Twin's Story Chocolate Time 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第3話
海の香りとボタンダウンのシャツ
5.ストーカー
帰宅してバスルームで海の香りに包まれながらシャワーを済ませると、美紀は夜、寝る前の日課になっているメールの確認をするためにパソコンを開いた。
美紀が出会いのために取得したウェブメールの一覧には『貴女へのメッセージがあります』という『ハッピーメール』からのメッセージがずらりと並んでいる。美紀はうんざりした気分で『ハッピーカップル』のサイトを開き、マイページに移動した。受信欄には、相変わらず身体の関係を求める、おそらく露骨な書き込みのたくさんの男性からのメッセージが並んでいた。
「えっ?」
美紀が小さく叫んだのはその中に『ヒロユキ』からのものが数件あったからだった。
彼女は思わずそのメッセージを開いた。
『明日会おう。君の仕事が終わる夕方6時、シネコンの入り口で待ってる』
「(なに? この人強引。もう断ったはずなのに……)」
桂木がわざわざシネコンの入り口を指定したのは、もしかしたら自分の仕事先を知ってのことだったのかも知れないと考えると、美紀は背中に寒気が走るのを禁じ得なかった。それに明日の勤務は5時半で終わる。あの中年男はそこまで自分の予定を知っているのだろうか、と彼女は言うに言われぬ恐怖感を抱かざるを得なかった。
明くる日、美紀は仕事中もずっと落ち着かなかった。あのロマンスグレーの黒縁眼鏡を掛けた男が、店の前をうろついているのではないか、と気が気ではなく、仕事中何度も店の外をホールの大きなガラス窓越しに見やった。
美紀の心配は的中した。『マリーズコーヒー』での仕事を終え、スタッフルームで着替えを済ませた彼女が店の裏口を出た時、出し抜けにケータイに電話がかかってきた。見たことのない番号だった。美紀は躊躇いながらも、通話ボタンを押した。
「はい……」
『僕だ。桂木だ。約束通り、シネコンの前にいる。おいで』
美紀は教えたはずのない自分のケータイ番号を桂木が知っていたことに、激しい憤りを感じていた。
「あ、あの、あたしもう貴男とは」震える声で美紀がそう言いかけた言葉を遮って桂木は言った。「とにかく話をしよう。来るんだ」
美紀はこの場は逃れられないと観念した。そして青ざめた硬い表情のまま、シネコンに向かうプロムナードを歩き始めた。
桂木は初めて会った時と同じスーツ姿で立っていた。口元には怪しげな笑みが浮かんでいる。美紀はこの際はっきりと、もう会わないと告げようと決心していた。
美紀は桂木の前に立った。
「何ですか? お話って」
「また会えて嬉しいよ」
「どうしてあたしがあの店に勤めていることをご存じなんですか? それに電話番号や今日の勤務時間まで」
桂木は肩をすくめた。「君があそこで働いていることは偶然知った。僕も仕事でちょくちょくこのシネコンに足を運ぶから。君が5時半で仕事が終わることは今朝、店長に聞いた。電話番号も。君が出勤する前にね」
美紀は桂木を睨み付け、唇を噛みしめた。
「なかなかいい店じゃないか。店長が親切で頼りになる」桂木はいやらしい顔でにやりと笑った。「さあ二人きりになれるところに行こうか」
美紀はめまぐるしい勢いで考えた。強引に自分をホテルに連れ込もうとしているこの男から縁を切るにはどうしたらいいのだろう。お互い大人だし、きっと話せばわかってくれるはずだ。
「あの、お話でしたら、そこのファミレスで」
桂木はあからさまに不機嫌な顔をして、しばらく黙って美紀を見つめた。そして低い声でゆっくりと言った。
「わかった。そうしよう」
そのシネコンの中にあるファミリーレストランはガラス張りのオープンな雰囲気だった。美紀は人目がある場所ならこの男が衝動的な行動に出ることはないだろう、と踏んだのだった。
白いテーブルにホールスタッフが氷と水の入ったグラスを二つ並べて置いて去った後、美紀の方から口を開いた。
「この前はお世話になりました。申し訳ありません、わたし貴男との関係を解消したいです」
「まだ一回しか愛し合ってないじゃないか。これから身体の相性も良くなっていくよ」
「ごめんなさい」
「僕は今夜はフリーだ。もう一度君を抱きたい。いいだろ?」
美紀はうつむいたまま小さな声で言った。「あたし、気になっている人がいるんです」
「気になっている人? なんだそれは。じゃあ私とのあの時間は遊びだったっていうのか?」
自分だって遊びだったくせに、と美紀は思った。
「本当にすみません。貴男と会った時はまだ迷いがあったんです。でも今は……」
「そいつも出会い系サイトで知り合ったオトコなのか?」
その通りだったが、美紀は嘘をついた。
「いいえ。前から知ってる人です。急に気になり始めて……」
「そうか」
桂木はふっとため息をつき、グラスに手を伸ばした。その時、ホールスタッフが注文していたコーヒーと紅茶を運んできた。
美紀は紅茶のカップを引き寄せながら言った。「ほんとにごめんなさい。貴男の気持ちを、結果的にもてあそぶことになって……」
桂木はコーヒーカップを手に取り、ゆっくりと傾けた。
「君の気持ちがそうなら、私が後追いすることはできないね」
美紀はほっと胸をなで下ろし、赤い薔薇の花がプリントされたカップを口に運んだ。
「わかった。今日は諦めよう」
美紀は顔を上げた。「(『今日は』? まだ諦めてないの? この人!)」
桂木はテーブルに身を乗り出すようにして口角を上げた。「私は君がそいつにふられることを神に祈るとしよう」
美紀は言葉をなくして思わず身を引いた。
「そしたらまた私は君を誘うことができるからね」
「やめてください!」美紀は大声を出していた。背後のテーブルにいたサラリーマン風の男性が、読んでいた雑誌からちらりと目を上げた。
桂木は椅子に座り直して白いカップを手に取った。
「冗談だよ。もう君とは二度と会わない」そして寂しげに笑った。
半分残した紅茶のカップを少し奥に押しやって、美紀はバッグを肩に掛けた。
「それじゃ、あたし、帰ります」
桂木はテーブルに置かれていた注文票に手を伸ばした。「私が払うよ」
「いえ」美紀は言って、その注文票の上に千円札を載せた。「ここはあたしに持たせて下さい」
桂木はふっと片頬で笑った。「手切れ金ってとこか。安いもんだな」
そんな嫌味を背に受けて美紀は席を立ち、レジの奥にあるトイレに向かった。このオトコの顔を、もう二度と見たくなかったからだった。
トイレの鏡の前で美紀は自分の顔をじっと見つめた。「自業自得……だけど……」
美紀がそこを出て、レジのあるホールへの角を曲がろうとした時、いきなり桂木が現れ、彼女の身体を壁に押しつけた。
美紀はきゃっという叫び声を上げた。そしてその脂ぎった黒眼鏡オトコの顔を見上げた。
「別れる前に、君との思い出にしたい。キスをしてくれないか?」
「いやっ! やめてっ!」
両肩にかかる桂木の手の圧力が増した。そしてオトコの顔が美紀の顔に近づいた。
その時。
「そこで何やってる!」
鋭い声がした。桂木はとっさに美紀から身体を離した。美紀は思わずその場にしゃがみ込んだ。
「嫌がってんじゃねーか、通報すっぞ!」
壁際にうずくまった美紀と桂木の間に割って入ったのは久宝洋輔だった。
「く、久宝くん……」美紀はその仁王立ちになった後輩の背中を見上げた。
「美紀先輩、大丈夫っすか?」洋輔は振り向いて言った。そして目の前の黒縁眼鏡の中年オトコに向き直って、鋭い目で睨み付けた。「消えろ! 無抵抗の女に乱暴すんじゃねえよ!」
桂木は噛みしめた唇をぶるぶると震わせていたが、すぐにそのまま慌てたようにそこを離れた。
洋輔は美紀の手を取って立たせた。
「大丈夫っすか? 先輩」
「久宝君……」美紀は涙ぐんだ目を洋輔に向けた。
「事情を聞かせて下さいよ」
洋輔はデートの最中だった。美紀は彼に連れられて店の奥のテーブルに向かった。そこにはボブカットの小柄な女性がちょこんと座っていて、両手でグラスを抱えるようにしてオレンジジュースを飲んでいた。
杏樹は目を上げ、美紀を見て眉をひそめた。
頭を掻きながら洋輔は杏樹の隣に座った。そして美紀を向かいの椅子に座らせた。
「俺の大学ン時の先輩。美紀先輩っつーんだ」
「そう」グラスをテーブルに戻して杏樹は言った。
「悪漢に襲われてたのを助けたんだぜ、俺。すげえだろ」洋輔はわははと笑ってふんぞり返った。
「先輩なの……」
「ごめんなさい、デート中に」美紀はしきりに恐縮して、涙を拭いたハンカチをぎゅっと握りしめた。
「誰なんすか? あのオトコ。知り合い?」
美紀は首を振った。「……知らない人」
「危ねえなー。こんな人気のある所で見境なくす男って、いるんすね」
「ごめんね、ありがとう久宝君。助かった……」
「大声出してくださいよ、そうすりゃ誰かが気づいて助けてくれるから」
美紀は上目遣いで洋輔を見た。「久宝君がいてくれて、本当に幸運だった」
洋輔の隣の杏樹が、またグラスを抱えて言った。「でもいざっていう時は声が出ないっていうわよ」
「そうなのか?」洋輔は美紀に目を向け直した。「美紀先輩もそうだったっすか?」
美紀はコクンとうなずいた。「悲鳴もあげられなかった……」
「護身術でも習わねえと無理なのかね……」洋輔は自分の顎をさすりながら言った。
「洋輔くん、今度教えてあげたら? 先輩に」
「あいにくそんな知識はねえよ。でも先輩はなんでここに?」
「あたしの勤めてる『マリーズコーヒー』は今、このシネコンの中なの。ほら、チケット売り場の反対側」
「え? そうだったんすか?」
「このシネコンができた時にテナントで入ったの」
「っつーことは仕事帰り、なんすか?」
「そう」
美紀は立ち上がった。
「邪魔しちゃったね。あたし帰るね」
「出口まで送ります」洋輔も注文票を手に立ち上がり、杏樹も後に続いた。
レジを済ませた洋輔の後に続いて店を出た杏樹は、美紀が横に立った時、ほのかにすっとした海を思わせる甘い香りがするのに気づいた。
「部屋まで送りたいけど、すんません、今、こんなだから……」洋輔が頭を掻いた。
「うん。大丈夫。人通りの多いところを選んで帰るよ。じゃあね、彼女と素敵な時間を」
美紀はようやくぎこちないながらも笑顔を作って、小さく右手を振ると、すぐに二人に背を向け歩き出した。
「ん? どうした? 杏樹」洋輔が美紀の後ろ姿に手を振りながら、横に立った杏樹に目を向けた。
「あの先輩とは親しいの? 洋輔君」
「親しいも何も」洋輔は杏樹に身体を向けた。「大学ン時の先輩だっつっただろ。部活でずっと一緒のあこがれの先輩だったんだぜ。『サヨリお嬢』ってみんな呼んでた。クロールのフォームがめちゃめちゃスマートでかっこいいんだ」
「憧れの先輩だったんだ……」杏樹は少しだけ顔をうつむけた。「それだけ?」
「は? 何だよ『それだけ』って」
「何でもない」杏樹はそう言って洋輔の腕に自分のそれを絡めた。