Twin's Story 外伝 "Hot Chocolate Time" 第2集
――【矜恃(矜持) きょう・じ】――自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。プライド。「学生としての――を持て」(三省堂「大辞林」)
「きんじ」は慣用読み。「きょうじ」が正しい読み方。
〈1.実戦実習〉
日向夏輝(ひむかいなつき)(20)。高等学校を卒業して警察官採用試験にパスし、現在採用時教養期間を過ごしている。
その警察の『採用時教養期間』は、警察学校での『初任科教養』とそれに続く交番での実習、その後また学校に戻って『初任補修科生』として勉強や訓練に勤しみ、最後の実地研修とも言える『実戦実習』と続く。この四段階のいわゆる『見習い』期間は、夏輝のような高卒の場合は実に21か月間にも及ぶ。
夏輝はこの7月に『初任補修科生』を修了し、先週から5か月に亘る最後の『実戦実習』に入っている。
――警察官の独身寮。
シャワーを済ませた夏輝は、髪を乾かした後、ケータイを手にとって短縮ダイヤルボタンを押した。通話はすぐに繋がった。
「あ、修平?」
『夏輝。どうした?』
「ううん、別に用事ってわけじゃないんだけどさ、」
『俺の声が聞きたくなったってか?』修平はいたずらっぽく言った。
夏輝と天道修平(てんどうしゅうへい)(19)は高校三年生の頃からつき合っている。当時剣道部の主将だった修平の姿に惚れて、夏輝の方から告白した。二人とも跳ねっ返りで、しょっちゅうケンカばかりしているが、付き合い始めて二年が経ち、すでにお互いがお互いの心の中の欠かせない部分を占めるまでになっていた。
『どうだ? 実習、大変なんじゃねえのか?』
「うん。そりゃあ責任ある職種だしね」
『おまえなら大丈夫だろ。だけどよ、たまには弱音吐けよ。我慢しねえで』
「なによ、弱音って。あたしそんなヤワじゃないから」
『おまえは時々そうやって目一杯無理した挙げ句、なんか妙ちくりんなことになっちまったりするじゃねえか。そうなる前にガス抜きしねえと、周りに迷惑掛けちまうだろ?』
「なんだ。周りに迷惑かけないように言ってるんだ。あたしのこと心配してるわけじゃないんだ」
『ばーか』
夏輝は躊躇いがちに少し小さな声で言った。「近々会えないかな……。しばらく会ってないし……」
修平の返事が少しだけ遅れた。
『俺も……会いたいけど、明後日から合宿でな。その後は大学の演習がみっちり入ってるんだ。レポートもハンパねえ量、提出しなきゃなんねえし……』
「そう……。こないだも道場に来てなかったよね、修平」
『夏休みの方が忙しいんだ、大学ってところはな。すまねえな、夏輝。9月になったら時間とれるからな。それまで待てるか?』
「待てない、って言ったら?」
『どうすんだよ、待てなきゃ』
「他のオトコに色目遣うかも」
『ばーか』
修平は教育系の大学に進学していて現在二年生だった。保健体育科に在籍していて、教員免許を取るべく勉強や実習に明け暮れていた。その上剣道も続けていて、サークル活動でも対外試合や出張剣道教室などで多忙な日々を送っていた。
夏輝は警察官として履修が奨められている武道の中で剣道を選び、毎週土曜日の夜に修平も時々顔を出している道場に通っていた。
◆
夏輝が実戦実習期間中、マンツーマンで指導監督を担当する指導員は秋月遼(あきづきりょう)という巡査長だった。25歳。細身だが筋肉質で、日焼けした顔が笑うと、白い歯がやけに目立つ警察官だった。
日本茶の入った湯飲みを二つ手に持ち、秋月が狭い給湯室にやって来た。「日向巡査、」
シンクの横の台で円筒形の銀色のウォータージャグに麦茶のティバッグと水を注ぎ入れていた夏輝は、水道の栓を閉めて身体を秋月に向けた。「秋月巡査長」
秋月は手に持った湯飲みの一つを彼女の目の前に置いて、手に残った湯飲みの茶をすすった。「すっかり慣れたみたいですね、ここの交番勤務」
夏輝は湯飲みに手を掛けた。
「はい。っていうか、前に職場実習で勤めたのもこの交番なので、変に緊張することもありませんし……」
「そうか、それもそうですね」
「巡査長って、夏でも熱い緑茶がお好きなんですね」
「朝はこの一杯がないと、本調子にならないんですよ」
秋月の白い歯がこぼれた。
「パトロール、8時からでしたよね?」
「はい。準備しててくださいね。3番パトで出かけますから」
「わかりました。秋月巡査長」
駐車場で待っていた夏輝が腕時計に目をやった時、秋月がやって来た。
「今日も朝から暑いですねー」秋月は眩しい空を仰ぎながら、うんざりしたように言って、ペットボトルのお茶を夏輝に渡した。
「あ、すみません」
「警察官がパトロール中に熱中症になった、なんて洒落になりませんからね」
「確かに……そうですね」
秋月は夏輝の顔を見た。「元気ないですね、最近」
「え?」夏輝は顔を上げた。
「表情が少し……」
「疲れてるのかな……。あ、でも気を遣わないでください。あたしの健康管理が悪いんです」
秋月はちょっとだけ首をかしげて優しく言った。「時には弱音を吐くのも大事なことですよ、日向巡査」
「えっ?」夏輝は思わず秋月の顔を見た。
その巡査長は穏やかな笑顔を夏輝に向けていた。
その表情が夏輝には一瞬恋人修平のそれにだぶって見えた。
二人はパトカーに乗り込んだ。秋月はエンジンを掛け、窓を全開にした。「こもった熱気が出るまで、窓開けときます。二、三分経ったらエアコン入れますね」
「あたし、そのままでもいいです」
「え?どうして?」
「風が好きなんです。実家のアパートのあたしの部屋にもクーラーついてないし。暑さには慣れてます」
「そうなんだ。若いのになかなかストイックですね」
秋月はルームミラーと後方を確認した後、ゆっくりとパトカーを発進させた。
「それに、何かあった時、窓開けてた方が見つけやすいし、声も掛けやすいでしょ」
「まあ、貴女の言うとおりですけどね。ただ、暴力団のいる地域や暴動の現場では窓は開けない。危険だから」
「そうか……その通りですね」夏輝は感心したように秋月の横顔を見た。
秋月の運転するパトカーは、信号のある交差点を左折し、広い国道に出た。
「ところで、日向巡査は、どうして警察官になろうって思ったんですか?」
少し時間を置いた後、夏輝はゆっくりと口を開いた。
「……あたしの父は、交通事故で亡くなったんです」そして彼女はうつむいた。
秋月は慌てたように言った。「え? あ、ご、ごめんなさい、辛いこと思い出させてしまって……」
夏輝は顔を上げた。「いいんです。気にしないでください。」
「そう……だったんですか……」
「だから警察官になりたいっていう気持ちは、中学生の頃から持ってました」
「……えらいですね」
「あたしを一人で育ててくれている母を見てたら、自然とそんな気持ちに……」
「本当にえらいな、貴女は。ちゃんと信念を持ってるんだ」
「そんな大層なものじゃありませんけど……」夏輝は少し頬を赤らめた。「秋月巡査長は?」
「僕ですか? うーん……、貴女のようにしっかりした信念を持ってたわけじゃないんですけど、きっかけと言えば、高校の時からつき合ってた彼女が痴漢に遭って、でも一緒に電車に乗ってた僕はそれに気付かなかった」
「え? そんなことが?」
「はい。で、その後泣きじゃくる彼女に僕はどうしたの? としか声を掛けられなかった。結局それが原因で彼女とは気まずくなって別れちゃいましたけどね。」秋月は笑った。
「け、けんかしちゃったんですか?」
「うん。何があったのかなかなか話してくれなかったから、僕が『早く言えよ』って言ったら、『あたしがイヤな思いをしているのに、なんで気づかないの?』って返されて、それでまたムッときて『気づかれないように触るのが痴漢のやり方だろ』って言ったら、『彼氏なのにそのぐらいも気づいてくれないの?』って言われたんで、『そんなことするためにつき合ってるんじゃない』って言い返して……。それからどんどん二人とも熱くなって、街の往来の真ん中で口論になっちゃって。……笑えるでしょ?」
「そ、それが貴男の警察官になろうって思った動機なんですか?」
「動機というよりきっかけですね。どこかに彼女を見返してやろうっていう気持ちはあったかも知れません」
「そうですか……」
「でも、彼氏である自分が彼女を守ってやれなかった悔しさ、というか歯がゆさかな、やっぱり。動機と言われればそれが一番大きいかも」
秋月は遠い目をして少し寂しげに微笑んだ。
「あの……」夏輝は恐る恐る訊いた。「その彼女とは、それっきり?」
「僕にはまだ未練があります。時々電話したりもするし」
夏輝は意外そうな顔で秋月を見た。彼はにこにこ微笑んでいる。
少し安心して夏輝は言った。
「それって、別れたってことになってないんじゃないですか?」
「そうかもね。でも彼女の気持ちはどうなのかな……」
「もう立派に警察官になってるわけでしょ? 秋月さん。まだその人のことが好きなら、もう一度ちゃんと言ってみたらどうですか?」
「またつき合ってくれって?」
「はい」
「…………」秋月はちょっと難しい顔になってハンドルを握ったまま前を向いて黙り込んだ。
夏輝は慌てて言った。「あ、ご、ごめんなさい。あたし差し出がましいことを……」
「あ、いえいえ、ごめんなさい。こっちこそ貴女に気を遣わせてしまいましたね。いや、貴女の言うことももっともだな、って考え直してたところです、今」
秋月は夏輝を見て笑った。
夏輝はほっとしたように言った。「お優しいんですね、秋月巡査長……」
秋月は視線を前に戻して、照れたように頭を掻いた。
男の矜持タイム 1.実戦実習 - 2.揺れる気持ち - 3.秋月の矜恃 - 4.修平の矜恃
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