Chocolate Time 外伝 Hot Chocolate Time 3 (第3集) 第1作
鍵盤に乗せたラブレター
《3.本心》
翌週の月曜日は朝からやたらと蒸し暑い日だった。午後3時頃に音楽室を訪ねた冬樹は、いつものように音楽教師鷲尾彩友美に声を掛けた。
「こんにちは、先生」
彩友美は微笑みながら振り向いて言った。
「いつも熱心ね。エアコンつけていいわよ」
「大丈夫です。窓開ければ結構涼しいし」
彩友美は呆れたように言った。「今日はひときわ暑いわよ。せめて日よけにカーテン閉めるわね」
冬樹は彩友美が椅子から立ち上がろうとするのを、慌てて制止した。
「あ、先生、僕がやりますから」
「そう?」
「お気遣いなく」冬樹はにっこり笑った。
「いつも朝から来るのに、今日はどうして?」
「い、いえ、ちょ、ちょっと午前中は家の用事で……」冬樹は不自然に目を伏せた。
「そう」彩友美は敢えて笑顔で言った。「じゃあ、好きなだけ練習していってね」
「ありがとうございます」冬樹はぺこりと頭を下げた。
彩友美はドアを閉めた。
やがて音楽室から冬樹が弾くピアノの音が聞こえてきて、彩友美は机に向かって仕事を始めた。
それから30分ほど経った時、不意にピアノの音が止み、そのまましばらく音がしなかった。
彩友美はそっと音楽室へのドアを開けて中の様子をうかがった。冬樹はピアノの前に座っていなかった。彼は東向きの窓際に立ち、じっと外を見ていた。彼があまりにも身動きもせず食い入るように一点を見つめていたので、彩友美は声を掛けるのを躊躇い、そのままドアを閉めた。
彼女も準備室の窓から冬樹が見ていたプール棟に目をやった。
その窓の中を見ると、丁度プールサイドに水泳部の男子部員たちが集合しているところだった。
「冬樹君、やけにじっと見てたけど……」
彩友美は小さく呟き、もう一度その水着姿の男子の一団に目を向けた。
隣の教室から冬樹の弾くピアノの音が再び聞こえ始めた時、その中の一人がはっとした表情で顔を上げ、こちらを見たのに彩友美は気づいた。
「あれは……二年生の明智君」
その勇輔は、彩友美と目が合うと慌ててくるりと身体を反転させ、そそくさと奥に歩き去って彼女の視界から消えた。
◆
明くる火曜日は水泳部が午前中で終わる予定だったので、数日前にはうららは冬樹と二度目のデートの約束を取り付けていた。
その日、3時少し前に『シンチョコ』に着いた冬樹は、前庭に立っている大きなプラタナスの木の下に置かれた木製のベンチに腰を下ろし、バッグから黒いカバーの掛けられた手帳を取り出した。そしてページをぱらぱらと開いたところで頬を汗がつっと流れるのを感じ、ポケットからダークグリーンのハンドタオルを取り出した。その時、彼を呼ぶ愛らしい声が聞こえた。
「冬樹!」
冬樹は顔を上げ、思わず手帳を閉じて立ち上がった。
息を切らして、うららがちょっと申し訳なさそうな顔をして冬樹の前に立っていた。「ごめん、待った?」
「ううん、僕も今来たとこ……!」
冬樹は絶句した。うららの背後にポケットに手を突っ込んだ勇輔が立っていたからだった。
「ごめん、兄貴がついて来ちゃった。どうしても冬樹が見たいって」
「え? あ、あの……」
冬樹は真っ赤な顔をしてうつむいた。
「でもデートまでは連れて行かないから安心して」
「なんだ、やっぱりおまえ、あの時の」勇輔が言って、前に進み出た。そして冬樹の前に立った。
冬樹は恐る恐る顔を上げた。
「妹の彼氏って、おまえだったのか」
「いえ、あ、あの……」冬樹は顔をこわばらせた。「か、彼氏って言うか……」
「彼氏なんだろ? 今からデートすんだから」
冬樹は黙り込んでまたうつむいた。
その白い首筋に汗の粒が光っているのが見えた。勇輔は少しだけ頬を赤くして言った。「おまえのピアノ、いつも聞いてっぞ。うまいのな」
「そ、そんなこと、ないです……」
うららが兄勇輔の腕を引いた。「もういいでしょ、兄貴、邪魔しないでよ」
そして彼女は勇輔の背中を押しやりながら顔を冬樹に向けた。「ほんと、ごめん、こいつはもう帰すから」
背中を押され、通りまでやってきた勇輔はうららに耳打ちした。「なーんか、なよなよしたヤツだな。おまえあんなのがいいのかよ」
「ほっといて!」うららは小さく叫んだ。「気が済んだでしょ、もう帰って」
「わーったよ」
勇輔はそれでもちらちらと二人の方を何度も振り返りながら、ポケットに手を突っ込んでそこから歩き去った。
映画館横の喫茶店に入って、冬樹とうららは向かい合って座った。
「ごめんね、冬樹、あんなのに会わせちゃって……」うららは申し訳なさそうに言って、紙おしぼりで指先をちまちま拭き始めた。
「ううん。平気だよ」冬樹はにっこりと笑った。
「がさつでしょ? がさつだよね、あいつ……」
「男らしくてかっこいいよ」
「そう?」うららは思いきり懐疑的な表情で返した。
「スポーツやってる男子、っていう感じじゃない」
「もう見てるだけでむさ苦しくって」うららは困ったように笑った。「夏の今なんか、寄ってこられるだけで暑さが倍増しちゃう」
冬樹はあはは、と笑った。
「今日も暑いよね。外を歩いてなんかいられない」うららは手を団扇代わりにして顔の前でひらひらさせた。
「そうだね。僕もまだ汗が引かない」
冬樹はバッグから手帳を取り出してテーブルに置き、その下に潜り込んでいたダークグリーンのハンカチを引っ張り出して額の汗を拭いた。
「いつも持ち歩いてるの? その手帳」
「え? う、うん」
「何が書いてあるの?」
「スケジュールが中心かな。僕って心配性で、忘れっぽいからこれに書いておかないと不安なんだ」
「そうなんだ-、しっかりしてるね」
「そんなんじゃないけど……」冬樹は頭を掻いた。
「冬樹の愛用品なんだね」
「う、うん。これが近くにないと、不安になる」冬樹はテーブルの上のそれに右手を乗せて、恥ずかしげに微笑んだ。「『ライナスの毛布』みたいなもんかな」
うららも口を押さえて小さく笑った。
うららの前にフルーツパフェ、冬樹の前にはアイスコーヒーのグラスが運ばれてきた。冬樹はシロップも入れずにそのグラスのストローを咥えた。
「苦くない? コーヒー」うららが上目遣いで言った。
「うん。平気」
「甘い物が苦手ってこと?」うららは、柄の長いスプーンで頂上に乗せられていたチェリーをすくいながら言った。
「苦手ってわけじゃないけど、あんまり甘い物は食べないな、確かに」
「こんなパフェとか」
「そういうのはこめかみが痛くなっちゃう」冬樹は笑ってまたストローを咥えた。
「じゃあ、チョコとかも食べないの?」
「僕『シンチョコ』の『リッチカカオ・ビターチョコ』が大好きなんだ」
うららはチェリーの茎と種を左手のひらに出した。そして意外そうに言った。
「あんな苦いのがいいんだ、冬樹」
「カカオの香りが好きなんだよ」
「あたしだめ。苦いの。兄貴が飲んでたノンアル・ビールも飲んでみたけど、思わず吐き出しちゃったもん」
冬樹は笑った。「大人になればおいしいって思えるんじゃない?」
「そうかなー」
うららは生クリームをすくって口に運んだ。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
冬樹が言って、席を立った。
マンゴーのかけらを口に入れたうららは、ふとテーブルに残された冬樹の手帳に目をやった。閉じられたそれのページの隙間から、何やら写真のような物が三角形の耳を出していた。
うららはスプーンを皿に置き、そっと手を伸ばしてそのページを少しだけ開いてみた。
「えっ?!」
それは兄勇輔の水着姿の写真だった。それが学校通信の切り抜きであることはすぐにわかった。五月、母親がダイニングのテーブルでその新聞の記事を大切そうにクリアファイルに入れているところに丁度居合わせたからだ。
「な、なんで兄貴の……」
うららの鼓動は図らずも速くなっていた。彼女は慌てて手帳を閉じ、少し震える手でスプーンを手に取り、底に沈んでいたナタ・デ・ココを掘り出し始めた。
テーブルに冬樹が戻ってきた時、一瞬うららは顔を上げることができなかった。
「どうしたの? うららさん」
「え? いえ、な、何も……」
それから二人の間には話が弾まず、少し気まずい雰囲気が流れた。
「うららさん?」
「え?」
「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
「う、うん……」
うららの視線が、テーブルに置いた手帳に向けられているのに気づいた冬樹は、胸騒ぎを感じて、それをそっと手に取り、バッグにしまった。
冬樹とうららは店を出て通りをあてもなく歩いた。
うららは小さな声で言った。
「冬樹、あたしのこと、どう思ってる?」
冬樹は意表を突かれたように、うつむいていた顔を上げた。「えっ?」
「なんか……」うららはごくりと唾を飲み込んだ。「冬樹はあたしを見てくれてないような気がする……」
「そ、そんなこと……」
うららは立ち止まった。
冬樹も立ち止まった。
急に強い風が吹き、冬樹は思わず目をつぶった。
「あたしと一緒にいて、どきどきする?」
冬樹が目を開けると、うららは自分の方を少し悲しげな瞳で見つめていた。
「ど、どきどき……って?」
「男の子は、女の子にキスしたい、とかいろいろ思うんでしょ?」
「……」
「あたしとキスしたい、って思わない?」
冬樹は唇を噛みしめた。そして先に歩き始めた。
うららも少し後をついて歩いた。
交差点の横断歩道の前で立ち止まった冬樹は、うららの目を見ながら言った。「うららさんは、僕のこと、どう思ってるの?」
うららはその視線から目をそらして小さな声で言った。「好きだよ……」そしてすぐに顔を上げ、冬樹の目を見つめ返した。「あたしがコクったんだもん。当然だよ」
「そうだね……」今度は冬樹が彼女から目をそらした。
「冬樹は、どうしてあたしと付き合う気になったの?」
冬樹の全身からじわりといやな汗が滲み出た。
「……」
うららは、横断歩道前の黄色い点字ブロックを見つめながら小さな声で言った。「このまま付き合っていれば、冬樹はあたしを好きになってくれるのかな……」
冬樹はそれ以上、言葉を口にすることができなかった。
歩行者用の信号が青に変わり、二人は黙ったまま歩き始めた。
――その夜
冬樹は春菜のマンションを訪ねるなり、目の前の姉に大声で言った。
「春菜姉ちゃん、僕、もう限界だ!」
冬樹は涙目になっていた。春菜は驚いて、その弟を部屋に通すと、ダイニングの椅子に座らせた。
「ど、どうしたの? いったい……」
冬樹はテーブルに置いた両手の拳をぎゅっと握りしめて絞り出すような声で言った。「僕の気持ち、抑えきれない。もう胸が爆発しそう」
「冬樹……」
「それに……罪の意識の呵責が」
冬樹はテーブルに突っ伏した。
春菜は彼の横に立って、背中を優しくさすった。冬樹の肩は迷った子犬のように小さく震えていた。
「姉ちゃん……」冬樹はテーブルに伏せたままくぐもった声で言った。
「なに?」
「どうしたらいい? 僕、どうしたら……」
冬樹の横に椅子を近づけて座り、春菜は弟の顔を上げさせた。
「姉ちゃんに話してごらんよ」
しばらく放心したように虚ろな目をしていた冬樹は、決心したように顔を上げた。
「僕、明智さんにひどいことしてる」
「明智さんって、あなたが付き合ってる子?」
「うん」
「ぼ、僕、本当は……」冬樹は口ごもった。
「本当は?」
春菜は弟の肩にそっと手を置いた。
冬樹は小さな声で言った。「僕が本当に好きなのは、明智さんのお、お兄ちゃんの方……なんだ」
そして彼は真っ赤な顔をして、大声を出した。「だ、誰にも言わないでね!」
春菜はそんな弟の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。「そう」
冬樹は意外そうに春菜に目を向けた。
「『そう』って……。変だと思わないの? 僕がその、お、男の人が好きなんて」
「思わない」春菜はきっぱりと言った。
「……」冬樹はぽかんとした顔でにこにこ笑う姉を見つめた。
「思わないよ、変だなんて」
「本とか漫画とかのフィクションじゃないんだよ? 実際に男が男を好きになってるんだよ?」
春菜は肩をすくめた。「そんなの普通よ」
「普通……なの?」
「人を好きになるのに性別は関係ないよ」
「姉ちゃん……」
春菜は冬樹の肩から手を離してため息をついた。「でもねえ、あなた下心満載でその彼女と付き合ってたってことでしょ?」
「そ、そうなんだ」
「お兄ちゃんと親しくなりたくて、その妹に近づいた、ってことよね?」
「そうなんだ……」冬樹は小さな声で呟くように言った。
「それはNGだね」
「……」
「けじめはつけなくちゃね」春菜は冬樹の背を軽く叩きながら言った。「付き合ってる彼女には、あなたのその本心を打ち明けなさい。そして謝るのよ、ちゃんと」
「勘づかれた……かも」冬樹が少し震える声で言った後、春菜の顔を見た。
「そうなの?」
「う、うん……」
「じゃあ、なおさら早く本当のことを言わなきゃ」
「姉ちゃん……」
「まあ、『君じゃなくてお兄ちゃんのことが好きなんだ』なんて言えないでしょうから、ほんとに好きな人は別にいた、とか何とか言ってごまかすしかないでしょうけど」
「そ、そうだよね……」
春菜は弟の目をじっと見つめながら言った。「本命のお相手にあなたの気持ちを伝えるのは、その後」
◆
『酒商あけち』。
夕食後、宿題もせずにうららはベッドに横になっていた。
天井を見つめながら彼女は一つ大きなため息をついた。「何となく……わかってたんだ」
うららはごろんと寝返りを打ち身体を横に向け、枕元に置いてあるカレンダー付きの時計を手に取って文字盤を見た。
「冬樹と付き合い始めて、まだ五日目……か」うららはまたため息をついた。
不意にドアがノックされた。「おい、妹、起きてっか?」
それは兄勇輔の声だった。
うららはベッドを降りてドアを開けた。
「なによ、『妹』って。変な呼び方しないでよ」うららは勇輔を睨み付けた。「それにあたしこんな早くから寝たりしないから」
「ふて寝してんのか、って思ったんだよ」勇輔はそう努めて明るく言って、ずかずかと部屋に入り込んだ。「ほらよ」
うららは勇輔が差し出したアップルジュースの缶を受け取った。「あ、ありがと。優しいじゃん。どうしたの?」
勇輔はうららのベッドに腰掛けて、自分用に持ってきたノンアル・ビールのプルタブを起こした。
「あたしのベッドに勝手に座らないでよ」
うららはそう言いながら、兄の横に並んで座り、アップルジュースを一口飲んだ。
「デートで何かありました、って顔してっぞ、帰ってからずっと」勇輔はうららの顔を覗き込んだ。
うららは目を伏せた。「……」
「うまくいってねえのか? おまえと、その、なんだ、あいつ、えっと……」
「冬樹」
「そう、そいつ」
「たぶん……もう時間の問題」
勇輔は飲みかけた缶を口から離した。
「でも、良かったのかも」うららは微笑んで勇輔を見た。
勇輔はそんな妹の無理のある笑顔に胸を痛めながら優しく訊き返した。「なんでだよ」
「例えば何度もデートしてさ、キスしたり、深い関係になってからだと、辛いじゃん」
「何も……なかったんだ」
「何よ、残念そうに」
「ちげーよ。ほっとしてんだよ、俺も」
「何でよ」
「妹が弄ばれて捨てられるの、兄が喜ぶか? 普通」
勇輔は横目でうららを見ながら缶を口に当てた。
「いいんだ。あたしも覚悟はしてた。今までうまくいきすぎだったんだもん」
「やつに何か言われたのか? 別れよう、とか」
「ううん、まだはっきり言われたわけじゃないけどね」
「じゃ、なんで……」
うららは口ごもった。まさか、目の前にいるこの兄の写真を、付き合っているその冬樹が大事に持っているのを知ってしまった、などと言えるわけがなかった。
「……何となく」
「何だよ、それ」
うららは顔を上げて唐突に言った。「でもね、いいやつだよ、ほんと、冬樹。嫌わないでね、兄貴」
勇輔は少し動揺した。「な、何だよ、嫌わないでって、お、俺には関係ないだろ」
「そうだけどさ……」
少しの沈黙があった。
うららは勇輔に目を向け、口角を上げた。「こんな時さ、エッチなアニメだと、兄が妹を慰めるためにベッドに押し倒して……、っていう流れになるんでしょ?」
「ばっ! な、なに言ってんだ、おまえ!」勇輔はにわかに真っ赤になった。
「兄貴いつもそんなの見てるんじゃないの?」
「み、見てねえし!」
「じゃあさ、今はどんな気分? あたしを押し倒して慰める気になってる?」
「い、今はならねえ」勇輔はぽつりと言った。
うららはとっさに立ち上がり、後ずさった。「危なっ!」
勇輔は上目遣いでうららを見た。「なんだよ……」
うららは身構えながら言った。「そんな気になってたこともあった、ってこと?」
「言っただろ、オトコに調子に乗らせるなって。挑発的な行動はNGだって」勇輔は自分に言い聞かせるように言った。
「だって、あたし妹だよ?」
「そんなの関係あっか。オトコってのはな、欲情してっ時に、目の前にそれなりのメスがいたらヤっちまいてえ、って思うもんだ」
「……怖いね」
「覚えとけ。痛い目に遭う前にな」
勇輔は缶の中身をごくごくと飲んだ。
うららはさっきより少し距離を置いて、勇輔の隣に座り直した。
「で、『今は』そんな気にならないってことは、誰か好きな人でもいるの?」
「えっ?」勇輔は意表を突かれてうららを見た。
「こないだまで付き合ってた彼女と別れた後、新しく好きな人ができた、ってことなの?」
「ち、ちげーよ。そういう意味じゃなくてだな」
「じゃあどういう意味なんだよ」
「そ、それはだな」勇輔はまた顔を赤らめ、おろおろし始めた。しかしふと、うららの顔を見返して言った。「って、なんで俺が付き合ってた女と別れたこと、知ってんだよ、おまえ」
うららは肩をすくめた。「兄貴自身の顔に書いてあるっての」
「か、顔に?」勇輔は自分の顔面を両手でなで回した。
うららはいらいらしたように言った。「言葉や態度見てればわかるってことよ」
「そ、そうなんだ……」
うららはまたにやりとして低い声で言った。
「あたしみたいなかわいい女の子を目の前にしても、今はときめかない、ってことなのかなー?」そして彼女は勇輔の顔を覗き込んだ。「他にときめいてる人がいるとか……」
勇輔はごくりと唾を飲み込んだ。
「ま、いっか」うららは言って、大きなため息をついた。「ごめんね、兄貴、せっかく慰めに来てくれたのに、追い詰めるようなこと、言っちゃって」
勇輔はほっとしたように肩から力を抜き、残っていたノンアル・ビールを飲み干した。
「さてと」まるで自分を勇気づけるように威勢良く言って、うららは立ち上がった。「あたし、宿題するから、兄貴は出てって」
勇輔もゆっくりと立ち上がった。額に汗の粒が光っていた。
うららはそんな兄を目を細めて見た。「ありがとうね、勇輔お兄ちゃん。あたしを慰めてくれて」
「『お兄ちゃん』? 何だよ、気持ちわりーな」勇輔も立ち上がった。
「随分気が晴れた。感謝するよ」
勇輔はうららの部屋のドアを開けて、振り向いた。「ま、時間が経てばもっと回復すんじゃね? んじゃな」
閉められたドアに目をやりながら、うららは小さく呟いた。
「なかなか素敵な『お兄ちゃん』だね、うん。ちょっと見直した」
自分の部屋に戻った勇輔は、机に向かって、ノートパソコンを開いた。そしてブラウザを開き、密かにブックマークしていたあるサイトのタイトルをクリックした。
それは男同士の恋愛小説が綴られているR18指定のサイトだった。
勇輔は自分でもうすうす勘づいていた。数年前から自覚し始めた男性への興味。昨年度、三年生の先輩だった健太郎の水着姿を見るたび、心が熱くなっていたことを思い出していた。だが、今は違う男子のことが徒に気になっていた。
『色白の病弱な男子を、日に焼けた、逞しい体つきのサッカー部の主将、タツヤが病室に訪ね、枕元に花束を置いた。そして起き上がったその男子を堅く抱きしめ、耳元で「レン、おまえが好きだ」と囁き、唇同士を重ねた。』
文章を目で追う勇輔の顔が熱く火照り始めた。
『いつしかベッドの上で全裸になった二人は、激しく口を重ね合いながら、脚を絡めていた。そして、タツヤがレンの脚を抱え上げ、その目を見つめた。「おまえと……一つになりたい」
レンはこくんと頷いた。
ゆっくりと、タツヤの太いペニスが、レンの花びらを押し開きながら、彼の身体に深く沈み込んでいった。
レンは苦しそうな顔をして喘いでいたが、やがて、深いところで一つになったタツヤがその身体を包み込み、優しく抱きながら、頬を撫でた。「痛いか?」
「ううん。大丈夫だよ、タツヤ。僕の中に君の想いを送り込んで」
「わかった」
タツヤは腰をゆっくりと動かし始めた。』
勇輔の心拍数はかなり上昇していた。息も荒い。
彼は自分のベッドから無駄に大きな枕を持ってきて、左手でぎゅっと抱き、ズボンと下着を下ろして、大きくなった自分の持ち物を二枚重ねのティッシュで包み込み、手で握った。
『二人の身体が一緒になって大きく波打つ。病室のベッドがぎしぎしときしむ。タツヤは、レンの白い首筋に鼻を擦りつけ、息を荒くして匂いを嗅ぎながら叫んだ。「レン! レン! 俺、も、もうイく!」「イって! タツヤ! 僕も。あ、あああああーっ!」
二人の身体がびくんと跳ね、タツヤは呻いた「ぐっ! ううううっ!」
熱い想いがレンの体内に激しく注ぎ込まれるのと同時に、天を指していたレンのペニスからも勢いよく白い液が何度も迸った。』
枕を抱きしめ、それに口と鼻を押しつけながら、勇輔はティッシュで包み込んだ自分のペニスを激しくしごき、すぐに絶頂を迎えた。
「ぐううっ!」
そして彼は勢いよく射精を繰り返すのだった。
◆
――次の日
その日、いつものように部活に出かけようと部屋のドアを開けた勇輔は、偶然隣の部屋から同じように出てきたうららとばったり会った。
「なんだ、おまえ早く着替えろよ。部活遅れちまうぞ」
うららはさえない表情で兄を見上げた。「今日は女子、休みだもん」
「そ、そうか。そうだったな」
勇輔はエナメルバッグを肩から下ろして、うららに身体を向けた。
「まだ落ち込んでんのか?」
うつむいて、うららは口の中で呟いた。「ちょっとね……」そしてうららはすぐに顔を上げた。「でも、もう復活した」
「……嘘つけ」勇輔は懐疑的な目を妹に向けた。
「兄貴さ、一度冬樹のピアノ弾いてるとこ、見てみなよ」
勇輔は少し動揺したように目をしばたたかせた。「え? あ、あいつのピアノを?」
「そう。あたしの言ったことがわかると思うよ」
「どういうこった?」
「彼、兄貴が思ってるほどなよなよした男子じゃないから。少なくともピアノ弾いてる時はね」
「ふうん……」
「たぶん今日も音楽室で弾いてるはずだよ」
勇輔はエナメルバックをしばらくじっと見つめた後、それを肩に担ぎ直して言った。「じゃ、俺、行ってくっから」
「行ってらっしゃい」
◆
「今日も練習? 冬樹君熱心ね」
「すみません。ご迷惑かけて」
昼過ぎ、冬樹は学校の音楽室を訪ねた。
「全然かまわないわよ。私、あなたのピアノの弾き方、好きよ。私の若い頃にちょっと似てるかも」
「そ、そうですか?」
「感情があふれ出す感じ」彩友美は冬樹に一歩近づき、腕をこまぬいて少し首をかしげた。「同じ曲でも日が違うと全然違う曲に聞こえる。コンクール向きじゃないわね」
「え? ど、どうしてですか?」
「だって、気持ちが沈んでる時に、明るい曲なんか弾けないじゃない」
「そ、そうですね……」
「今のあなたの音楽、ちょっと切なげに聞こえるわよ。明るい長調の曲でも」
「そうですか……」
「あのね、気分が沈んでる時には敢えて暗い曲を弾くの。無理して違う雰囲気の曲を弾いても、気持ちと音楽がちぐはぐになって、聴いている人は苦しいだけ」
冬樹はうつむいて聞いていた。
「音楽ってね、演奏する人の気持ちが知らないうちに乗っかってるものよ。だから、聞いてる人にはそれが伝わるの。気になっている人が弾くピアノならなおさら」
冬樹は顔を上げて、不思議そうな目でその若い音楽教師を見た。彼女は意味ありげな笑みを浮かべていた。
「ごめんね、偉そうなこと言っちゃって」
「い、いえ、そんなこと……」
彩友美が音楽準備室に消えた後、冬樹はピアノの蓋をゆっくりと開け、静かに鍵盤に指を落とした。
彩友美は、教室から聞こえるその調べに耳を傾けた
「『ショパンの前奏曲第4番(ホ短調作品28-4)』。……なんか、切ない……」
彩友美は冬樹の弾くその胸をえぐられるような調べに、しばらく息をするのさえ忘れていた。
途中で曲が途切れた。そして新しい音楽が奏でられ始めた。それは同じショパンの『ワルツ14番ホ短調遺作』。
軽やかだが、道化師の持つ哀愁のようなものを色濃く感じる切ない曲。中間部の長調部分でさえ、笑顔の中に涙を浮かべているような感じだと彩友美は思った。しかし、その中に隠しきれない激情を秘めていることも感じ取っていた。
部活に行くために芸術棟の前を自転車で通りかかった勇輔は、音楽室の方からピアノの音が聞こえてくるのに気づき、その入り口で自転車を止めた。
「また冬樹が弾いてんのか?」
勇輔は、冬樹がどうやってピアノを弾いているのか見てみたくなった。彼は芸術棟のエントランスから靴を脱いで廊下に足を上げ、階段を上ってこっそり音楽室の方に向かって歩いた。そして気づかれないように少しだけドアを開け、中を覗いた。
冬樹は、濃い緑色のハンドタオルで首筋を拭っていた。そして、それをズボンのポケットに押し込むと、おもむろに鍵盤に指を乗せ、なめらかな動きで音楽を奏で始めた。
勇輔は息をのんだ。
ピアノに向かっている冬樹の姿は、初めて校庭で会った時や、シンチョコ前で見たうららとのデートの時とは別人のようだった。
光る額の汗。窓から吹き込む風に揺れる前髪。胸のボタンをひとつ外した白いシャツから覗く、汗ばんだ白い首筋と胸元。激しく動く白くしなやかな腕。きゅっと結んだピンク色の唇……
冬樹の弾く調べは、まるで別世界に吸い込まれていきそうな深い芸術性を湛えていた。
勇輔は我を忘れてその姿をじっと見つめていた。そして前にうららが言った言葉を思い出した。
『冬樹には色気があるんだよ』
一心不乱に鍵盤に向かうその切なげな表情に、勇輔の胸に熱いものがこみ上げてきた。そしてそのまま彼のピアノを聞き続けるのが苦しくなり、勇輔は胸を押さえて、そっとドアを閉めた。
◆
時計の針が3時を周り、外が少し暗くなってきた。遠雷も聞こえ始めた。
「雨が来そうだ……」
冬樹はそう呟いて、大きく伸びをした。
その時、不意にうららが音楽室のドアを開けた。冬樹は驚いて振り向いた。
「冬樹、今日も練習してたんだね」
少し沈んだ声でうららは言った。
冬樹は顔をこわばらせうららの少し潤んだ瞳を見た後、すぐ目を伏せた。
「冬樹」うららは彼の隣に立った。「あたし、あなたのピアノ、ちゃんと聴いたことない。聴かせて、最後に」
「最後に?」
うららはにっこりと笑った。
冬樹は唇を噛みしめ、鍵盤を見つめてごくりと唾を飲み込むと、おもむろにその白い指を動かし始めた。
その曲を聴いている間、うららは身動き一つしなかった。
冬樹は汗だくになりながら、そのショパンの『ワルツ第8番変イ長調作品64-3』を弾き続けていたが、突然、鍵盤の上で指が止まった。
ぱらぱらと軒を打つ雨粒の音が聞こえ始めた。
「ごめん、うららさん、僕、君とはもう付き合えない」
そう言うが早いか、冬樹は椅子を降りて床に土下座した。
「ごめん、僕、君の心を弄んでいた」
うららは冬樹の腕を優しく取った。よろよろと立ち上がった冬樹はこの世の終わりのような苦しそうな顔をしていた。
ワルツ第8番変イ長調作品64-3(F.F.ショパン)
「このまま貴男と付き合い続けるの、無理だね」
「うららさん……」
「あたし以外に好きな人がいた、ってことかな……」
冬樹はその問いに答えなかった。唇を噛んでうつむいているだけだった。
雷鳴が轟き、ざあっという大きな音と共に土砂降りの雨が降り始めた。
うららは冬樹の耳に口を寄せた。「素敵な曲だったよ……。ほんのちょっとだったけど、冬樹の彼女でいられて幸せだったよ」そして微笑みながら続けた。「さっきの曲『別れ』って言うんでしょ?」
「えっ?」冬樹は驚いて顔を上げた。「ど、どうして知ってるの?」
うららは微笑みを絶やさずに言った。「あたし、冬樹と付き合い始めて、CD何枚か買ったんだ。貴男が弾いた曲を家でも聞きたくて」
冬樹はますます泣きそうな顔をゆがませて叫ぶように言った。「ごめん! うららさん、本当にごめん」
「いいの。気にしないで」うららは微笑んだ。「せっかくだからさ、最後まで聴かせてよ」
しばらく固まっていた冬樹は、決心したようにゆっくりとピアノに向かって椅子に座り、唇を噛みしめたまま、その切ない音楽を弾き始めた。
曲が中間部の左手によるメロディと右手との掛け合いになった頃、うららは静かに、音を立てないようにしてそこを離れ、音楽室を後にした。
うららがいなくなった音楽室で、一人きりで曲を弾き終わった冬樹は、椅子を立ち、東側の窓に駆け寄った。
激しい雨が冬樹の視界を遮っていた。プール棟全体が真っ白に霞み、窓の中を見ることができなくなってしまっていた。
彩友美は音楽室の様子をうかがった。前と同じようにプールを見つめる冬樹の姿が目に入った。彼は切なげな表情でじっとそこを見つめている。その日は女子部員は活動がない日だということが彩友美にも解っていた。
「(冬樹君の意中の人って、もしかして……)」
◆
――その夜
冬樹は机に向かって神妙な顔をしていた。
明智勇輔様――
便せんにそう書き始めた冬樹は、緊張したように瞬きを繰り返しながら、その手紙を書き綴った。
『突然のことでびっくりするかも知れません。でも、もうこの気持ちが押さえきれないので、手紙を書く決心をしました。正直に言います。僕は勇輔先輩が好きです。貴男を見ていると身体が熱くなります。この夏休みに僕が音楽室でピアノを弾かせてもらっていたのは、実はプールにいる勇輔先輩の姿を見るための口実でした。』
冬樹は一度ペンを止め、大きなため息をついて、ごくりと唾を飲み込んだ。
『軽蔑されるかも知れません、男が男を好きになるなんて気持ち悪い、と避けられるかも知れません。でも僕はどうしても先輩に伝えたかったんです。だから、お願いが一つあります。僕の想いを知ってくれたことを僕に知らせて欲しいんです。先輩がいつも使っているグリーンのタオルを、音楽室から見えるように、窓の手すりに掛けて下さい。できればこの手紙を読んでから三日以内に……。先輩も僕に好意を寄せてくれるなんて思っていません。でも、この想いを確実に伝えたいんです。わがまま言ってすみません。先輩がこの手紙を読んでくれたということだけで、僕は諦められます。だから――』
冬樹は、何度も自分の書いた文面を読み返した。そして、震える手でそれを折り、白い封筒に入れて口をのり付けした。
――同夜
『酒商あけち』。
夜、宿題をしている勇輔の部屋をうららは訪ねた。
「まあた邪魔しにきやがった……」
勇輔は鬱陶しそうに言った。
「そんな言い方ないでしょ。ほら、兄貴の好きなノンアル・ビール持ってきてやったから」
うららはそう言いながら勇輔に冷えて露を打ったその缶を差し出した。
「そうこなくっちゃな」
缶を受け取ると、勇輔はすぐにプルタブを起こし、口に運んだ。
「勇輔兄貴はなんで付き合ってた彼女と別れたの?」
勇輔は口の中のモノを思わず噴き出しそうになって、慌ててごくりと飲み込んだ。「な、なんだよいきなり」
「っていうか、なんで付き合い始めたの?」
「そ、そりゃおまえ、あっちからコクってきたんだよ」
「兄貴もてるからね」うららは悪戯っぽく笑った。
「デートも何度かしたんでしょ?」
「ああ」
「キスとかエッチとかは?」
勇輔は真っ赤になり、目を丸くして妹を見た。
「お、おまえ、よくそんなことさらっと聞けんな」
「興味ある年頃だからね。で、どうなの?」
「キ、キスまではいった……」
「じゃあ、その先まではいかなかったんだね。なんで?」
勇輔は缶を両手で握りしめて、しばらく何かを考えていた。
うららは持っていたアップルジュースの缶を口に運んだ。
「なんか……、違う気がしたんだ」
「違う?」
「ああ。この女子は、俺が付き合うべきじゃない人っていうか……」
「何それ。ずいぶん深刻に考えてるじゃん」
「直感でな。理由なんかわからねえ」
「ふうん……」
うららはまたジュースを一口飲んだ。
勇輔もノンアル・ビールを同じように一口だけ飲んで、言った。「自分の気持ちに嘘をついてまで付き合ってちゃだめだろ。やっぱり」
「……そうだね」
「難しいよな、つきあいって」勇輔は独り言のように言った。
「兄貴から別れよう、って言ったの?」
勇輔はぽつりと言った。「言った。彼女、泣いてた」
「好きだったんだね、兄貴のことが」
「めちゃめちゃ申し訳ねえ、って思った。そん時、最後にキスして、って言われたけど、」勇輔はゴクリと唾を飲み込んだ。「できなかった……」
うららは勇輔の肩に手を置いた。「兄貴がそんな切ない気持ちになってただけでも幸せだったんじゃない? その彼女も」
「……」
「軽く平気で捨てられるよりずっとましだと思うよ」
「そうだな……」
「ところで、健太郎先輩ってさ」
うららが唐突に言ったので、勇輔は身体をびくっと硬直させ、口に運びかけた缶を下ろした。
「兄貴と仲良しだったの?」
「あ、あのな、おまえテレビCM並に話題急変させんじゃねえよ」
「ねえ、どうだったの? 健太郎先輩と兄貴」
「お、俺が尊敬する先輩だったんだよ。自分に厳しくて、でも俺たち部員にはめっちゃ優しいんだ」
「ふうん……。じゃあ、兄貴は先輩に怒られたりしたことなんかないの?」
「一度だけあったな」
「え? 一度だけ?」
「バタフライでゴールする時、後ひと掻きって時に、壁に届かなくてよ」
「なんて言われたの?」
「『思い込みでレースに挑むな』ってめちゃめちゃ厳しく怒られた」
「へえ……」
「俺、結構『こんなもんだろ』って思って失敗することがあるだろ?」
「あるね」
「そん時もそれでな、見破られて、もう涙が出るほど」
「そんな先輩だったんだ……」
「それからしばらく俺、落ち込んでた」
「兄貴でも落ち込むんだ」
「去年の6月頃だ。おまえ気づかなかったか?」
「人に気づかれるほど、落ち込んでたわけ?」
勇輔は肩をすくめた。「ま、俺ここにこもってたかんな、あの時」
「兄貴はそうやって怒られて、こいつなんか、って思わなかったの?」
「思わねえよ。先輩なんだから」
うららはちらりと横目で勇輔を見た。「その人だけは特別、って思ってたの?」
「え? な、なんだよそれ」
勇輔は少し動揺したようにそわそわし始めた。
「その健太郎先輩って、すごくかっこいい人だったんでしょ?」
「そ、そうだ」
「写真とか、ないの? その先輩の」
「去年の部活の写真に何枚かあったような……」
「ねえねえ、見せて、その写真」立ち上がったうららは、飲んでいたアップルジュースの缶を勇輔の机に置いて、彼のノートパソコンを勝手に開いた。
「こっ、こらっ! 勝手に開けるな!」勇輔は慌てた。
「何慌ててるの? エッチなサイトでも見てた?」
「見、見てたけど、もう閉じた」
「じゃあいいでしょ。ねえ、見せて、その健太郎先輩の写真」
勇輔はしぶしぶマウスを動かしながら、『部活』というフォルダを開いた。そしてその中の『写真』というフォルダを開いた。
うららはかぶりつくように身をかがめてディスプレイを覗き込んだ。
「こ、この人だよ」勇輔が顔を少し赤くしながら言って、一つの写真 を指さした。
「うわあ!」うららは大声を出した。「かっこいいね! すごい! くらくらしちゃう、この身体つき」
「お、おまえ、言ってることがエロいぞ」
「だって、ほんとにそう思うんだもん」
うららはマウスのホイールをぐりぐりと回した。
「も、もういいだろ」
マウスを握っていたうららの手をむしり取ると、勇輔はウィンドウの×マークにカーソルを持って行った。
うららはとっさに勇輔の手を押さえた。そして少し低い声で言った。「なんか……」
「な、なんだよ」
「この健太郎先輩の写真がやたらと多くない?」
「き、気のせいだ」
勇輔は構わずクリックして、開いていたすべてのウィンドウを閉じ、パソコン自体も閉じてしまった。
「で、おまえ、何の用で来たんだよ。ここに」
「別に。兄貴と雑談したかっただけ」
うららは飲み干したアップルジュースの缶を手に取ると、あっさり部屋を出て行った。
自分の部屋に戻ったうららは、ベッドにぼすん、とうつぶせになり、顎を両手で支えて独り言を言った。「実は勘づいてたんだ、あたし」
うららが健太郎の姿を見たのは今が初めてではなかった。中三だった去年、高校の水泳の大会で、勇輔の応援に会場へ行った時、選手名簿やレースのアナウンスで当時から噂だった健太郎の姿を何度も見ていたのだ。その時も、兄の勇輔が彼の前で顔を赤くしている光景も、実は何度も見ていたのだった。
「でも……、兄貴が想いを寄せてるの、健太郎さんなんだ……」うららはため息をついた。「せめて冬樹の想いを叶えたいなあ……」
うららが部屋を出て行った後、勇輔はインターネットのブラウザを開き、ブックマークメニューの奥深いところに隠してあるゲイビデオのサイトを開いた。
いくつかの新着ビデオのサムネイルが画面に並んだ。眼鏡を掛けた色白の少年が喘いでいる画に目が止まった彼は、思わずそれをクリックした。
それは華奢でか弱そうな少年が、ガタイのいい青年に服を脱がされ、抱かれているビデオだった。その少年はうっとりした顔で、白く美しい肌をさらしている。青年は彼の身体の匂いを嗅ぎながら興奮を高めていき、その唇は少年の唇に宛がわれた。唾液をまつわりつかせた赤い舌が絡み合う。青年の手は、少年の股間に伸び、体つきの割に大きく逞しくいきり立ったペニスを掴んで激しく扱いた。少年はますます息を荒くしていき、ついに、ああっ、という声を上げ、身体を仰け反らせて勢いよく射精を始めた。
勇輔の全身は熱くなり、一気に射精感が押し寄せてきた。
「鍵盤に乗せたラブレター」 1.ときめき-二人の出会い 2.男女交際 3.本心 4.重なり 5.気持ちと身体 6.思い込み 7.想いの詰め合わせ
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