深い皺を寄せて返した。
「あのな、質問は一つずつにしてくれないか。それにガトーショコラはキミの好物だろ?」
『9時頃行きます。ショコラ・プリンも買ってきますね』
ケンジの小言も返事も聞かず、その弾けた女医は一方的に通話を切った。
そう、海山和代(37)は精神科、心療内科、脳神経科、産婦人科の看板を挙げる『クリニック・マール・イ・モンターニャ』、通称『マルモン・クリニック』の経営者で、頭の切れる学会でも屈指の優秀な医者だった。ケンジとミカにとっては、セックスセラピーの重要なスタッフとして、クライアントの心理的、身体的な状況把握に貢献していた。ただ、その弾けた性格から、ケンジもミカも彼女との直接会話をできるだけ避けたいと思うのが常だった。しかしクライアントからの依頼があればそうも言ってはいられない。
海山和代は9時頃、ミカが事務所に顔を出してから間もなくやって来た。
「おはようございまーす」
「和代っ! ノックぐらいしろ」
ミカが恫喝した。
海山和代はけろっとした顔で言った。
「お約束通りガトーショコラとショコラプリン、買ってきましたー。みんなで食べましょう」
「あのな、」ケンジが腰に手を当てて言った。「遊びにきたのか、キミは」
「やだなー、ちゃんと書類、揃えて持ってきてますよ」
海山和代は左手に提げたケーキ箱を持ち上げたまま、右手に持ったバインダーで自分の顔を団扇のように扇いでみせた。
「とにかく座れ、そこに」
ミカがいらいらして言った。
ソファに座ったケンジに寄り添うように、海山和代はソファに腰を下ろした。センターテーブルを挟んでミカがその向かいに座った。
「いつも思うんだが、なんでおまえがケンジの横に座る?」
海山和代はケンジの腕に自分の腕を絡めて彼の肩に頬を乗せた。
「だって、あたしケンジさんが好きなんですう」
ケンジは海山和代の腕を振り払って言った。
「やめろ」
「いつになったら抱いてくれるんですか? ケンジさーん」
「いいかげんにしろ。俺はそんなつもりはない」
海山和代は口を尖らせた。「あたしの初体験の相手はケンジさんって決めてるのに……」
「諦めろ」
実は、海山和代は未だに男性経験がないのだった。
「やっぱりあたしが貧乳だからですか?」
「な、何を突然言い出すんだ、キミはっ」
「ミカさんは巨乳だし……やっぱりケンジさんはこのおっぱいに釣られたんですか?」
海山和代は前に座ったミカの乳房を指さした。
「釣られたとは何だ」ケンジはムキになって言った。
「相変わらずだな、おまえは……」ミカはため息をつきながら、海山和代が買ってきたケーキの箱を開け始めた。
「って、」ミカが手を止めて顔を上げた。「『シンチョコ』は10時開店だろ? 昨日買っておいたのか? このケーキ」
ちっちっち、と指を小さく左右に振って、海山和代は言った。
「さっきケニーさんを説得して開けてもらいました」
「嘘つけ。強引に乗り込んだんだろうが、おまえが」
海山和代はぺろりと舌を出した。
「マユミ先輩も迷惑そうな顔してました」
「当たり前だっ!」
実はこの海山和代、ケンジの双子の妹マユミが高校時代所属していた水泳部で、マユミと同じマネージャーを務めていた。マユミはケンジとは別の高校に通っていて、和代はマユミの一つ下の学年だった。
先輩マネージャーのマユミからも鬱陶しがられる存在だった和代は二年生の時の12月、意を決してケンジ兄妹の自宅近くの公園でケンジを待ち伏せして告白するも速攻で振られたという経験を持つ。ただ、その理由がこの弾けた性格だからというわけではなく、ケンジには当時すでにカラダの関係にまでなっていた彼女がいたからなのだった。その彼女というのが何を隠そう、彼にとっての実の妹マユミだったのだ。
当時ももちろんそのことは極秘事項で、二人のその禁断の関係を知る第三者はケンジの親友ケネス・シンプソンのみだった。ケネスは後にそのマユミと結婚し、二児の父となり、現在『シンチョコ』を二人で仲良く営んでいる。
「そう言えばマユミ先輩も巨乳ですよね。あたし、羨ましくて仕方なかったなー、高校の時」
ケンジはぎくりと肩を震わせた。「な、なんでだよ」
「だって、あの大きくてすてきなおっぱいを狙ってる男子水泳部員、山ほどいたんですから」
「何だと?!」ケンジが出し抜けに大声を出し、立ち上がった。「初耳だぞ! そんなこと」
ダージリンのティーバッグをちゃぷちゃぷとカップに出し入れしていた和代は、思わず手を止めて目を上げた。
「どうしたんです? ケンジさん、急に大きな声で」
「い、いや……」
「あの爆乳狙いで何人からもコクられてましたね、先輩」
「マ、マジか……」
ケンジはそわそわしたように目を泳がせた。
「ケンジさんはそんな妹のおっぱい見て欲情したりしなかったんですか?」
「ばっ! ばかなこと言うな! そ、そんな気になるわけないだろっ!」
ケンジは真っ赤になって否定した。
向かいに座ったミカはそんなケンジを見て小さく吹き出した。「座れば? ケンジ」
「ねえねえ、ケンジさん」
「なんだ」ケンジは愛想のない返事をして、ミカが淹れたコーヒーのカップを手に取った。
「あたしが高校時代貴男にコクった時、すでにつき合ってた彼女って、誰だったんですか?」
口に入れたコーヒーを噴きそうになって、慌てて飲み込んだケンジは早口で言った。
「またいきなり何を言い出すんだ、キミは」
「だって、ずっと気になってるんですもん」
「そんなこと知らなくていいんだよ。早く忘れろ」
そんなケンジと海山和代のやりとりをミカはずっとにやにやしながら聞いていた。ケンジと結婚したミカは海棠兄妹の高校時代の秘密を知っていたが、海山和代は未だに知らされていないのだった。
「えー、教えて下さいよ。まさかその時すでにミカさんだったとか」
「違うね」ミカが言った。「あたしたちが知り合ったのは大学時代だ、って言っただろ? 前に。覚えてないのか」
「でしたね。で、その彼女だった人、どんな人だったんですか?」
「おまえが当時も今もよーく知ってる人だよ」ミカが面白そうに言った。
「えっ? ほんとに?」和代は目を輝かせた。
「言うな」ケンジはミカを睨み付けた。
ミカは海山和代に身を乗り出して言った。
「それが誰かを知ったら、心理学者のおまえの恰好の研究対象になるだろうよ」
「え? ほんとに? どんな研究対象ですか?」
「『近親者の恋愛における心理的・遺伝的傾向について』」
「だーっ!」ケンジが立ち上がって大声を出した。「ミカっ! 話題を変えろっ!」
「?」
海山和代は眉間に深い皺を寄せ、人差し指を顎に当てて考え込んだ。
「と、とにかく、」ケンジが腕時計を海山和代に指し示しながら言った。「もう時間がない。そろそろ依頼人の二人が来る頃だ」
「あ、ほんとだ」
「ちっ」ミカは小さく舌打ちをした。
「で、今回の依頼者は?」ケンジが書類に目を通しながら言った。
海山和代の目が別人のように変わり、冷静な口調で理路整然と話し始めた。
「春人君(35)と春美さん(35)のお二人です。診察の結果、二人とも身体になんの異常も見つかりませんでした。血色も良く、食欲もあり、メタボ傾向でもなく健康そのものです」
「そうか。カウンセリングの結果は?」
「はい。それがこっちのレポート」
海山和代はファイリングされた書類を広げてセンターテーブルに乗せた。
「お互いがお互いをかけがえのないパートナーだと認識しています。結婚を前提につき合っていますが、その唯一の障害になっているのがセックスがうまくいかないこと」
「ま、わかりやすい状況だな」ミカが言った。
「私の考えでは、春人君の春美さんへのベッドでのアプローチを一度見て頂いて、その後の処置については再度話し合うのがいいかと」
「そうだね」ミカが言った。
春人と春美のカップルは予定通りにその日、ケンジとミカを訪ねた。そして『シティホテルKAIDO』最上階のセラピー・ルームで二人にセックスを実際にやってもらい、ケンジとミカ、海山和代がその様子を観察して解決法を見いだすということになった。
その部屋『フォレスト・ルーム』は明け方の森の中を思わせる落ち着いた緑がかった光に満たされ、静かなせせらぎの音や鳥の声が流れていた。
シャワーを済ませた後、春人と春美は、その部屋に案内された。
「な、何だかすてきな部屋ですね」
ドアを開けるなり春人は思わず立ち止まって中をぐるぐる見回した。
「リラックスできるよね」
春美はうっとりしたように言った。
部屋の中央に大きなベッドがあった。ピローケースとベッドカバーはお揃いのリーフ柄だった。
「別の部屋もあるんでしょう?」春人が訊いた。
ケンジが答えた。「うん。海をイメージした『マリン・ルーム』と花畑仕様の『ガーデン・ルーム』があるね」
「見てみたいね」春美が言った。
「後で見学してみる?」
「はい、是非」
「さて、それじゃあ始めてくれる? 僕たちは別室で見てるけど、君たちが合図するまで姿を見せたりしないから」
「わかりました」
「時間を気にせずいつものように楽しんでね。全て終わって気持ちが落ち着いたら、ドアの横の緑のボタンを押して知らせてね」
春人と春美はガウンを脱ぎ、お互いに下着姿になってベッドに膝立ちで向かい合ってキスをし始めた。
マジックミラーで仕切られた壁の奥のモニタールームでケンジ、ミカ、海山和代の三人は二人のベッドでの様子を観察していた。
「マッチョだね、彼」
「春美さんの方はずいぶん華奢ですね」
ミカが独り言のように言った。「ちょっと強引かな、彼氏のキス」
隣に座ったケンジも両肘をついて指を組み、言った。
「そうだな、性欲がセーブできてない感じだ」
春人は焦ったように春美を横たえると、すぐに彼女のショーツを剥ぎ取り、自分自身も下着を脱ぎ去るといきなり春美に覆い被さり、そのいきり立ったペニスを谷間に押し当てた。
「ああ、だめだな、あれじゃ」ミカが言った。
「ずっとああやって彼女を抱いてたのかな……」ケンジがため息をついた。
「経験のない私にもわかります。あれじゃ彼女は感じないですよね。今入れられても痛いだけ」
海山和代も低い声で言った。
春美は顔をゆがめて喘いでいたが、それは性的に感じていたわけではなく、ただ痛くて苦しいだけの声だと言うことは一目瞭然だった。
ベッドの上の天井に指向性マイクが設置されていて、ベッドでの声は全て拾われてモニタールームに届くようになっていた。ヘッドセットを装着した三人には、しかし彼らの言葉らしいものは何一つ聞こえてこない。春人の荒い息づかいと、春美の悲痛とも感じられるようなうめき声、そしてベッドのきしむ音。
「春美さん、壊れちゃいそう……」海山和代が気の毒そうに言った。
「会話も皆無か……」
ミカが険しい顔で言った。
その内春人は高速で腰を動かし始め、きつく春美の身体を抱きしめたままあっけなく果てた。
二人がベッドインして5分しか経過していなかった。
「ううむ……」ケンジは頭を抱えた。「こういうセックスを一年間……」
海山和代も大きなため息をついた。
「春美さん、ある意味かなりの忍耐強さですね……」
「よく続いてるよな、この二人」
ミカも半ば呆れたように言った。
ケンジとミカと海山和代が話し合って出した処置の方法をミカが説明することになった。
クライアントの春人と春美がテーブルをはさんでミカと相対して座った。
「説明するよ」
ミカが口を開いた。
「春美さんは春人君とのセックスの時に、苦痛を感じているよね? いつも」
春美は小さくうなずいた。
「何がいけないんでしょうか……」春人は泣きそうな顔でミカに身を乗り出した。
「二人がともに気持ちいいと感じるセックスのセオリーを春人君にわかってもらって、同時に春美さんの性感帯の分布傾向を知るために、ケンジを使うけど、いいかな?」
「ケンジさんを?」
「もちろんあなたたち、特に春人君の許可がなければ実行には移さない。つまり、春美さんをケンジが抱いて、実際にセックスしてそれを春人君に見てもらって、同時にケンジは春美さんの性感帯を調べる、ってことよ」
「是非!」春人は思わず立ち上がって叫んだ。「春美がケンジさんに気持ちよくしてもらえるなんて光栄です!」
ミカはちょっと呆れたように春人を見上げた。「座って、春人君」
「で、春美さんはどう?」
「あのあこがれの『セックス・マスター』ケンジさんに抱かれるなんて……」
春美は目に涙を浮かべていた。
「その後春人君には根本的な女性の扱い方を知ってもらうために、あたしとセックスしてもらう」
ぶっ!
春人がいきなり自分の鼻を両手で押さえた。指の隙間から血が垂れ始めた。ミカは黙ってテーブルにティッシュの箱を置いた。
「すびばせん……」
春人は慌ててティッシュを取り出して、鼻に詰めた。
ケンジとミカはこの熱い仕事を始めてから、今までに5本のセックス指南のための『How to Sexシリーズ』のDVDを制作していた。それはケンジとミカのモデル並みの美しい身体としなやかな動き、それにツボを的確に押さえ、なおかつ極めて官能的でありながら下品さの全くない絶妙のカメラワークによる芸術的とも言える作品で、春人たちのようにセックスがうまくいかずに悩むカップルのバイブルのようなアイテムだった。そしてそれは『海棠アミューズメント・プラザ』での販売にとどまらず、ネット上でも紹介され、通信販売によって全国にかなりの数のファンを獲得していた。
「春人君は観たことがあるの? あたしたちのDVD」
「はい。全巻持ってます。ケンジさんもミカさんもすっごくかっこよくて美しくて、俺、週一で観て抜いてます」
「抜くな」ミカは少し頬を赤くして上目遣いに春人を睨んで続けた。「そんなに何度も見てるんだったらだいたいのやり方はわかるはずだろ? なんであんな独りよがりのセックスしかできないのかな」
「あまりに世界が違いすぎて……」
ミカは遠慮なくため息をついた。
「じゃあ、今後の計画を」
ミカはそう言って二人の前に日程表を置いた。
「春美さん、生理はあった?」
「はい。先週」
「ちゃんと薬は飲んでる?」
「はい。和代先生に言われた通りに毎日」
「そう」
ミカは微笑んだ。
「ケンジさんが春美を抱く時はゴム着用なんでしょ? どうしてピルを?」
「あのね、春人君、コンドームを使ったセックスでも、妊娠率は3㌫。つまり100回に3回は避妊に失敗するってこと」
「はあ……」
「このセラピーは当然妊娠が目的じゃないから、完全に避妊する必要があるわけよ。わかる?」
「ピルってそんなに妊娠率が低いんですか?」
「0.1㌫。さらにコンドームを併用することで、ほぼ完全に避妊できるってことね」
「なるほど……」
「それから、」ミカは背後のレターケースから二枚の診断書を取り出して二人の前に置いた。「念のために言っとくけど、ケンジもあたしも二週間に一回診察を受けて、感染症の検査をしてもらってるの。これがその最新の診断書。ほんの5日前のヤツ」
「なかなか厳格ですね……」
「当然よ。あなたたちクライアントを不安にさせるようじゃセラピストとは言えないでしょ」
「恐れ入りました」
春人は頭を下げた。
ミカは指を立てて言った。
「一つお願い。三日後までに春人君、春美さんがそれぞれいつも使っているソープとシャンプー、トリートメントの類いと同じものを揃えて持ってきて」
「石けんとかシャンプーとかを何に使うんですか?」
「あなたたちがセックスする時は、たいていお風呂上がりでしょ? その時の身体の匂いに近づけるためよ。あたしたちがそれを一週間使用して、できるだけ二人の匂いを再現してあなたたちの相手をするってわけ」
「おお、なるほど」
「そしてまず春美さんがケンジとベッドインするのが今から二週間後。この水曜日の夜8時でいい?」
ミカがカレンダーを指さしながら言った。
「空けます」
「それからその翌日の木曜日が春人君とあたし。同じく夜8時。OK?」
「よろしくお願いします」
「二日とも夕方5時に二人でオフィスに来られる?」
「大丈夫です。この予定を最優先しますから」
「そう」
ミカはにっこり笑った。
「来たら四人でここのレストランで食事をして、シャワーを済ませてセラピー・ルーム入り」
「わかりました」
――そしてその二週間後。
『ガーデン・ルーム』のベッドにはどちらも下着姿の春美とケンジ。春美はアイマスクをしている。
「なんで春美は目隠しを?」
モニタールームで春人が隣に座ったミカに訊いた。
「相手が春人君だと思い込んでもらう必要があるんだよ」
そう言ってミカはヘッドセットを頭に装着した。そして口元に伸びたマイクに向かって言った。「始めて、ケンジ」
ベッドの上のケンジは、モニタールームのマジックミラーに向かって親指を立てた。
ケンジは春美を仰向けに寝かせると、髪を何度も撫でながらそっと唇を重ねた。始めはついばむように時々口を離して耳元できれいだよ、春美、と囁いた。
「見てみな、春人君、春美さんの肌がもうピンク色に染まって、力が抜けているだろ?」
「ほんとだ、なんかほんのり染まってる……」
「女の子がうっとりするような雰囲気は、触れるか触れないかぐらいのボディタッチと優しいキスから始めるのが基本」
「なるほどー」
ケンジのキスは次第にディープになっていき、そのうちに春美の方からケンジの唇を求めるようになっていった。そしてケンジは自分の唇を首筋から耳の後ろ、春美を横向きにしてうなじから背中へ這わせていった。春美はすでに小さな喘ぎ声を上げ始めた。
春美の上半身を起こして、ぎゅっと抱きしめながらケンジはまた優しくキスをした。そして唇を重ね合ったまま背中に手を回してブラのホックを外した。
「決して焦っちゃだめ。君は男だから早く春美さんの中に入りたいと思うだろうけど、それじゃだめなんだよ。春美さんがまず気持ちよくなることを考えないと」
「そうか」
ケンジは春美を再び仰向けに横たえ、その乳房の片方ずつに交互にキスをしたり、乳首を吸ったりした。空いた乳房はその大きな手で包み込んで柔らかくさすった。
「ああ、春人……」
春美は小さく口にした。
「ほら、ベッドで愛し合ってる時、あんな風に自分の名前を呼ばれたら嬉しいだろ?」
「はい。そうですね。今までなかったです、あんな声で春美が俺の名前を呼んでくれたこと」
春美の身体を慈しむように撫で、唇を這わせながら、ケンジは彼女の身体中の反応をくまなく確認した。それから横から春美の身体を腕に抱き、キスをしながらもう一方の手でゆっくりと彼女のショーツを下ろし始めた。
「ああ、欲しい、欲しいよ、春人……」
アイマスクをしたままの春美は思わず言った。
「すでに準備OKだな」ミカが言った。
「春美が欲しがる姿も、俺初めて見ました」
「かなり濡れてるようだぞ。見えるか?」
「おお、ほんとだ、シーツまで濡れてる……いよいよ合体ですね?」
「何だよ『合体』って」ミカが顔を紅潮させて昂奮し始めた春人を呆れたように横目で見た。「でもそうはいかないんだな、これが」
「え? そうなんですか?」
ケンジは春美の両脚を腕に抱えて、その秘部に静かに顔を埋めた。
ああっ、と小さく悲鳴を上げて、春美は身体を仰け反らせた。ケンジの舌がクリトリスを捉えたのだった。
そしてゆっくりと時間をかけてケンジはその行為を続けた。時折彼の手は春美のへその周辺やヒップの膨らみを撫で、さすった。
春美は細かく身体を震わせ始めた。
「めっちゃ気持ちよさそう……」春人がつぶやいた。
ケンジは口の周りについた春美の愛液を手で拭って、再び時間をかけてまたキスをした。そして静かに口を離して春美の耳元で囁いた「いい? 春美」
春美は焦ったように言った。「来て、春人、早く来て」
ケンジは再び熱いキスをしながら自分の下着を脱ぎ去り、そのまま素早くコンドームを装着した。そして口を離して自分の唾液をペニスの先端のゴムに塗りつけると、春美の両脚をゆっくりと開かせた。
「いくよ、春美」
春美は大きくうなずいた。
ケンジはゆっくりと、少しずつペニスを春美の中に沈み込ませて言った。
「ああ、春人、春人っ!」
春美は大きく喘ぎ始めた。そして動き始めたケンジに合わせて、自分も身体を上下に揺すり始めた。
「今、二人の身体が同じ波長で共鳴しているんだよ」
「ケンジさんすごい……さ、さすがセックス・マスター」
春人がはあはあと息を荒くしながら、上ずった声で言葉少なにつぶやいた。
それからケンジは春美を抱え上げて座位のスタイルで繋がり合ったり、足を交差させてペニスを抜くことなく後背位で出し入れしたり、自らが仰向けになって春美を自分の上に乗せ、騎乗位で主導権を握らせたりして昂奮を高めていった。
そして、最後に正常位のスタイルに戻ってぎゅっと力を込めてその身体を抱き、腰の動きを速くした。春美はもう大声で喘ぎ、汗だくになって身体を揺らしていた。
「イくよ、春美、一緒に」
ケンジも全身に汗を光らせながら荒い息と共に言った。
イく、イくと春美が何度も叫び身体をひくひくと痙攣させ始めた時、ケンジは喉元でぐうっ、と呻いて腰の動きを止めた。
「ああーっ!」
春美が悲鳴のような声を上げ、上になったケンジの身体をその細い腕で締め付けた。ケンジは射精の反射が終わっても、そのまま春美を抱いたままじっとしていた。
はあはあと激しく息をしながら、春美は身体の力を抜き去り、ぐったりと両手をシーツに放り出した。
ケンジはまた優しく彼女の髪を撫で、柔らかくついばむようなキスをした。
春美ははあっと大きなため息をついた。
「ミカさんっ!」突然春人が真っ赤な顔をして叫んだ。
「な、なに? どうしたの?」
「ト、トイレ貸して下さいっ! イ、イきそうですっ!」
股間を押さえて立ち上がった春人は慌てて奥にあるトイレに駆け込んだ。
ミーティングルームで四人はテーブルを囲んでいた。
「春美、すっごく感じてたみたいだったね」
春人に寄り添って座った春美は恥ずかしげに頬を赤らめ、言った。
「あんなに身体が熱くなって乱れちゃったの、生まれて初めて。もうどっかに飛んでいきそうな気持ちよさだった」
「あ、ありがとうございました、ケンジさん」春人も頬を赤く染めて前に座ったケンジに頭を下げた。「俺もめっちゃ昂奮しました」
「まったく、君が昂奮してどうする」ミカが呆れたように言った。
ケンジも少し赤くなっていた。
「うまくできそう? 春人君」
「明日、あたしが春人君を指導して、コンプリートだから」
「そうだな」ケンジは笑った。「さて、春人君」
「はい」
「春美さんの性感帯の特徴を教えるよ」
ケンジはそう言って、人体のイラストが描かれたシートを広げた。それは全身の正面、背面、そして女性器の詳細図の三種類の画だった。
ケンジは赤ペンを手に持ち、説明した。
「乳房は左の方が感度が良いけど、どちらも乳首は間違いなく性感スポット。それから向かって右側の耳の下からうなじにかけても感じるはず。唇で優しくキスしながら愛撫するといいよ」
ケンジはイラストの該当部分に印をつけながら解説を続けた。
「意外だったのは両膝の内側。指でマッサージするように揉んでやると高まり方が早まるようだね」
「はあ……」
春人だけでなく、隣の春美も自分の身体のことであるにもかかわらず、目を丸くして感心していた。
「体位はバックがけっこういける。極端な深入りはかえって違和感を感じるみたいだから、正常位で脚を抱えた状態や脚を交差させてのピストン運動なんてのは今のところあまりやらない方がいいね。それより、うつぶせにして浅いところで大きく動いた方が感じ方は大きいみたいだ」
一通りの説明が終わり、赤い印がつけられたそのシートをファイリングしながらケンジは言った。「とは言っても、その時の気分とか、慣れとかで性感帯も変わるもんだよ。一番大切なのは、この人を気持ちよくしてあげようっていう思いやりの気持ち。お互い言葉を交わし合って、どうすれば気持ちいいかを教え合うことも大事だね」
「わかりました」
「って、春人君」
「はい?」
「もしかして君は、女性って入れられれば感じるもんだ、って思ってなかった?」
春人はしきりに恐縮しながら頭を掻いた。「じ、実は……」
「意外に多いんだよ、そういう男性」
「そうなんですね……」
「しかも、女の子の方が気を遣って、それじゃ感じないってことをパートナーに伝えないから、いつまでたってもうまくいかない」
横に座ったミカが言った。
「気持ちいいのは男だけって、あまりに不公平だと思うだろ? 君も」
「そ、そうですね」
「明日ミカからそのあたりもしっかり教えてもらいなよ」
ケンジはにっこり笑った。
春人と春美は一緒に頭を下げた。
明くる日の春人とミカの実技セラピーが終わると、春人も春美も晴れ晴れとした表情になっていた。
「もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
ミカがいたずらっぽく言った。「もうこんなところに来るんじゃないよ」
春人は頭を掻いた。「はい。頑張ります」
「これからは二人で気持ちよくベッドタイムを過ごしてね」
ケンジはそう言って、ホテルのロビーから手を繋いで出て行く春人と春美をミカと共に見送った。