Twin's Story Chocolate Time 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第3話
海の香りとボタンダウンのシャツ
1.忘れられない香り
洋輔は、恋人杏樹と二人で街の大通りの歩道を歩いていた。その通りは車の通行量も多く、常に排気ガスの匂いがビル風の中に渦巻いていた。
「空気がよどんでる……」
杏樹が言った。
洋輔は彼女の腕が絡んだ自分の右腕をちらりと見た。「んだな。この辺に住んでるやつの肺はきっと汚れてっだろうな、スモーキーに」
「洋輔くんたら」杏樹はくすっと笑った。
交差点の横断歩道の前に立ち止まった時、杏樹は洋輔のボタンダウンシャツの袖を握ってバランスを取りながら、右足のヒールを脱ぎ、中に入っていた小石を振り出した。
「前からこんなに賑やかだったの?」
「俺が大学に通ってた頃はここまで車は走ってなかったなー。だけど俺んちあたりの賑やかさは変わんねえな」
久宝洋輔(29)はこの春楡(ハルニレ)町の一角、夜になるとにわかに賑やかさを増す歓楽街のど真ん中に古くからある『居酒屋久宝』の一人息子だった。今、恋人の杏樹と歩いている大通りを北西に1kmほど行った所に保健体育系の『尚健体育大学』があり、彼はそこの健康科学科に在学していた。この大学が町のほぼ中心に広大な敷地を持っているため、その周辺にはテニスコートや公営プール、武道館や乗馬クラブなどのスポーツ関連施設、フィットネススクール、そしてスポーツ用品店が数多く点在していた。そのお陰でアクティブな若者も多く住み、夜の歓楽街も、特に休日前後になると多くの人で溢れる活況を見せていた。巷の人々は、この『春楡町』の一番の繁華街である二丁目から三丁目にかけてのエリアを特に英語読みで『エルムタウン』と呼び、その呼称は若者だけでなく、ここに暮らし、また集う人々に広く浸透していた。
洋輔は大学卒業後、何となく家業の居酒屋を手伝ったりしてのらりくらりと過ごしていた。経営者の両親からは常々居酒屋の跡を継ぐか、どこかに就職するかさっさと決めろ、と言われていたが、彼は軽く受け流していた。
気まぐれでアルバイトしていた町外れのコンビニで知り合った斉藤杏樹(25)は、今まで彼がつき合った中では一、二を争うほどの静かな雰囲気の女性だった。口数も多い方ではなく、いきおい話は弾まなかった。だが、その笑顔は温かく、何かイライラすることがあってもそれを忘れさせてくれるような癒しをもらえた。彼女のどこに惹かれたかと問われれば、洋輔それを真っ先に答えただろう。彼女からの申し込みをOKしたのも、そういう今までにない新鮮さを味わってみたいと思ったからだった。正確に数えたことはなかったが、杏樹は洋輔にとって15、6番目の交際相手だった。
「洋輔くんは、」
ふと気がつくと、杏樹が自分の顔を見上げるようにしていた。風が吹いて、その少し赤みがかったボブカットの毛先が彼のうなじを撫でた。
「なに?」洋輔は絡んでいた彼女の腕をほどいて身体を向けた。
杏樹はうつむき、躊躇いがちに上目遣いで言った。「あたしのこと、好き?」
洋輔は折れていたシャツの袖口を直しながら肩をすくめた。「嫌いだったらこうやってくっついて歩いてねえよ」そしてにっこり笑った。
「そうね」杏樹はほっとしたように笑った。
「今日は暑いな、何だか」洋輔は額の汗を拭った。
「もう五月だからね」杏樹はバッグからハンカチを取り出して洋輔に差し出した。
「あ、いや、大丈夫」洋輔はポケットからくしゃくしゃになった白いハンカチを取り出して、恥ずかしげに笑った。
歩行者用の信号が青に変わり、二人は道路を渡り始めた。
大通りから右に折れた路地に洋輔と杏樹は足を踏み入れた。その狭い通りの両側にはティーン向けのファッションの店、アクセサリーショップ、タレントショップ、ファーストフードの店などが軒を連ねていた。
「へえ」
思わず立ち止まった洋輔が小さく呟くのを聞いた杏樹は、顔を向けてどうしたの、と訊いた。
「この通り、俺、初めてだ」
「そうなの? 街、よく歩くんじゃないの?」
「あんま来ねえな、こういうちゃらちゃらしたとこには」
「男の人にはちゃらちゃらしてるように見えるのね」杏樹は笑った。
「ん?」
洋輔は足を止めた。
「どうしたの?」杏樹がまた訊いた。
「なんか……いい匂いが」
洋輔は杏樹の手を離して、その甘い香りの発生源を求めてさらに狭い路地に入っていった。杏樹も後を追った。
それは『MUSH』という店だった。
店頭に立った洋輔はその看板を見上げて言った。「すんげーいい匂いじゃね? 何の店なんだ?」
横に立った杏樹が言った。「石けん屋さんよ。ハーブや蜂蜜なんか使って、いろんな香りを調合して作ってるのよ。入浴剤とかボディスプレーとかも売ってるわ」
「ちょっと覗いていいか?」洋輔は杏樹の顔を見た。
「いいけど」杏樹は少し面白くなさそうな顔をした。
洋輔は店内の一角に足を止めて、目の前にある深いマリンブルーの石けんの固まりをじっと見つめていた。
「『シースパイス』ってのか、これ……」
独り言を呟いて、彼は切り分けられた小さなブロックを恐る恐る手に取った。そしてゆっくりと鼻に近づけた。
ああ、と洋輔がため息をついたのを杏樹は怪訝な様子で見た。
◆
6年前。洋輔が大学を卒業した年。3月の水泳部の仲間との飲み会の後――
洋輔より二年先輩で、すでに就職している稲垣美紀に連れられて、彼は彼女のワンルームマンションの部屋までやって来ていた。
「どうぞ、久宝君」美紀が言ってドアを開けた。
洋輔は、その玄関に座り込んでスニーカーを片足ずつ脱いだ後、足下をふらつかせながら立ち上がった。
「美紀せーんぱいっ」
「久宝君、ずいぶん飲んだね。大丈夫?」
「大丈夫っす」洋輔は狭い玄関ホールに突っ立って鼻をくんくんと鳴らした。「なんかいい匂いがしますね」
「とにかく中に入りなよ」美紀はそう言って洋輔の手を引き、奥の部屋のカーペットの上に座らせた。
美紀はキッチンの冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して部屋に戻った。
「ただの水がよかった?」
正座をしていた洋輔は手を膝に置いたまま横に立った美紀を見上げた。
じっと美紀の目を見つめて黙っていた洋輔は、しばらくしてからぽつりと言った。「ください、それ」
美紀から受け取ったペットボトルのお茶を、洋輔はごくごくと一気に飲み干した。そしてはあっと大きなため息をつくと、体育座りになって膝を抱えた。
「すんません、先輩、ご厄介になっちまって」
「いいのよ、気にしないで、久宝君」
「でも、俺んち、こっから歩いて10分すよ? なんで美紀先輩のとこに泊まんなきゃなんないんだろ」
洋輔は頭を抱えた。
美紀は思いきり呆れ顔をした。「言ってたじゃない、久宝君。ご両親とけんかして今日は帰らないって。さっき」
「そう、そうなんすよ」洋輔は膝をぽんと叩いて目を上げた。
美紀は彼の横に座った。「聞いてくださいよ。先輩。親父もお袋も、俺に言うんです。おまえ、就職はどうすんだ、って」
「就職?」
「そうっす。だって、ケンジは地元でスイミングスクールのインストラクター、堅城は海上保安官、」
「小泉君は大企業『二階堂商事』だったよね」
洋輔は口をとがらせた。「同級生の中で俺だけっすよ、就職してないの」
「居酒屋の跡を継ぐんじゃないの?」
洋輔は一つうなずいた。「うん。俺もそのつもりで、ここで働く、って言ったら、ずっと接客やるつもりか、おまえ厨房に入ったことねえだろ! ってえらい剣幕で」
「調理師の資格を取れ、ってこと?」
「いきなりそんなこと言われても無理だ、って話っすよ。大学では泳いでばっかいたわけだし」
「お店で修行すればいいじゃない」
洋輔はおもしろくなさそうに口をゆがめた。「あんな口うるさい親父の下でなんか、働きたくないんす」
美紀は肩をすくめた。「で、今日はプチ家出するつもりで出てきたわけね?」
「俺もぶち切れて、じゃあ出てってやる、って啖呵切って……」
美紀は遠慮なく大きなため息をついた。「もう一本飲む?」
「すんません」洋輔はうなずいた。
二本目のペットボトルをすぐに空にした洋輔は、再び正座をして、ベッドの端に座った美紀に問いかけた。
「先輩は『マリーズコーヒー』に就職してるんすよね?」
「そうよ」
「先輩もう卒業して二年でしょ? 仕事、順調っすか?」
「接客はあんまり苦にならない。コーヒーのことにも詳しくなれるし、マフィンとかクッキーとか焼いたりラッピングしたりするの楽しいよ」
「そうなんすね……」
「でもあたしコーヒー昔から苦手なんだよね」
「そうでしたよね、じゃあなんでコーヒー屋に就職しようなんて思ったんすか?」
「苦手克服の意味もちょっとあった」美紀は笑った。「まだ無理だけど」
「変なの……」
「まだ来てくれたことないよね、久宝君。来てみてよ、お店に」
「そうっすね。そのうち行きます」
美紀は立ち上がり、洋輔が握っていた空のペットボトルを取り上げた。「少しは酔い、醒めた?」
「はい、おかげさまで……」
「シャワー浴びたら?」
「え? いいんすか」
「汗、かいてるでしょ?」
「すんません……」
「着替え、ちゃんと持ってきてるんでしょ?」
洋輔はバッグを開けてごそごそと中を漁った。「パンツだけ……」
「はあ?!」美紀は呆れた。「なによそれ。下着以外は着たきり?」
「パンツだけはちゃんと、清潔にしときたいんすよ」
「家出してきたんでしょ? 何よその軽装備。でもまあ、下着に拘るってのは見上げた心がけだわね。で、寝る時はどうするの? またそのシャツにジーンズをパジャマ代わりにする気?」
洋輔はうつむいて、恐る恐る言った。「お、俺、いつも寝る時はパンツ一丁なんすよ。やっぱ、だめっすよね? ここでは」
あはは、と美紀は笑った。「平気よ。いつも部活で水着姿のあなた達男子部員をイヤと言うほど見てたからね」
「イヤイヤ見てたんすか? 俺たちを」
美紀は噴き出した。「ぎらぎらした目で見てて欲しかった?」
「すんません。先輩、寝る時はこっち見ないでくれます?」
「恥ずかしいの?」
「そ、そりゃそうっすよ。それに、」洋輔は言葉を切って頬を赤くした。「先輩にじっと見られたら、俺、変な気持ちになっちまう……」
美紀はふふっと笑った。「わかった。でもごめんね、そのカーペットの上に休んでもらっていい? ケットはちゃんと貸してあげる」
「十分っす」
洋輔は立ち上がり、バスルームに向かった。
歯磨きを終えて美紀が部屋に戻ってきた時、洋輔はすでにカーペットの上でケットをかぶり、赤い顔をして丸くなって眠っていた。
灯りを消してベッドに横になると、洋輔の寝息だけが美紀の耳に聞こえてきた。
美紀はなかなか寝付けなかった。こうして成り行きとはいえ、二つ違いの男子を自分が一人暮らしをしている部屋に泊めることにしたのは、やっぱり問題だったかな、と思ったりした。しかし、その寝付かれない理由が、その時異様に熱くなっていた自分の身体のせいだということもわかっていた。
それでも美紀もしばらくするとうとうととし始めた。その時、眠りかけた彼女の耳に、自分の名を呼ぶかすかな声が届いた。
はっとして目を開けた美紀は床に寝ている洋輔が頭をもたげて自分の方を見ていることに気づいた。
「美紀先輩……」
「どうしたの?」美紀が言うと、洋輔は身体を起こした。窓から差し込む街灯の白い光が、彼の逞しい裸の上半身を浮かび上がらせた。
「起きてたんすか?」
「眠りかけてた……」
「先輩……俺……」
美紀はある程度覚悟していた。歳の近い男女が一つの部屋、そして夜。男という生き物がその状況で考えること……。
「久宝君、エロモードに入ったんでしょ」
「いや、あの……」
「男の子ってそんなものなんでしょ?」
「ご、ごめんなさい……」
「あたしを……だ、抱いてみる?」
美紀は自分でも驚くほど大胆なことを口にした。しかし、それと同時に身体がかっと熱くなり、動悸もますます速くなっていった。
洋輔は薄暗がりでもわかるほど目を見開いた。「い、いいんすか? 先輩」
「あたしが久宝君の目に、抱きたい女として写ってるのは、ちょっと……嬉しいかな」
洋輔は美紀のベッドににじり寄った。
「お、俺も嬉しいっす、先輩」
美紀は少し怯えたように顔をこわばらせて目を背けた。「や、優しくね、お願いだから……」
美紀を仰向けにしたまま、洋輔はその狭いベッドの上にまた正座をして彼女が着ていた薄い青色のパジャマのボタンを一つずつ、ゆっくりと外していった。美紀はぎゅっと目を閉じていた。
ごくりと洋輔が唾を飲み込む音が聞こえた。
「先輩って、寝る時はノーブラなんだ……」洋輔は小さく呟いた。
「何も言わないで、恥ずかしい……」
「あ、すんません」
それから洋輔は美紀が着ていたパジャマの上下を脱がせると、身体を傾けて美紀と唇をそっと重ね合わせた。美紀の唇も、洋輔のそれも、細かく震えていた。
洋輔は唇をその頬から耳元へ、そして首筋に移動させながら柔らかく擦りつけた。爽やかで甘く、海を思わせる香りが彼の鼻腔を満たし、彼は思わずはあっとため息をついた。
それはさっきシャワーを浴びている時に、そのバスルームにも立ちこめていた香りだった。
洋輔は美紀のショーツに手を掛けた。美紀の身体がビクン、と小さく跳ねた。彼は思わずその白くすべすべした太股を撫でた。
洋輔はバッグから小さなプラスチックの包みを取り出し、穿いていたボクサーパンツを脱ぎ去ると、その袋を破って中の物を取り出した。
「み、美紀先輩」洋輔はかすかな声で言った。
美紀もやっと聞き取れるぐらいの小さな声で言った。「いつも持ち歩いてるんだね、久宝君」
「す、すんません……」
「いいよ、久宝君……」
「ほんとに……いいんすか?」
美紀は固く目を閉じたまま顔を横に向けて小さく頷いた。
すでに硬くなり大きく伸び上がっていた自分のものに、洋輔はその薄いゴムを慣れた手つきでするすると被せた。そして美紀の両脚に手を掛け、ゆっくりと開かせた。彼女の身体はずっと細かく震えていた。
洋輔は美紀に覆い被さるように四つん這いになり、ごそごそと腰を動かし、跳ね上がったペニスを器用にその谷間の中心に宛がって中への侵入を試みた。
「いっ!」美紀が小さく叫んだ。洋輔は反射的に動きを止めた。
「だ、大丈夫っすか? 先輩」
「いいの、大丈夫、続けて……」
美紀は苦しそうに言った。
洋輔は自分の唾液をゴムを被せたペニスの先端に塗りつけた。
洋輔のものが美紀の谷間を押し広げながら深いところへ進んでいくにつれて、美紀は腰にちぎれるような痛みを感じていた。顔に、首筋に、胸に大量の汗を光らせながら、美紀は思わず呻いた。
その様子を見下ろしていた洋輔は、ひどく不安そうな顔で言った。「み、美紀先輩、痛いっすか? 苦しいっすか?」
「いいの、久宝君、動いて」
「で、でも先輩、めっちゃ苦しそう……」
しかしその時はすでに二人の身体は深く繋がり合っていた。
美紀はいきなり洋輔の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてごろりと横に転がった。そして彼の身体を下にして押さえつけながら身体を起こした。
「せ、先輩!」
あまりの痛みに、いつしか美紀の下半身は感覚をなくしていた。大きく息をしながら彼女はそれでも何かに取り憑かれたように身体を揺すった。今までに感じたことのない、身体の中心をぐいぐい押し広げられるような感覚とそれに伴うぎりぎりとした痺れが何度も押し寄せた。
美紀はもう無我夢中だった。腰をぎこちなく動かすたびに、身体の中を赤熱した鉄の棒でかき回されているような、強烈な疼痛が何度も襲いかかった。
「せ、先輩っ! 美紀先輩っ! イく! 俺、イっちまう!」
洋輔が叫んだ。そしていっそう強い中からの圧力を美紀は感じて一瞬気が遠くなり、思わず身体を倒して洋輔にしがみついた。
「久宝君! 久宝君っ!」
「出る! 出るっ!」
どくどくどくっ!
洋輔の熱い液の放出の始まりと同時に、美紀は悲鳴を上げて腰を跳ね上げた。美紀の身体から抜けて解放された洋輔のペニスは、彼自身の腹の上でびくびくと脈動しながら薄いコンドームの中に射精を続けていた。
被せられたゴムの袋に白い液を残したまま、洋輔は上になった美紀に抱きしめられていた。美紀は彼の耳元でまだ大きく荒い息を繰り返している。
「み、美紀先輩……」
「久宝君、とっても気持ち……よかったよ」
「ほ、ほんとうっすか?」
美紀は大きく頷いた。
「な、なんかめっちゃ痛がってるみたいだったっすけど」
「……ごめんね、あたしいつもあんな反応しちゃうの。びっくりさせてごめんね」
「いえ……」
「久宝君も満足した?」
「俺、」洋輔は恥ずかしげに声を落とした。「下になってイったの初めてでした」
「そうなの?」美紀は手をシーツに突いて顔を上げた。
「俺、いつも自分のペースだから……」洋輔はばつが悪そうに瞬きをした。「なんか、違う快感で、めっちゃ気持ち良かったっす」
「良かった……でも、抜けちゃったね……」
美紀は消え入るような声で言って、また洋輔の身体を抱きしめ、その肩に顎を乗せた。
美紀のうなじからほんのりと香ってくる甘い匂いに、洋輔は思わずため息をついて目を閉じた。「美紀先輩って、いい匂いっすね……すんげー幸せな気分っす」
◆
「洋輔くん、そんな匂いが好き? 『シースパイス』」
はっと我に返り、自分の顔を覗き込んでいた杏樹に目を向けて、洋輔は慌てたように言った。「え? あ、ああ」
「私、それよりこっちの『はちみつマーチ』の方が好き」
「そうか……」
「っていうか、私、この店、匂いがきつくてあんまり好きじゃないな……」
「ご、ごめん」洋輔は手に持っていた青いブロックを、慌てて元に戻した。「出ようか、杏樹」
そして彼は杏樹の手を引いてその店を後にした。
洋輔と杏樹が歩いていた通りを抜けた所に、ひときわ大きな建物が建っていた。二年前に新しくできたシネマコンプレックスだった。
洋輔はチケット売り場に立っていた。
「まだ上映まで30分ぐらいあんな……。何か飲むか? 杏樹」
「そう言えば喉渇いたね。私タピオカドリンクがいいな」
「おし」
このシネコン『シネマパーク・エルム』は、広い入り口を入るとドーム状の大きなエントランスホールがあり、それを取り囲むようにいろいろな飲食店が軒を連ねていた。いわゆる『フードコート』だ。そのフロアの中央付近にイベント用の小さなステージと、その周りには数十客のテーブルが置かれている。その日は特にイベントも予定されていなかったので、そのテーブルでくつろいでいる客はそれほど多くなかった。
映画館エリアへの入り口脇のチケット売り場の丁度反対側に、水色の看板のタピオカドリンクの店があった。洋輔と杏樹はそのカウンター席に並んで座った。