高森美穂は短大卒業後、町の事務用品店に就職し、主に配達の仕事をしていた。彼女は定期的に市内の公立学校を回り、授業で使う教材などの注文を受け、それを届けるというチームに所属していた。この仕事は特に年度初めが目の回るような忙しさで、得意先の学校の、それぞれの教科の担当教師がその年度中に使用する資料集やら問題集やらの注文をひっきりなしに伝えてくる。頼まれた一学年数百冊の教材ドリル集の入った段ボールをカートに乗せて汗だくで運んでいる最中に廊下で呼び止められ、一方的にあれとこれを持ってきて、と言われることなど毎度のことだった。それでも元来ポジティブな美穂は持ち前の愛想の良さでそれににこやかに応えていた。それが逆に他のスタッフをスルーして自分に注文を頼んでくる教師を増やす要因になっていて、美穂自身は少しばかり気まずい思いをしていた。
そんな教師の中、やはり得意先であるS中学校の数学教師増岡英明(31)は、美穂のそんな心の隅に縮こまっているちょっとした悩みを理解してくれる希少な存在だった。
「ごめん、高森さん、手が空いたら事務室に来てくれないかな? 数学の問題集を頼みたいんだ」
美穂は首に掛けたタオルを思わず外し、笑顔を作って言った。「あ、増岡先生。今でもいいですよ」
ポケットからメモ帳を取り出そうとした美穂を増岡は遮った。
「いやいや、その荷物を運んだ後で構わないよ」増岡はそう言いながら美穂が足下に置いた段ボール箱を見下ろした。「手伝おうか?」
「い、いえ、とんでもない。結構です。先生にそんなことをしていただくわけには」
増岡の申し出を丁重に断り、予定していた運搬の仕事を片付けた後、美穂はタオルで額の汗を拭いながら一階の事務室に足を向けた。
失礼します、と言って事務室のドアを開けた美穂の鼻をコーヒーのかぐわしい香りがくすぐった。
「ごめんね、高森さん、こんな所まで呼び出しちゃって。さ、どうぞ」
増岡はそう言いながら事務室のソファに座るよう美穂を促した。
「休憩がてら」増岡は美穂の前にコーヒーのカップを置いた。
「あ、すみません、こんなことまでしていただいて……」
美穂は大いに恐縮して身体を縮めた。
「君がチームの誰かと一緒に来てる時はこうして誘うのは気が引けるから、チャンスを窺ってたんだ」
増岡はウィンクをした。
美穂の会社は月に一度程度の定期的な学校訪問では単独行動を命じられていた。いくつもの段ボールに詰められた教材の配達の時は明らかに人手不足だったが、会社の効率優先のマニュアルに例外はなかった。
「ところで高森さんは幾つ?」増岡はセンターテーブルを挟んで美穂と向かい合って座った。
「え? あ、歳ですか? この夏に22になります。短大を出て二年目です」
そう、とにっこり笑って増岡は自分のカップを持ち上げた。笑顔になると目が細く垂れて、その逞しい体格に不釣り合いなほどの可愛らしい表情になるんだな、と美穂は思い、思わず頬を緩めた。
「若いのによく気がつくし、くるくるよく動くね。いつも感心して見てるんだ」
「そんなこと……」
美穂は恥ずかしげにうつむいた。
そんなことがあってから、美穂は自らS中学校への教材配達を買って出て、そこを訪れた時は、決まって最後に増岡英明に何か注文はありませんか、と尋ねるようになっていた。そんな時、増岡は決まって事務室に美穂を呼び、他愛のない話をしたり聞いたりしてくれた。
美穂の心の中に占める増岡の存在は確実にその割合を増していた。
ある秋の日。いつものようにS中学校を訪ね、事務室のソファで半ば無理矢理くつろがされた美穂は帰り際、玄関で増岡に小さく折った紙切れを無言で手渡された。
校舎を出て、駐車場に駐めた社用車の運転席に座った美穂は、そこで増岡からもらった紙を広げた。
『もし、君が迷惑でなければ、今夜電話をしてくれませんか?』
その短い文の下に増岡の携帯の番号が記されていた。すっかり涼しい気候になっていたのに、美穂の顔はかっと熱を帯びた。
それから美穂は増岡にプライベートで誘われるようになった。
学校で電話番号の書かれた紙を渡されて一か月程経った頃、二人で初めて入った『シンチョコ』の喫茶スペースで美穂は増岡に告白された。
「おつき合いをしたいんです。君と」
おもむろに立ち上がり丁寧に頭を下げた増岡を美穂は恥ずかしげに見上げた。
はいと小さな声で応え、端から見たら無理して作ったような微笑みを緊張した面持ちで直立不動のまま固まっていた増岡に向けると、その大柄な男性はひどく嬉しそうに顔をほころばせた。そしてあの子供のような可愛らしい笑顔を作って椅子に座り直した。
「ありがとう……ございます」
英明は緊張が一気にほぐれたようにはあっと大きなため息をついた。
その時増岡英明は32歳。美穂とは10歳の年齢差だった。
学校の教師というのは決して楽な仕事ではない。特に残業が認められていないにも関わらず、定時で退勤できる日など年に数えるほどしかない。その上ほとんど義務的に何かの部活動の担当を言いつけられる。美穂はそれを学校への教材の配達業務をやり始めてから知った。卓球部の顧問をしている増岡は授業のない日も練習試合などで出勤する週末を送っていたが、美穂とつき合い始めてからはもう一人の担当の教師に練習の指導を頼んだり、練習時間をやりくりしたりして、できる限りのデートの時間を捻出してくれた。
増岡は世の中の恋人たちがそうするように食事や映画に美穂を誘い、二人で一緒に過ごす時間を純粋に楽しんでいるようだった。美穂の前では彼は教師のイメージとして思われているような説教がましい物言いもしないし、才を衒ったりもしなかった。美穂はそういう増岡の振る舞いに恋人としての好意以上のものを持ち始めていた。
◆
その年の暮れ、約束していたクリスマス・イブのデートが増岡によって三日前にキャンセルされた。
「ごめん、イブの日、会えなくなった」
増岡の声は沈んでいた。
「え? どうしたの?」
「姉が亡くなったんだ……」
美穂は絶句した。スマホを持つ手がじっとりと汗ばんだ。
「ごめん。僕も楽しみにしていたんだけど……」
「お姉さんが……。お幾つだったんですか?」
「僕の八つ上。くも膜下出血で突然……」
「そう……ですか。あたしは大丈夫。貴男もいろいろと大変でしょうけど……」
美穂はこんな時に電話の向こうの大切な人にかける適当な言葉が出てこないことがひどくもどかしかった。
「ほんとにごめん。この埋め合わせはちゃんとするから」
「気にしないでください。それよりあたしにできること、ありませんか?」
「いや、大丈夫。気遣いは無用です。葬儀は親族だけで済ますことにしたから」
いつもより明らかに言葉少なだった。そして通話は増岡から先に切られた。
年が明けて二月の声を聞くようになった頃、ようやく美穂は増岡と会うことができた。
『シンチョコ』のメイン・エントランスの前には、バレンタインデーのセールを予告する大きなアーチ型の看板が立てられていた。増岡はドアを開け、美穂の手を取って店内に足を踏み入れた。
増岡は美穂が厚手のライトグリーンのコートを脱ぐのに手を貸して、喫茶スペースの隅のハンガーにそれを掛けている時、店主ケネスの妻マユミが水の入ったグラスを二つ運んできて、窓際の席に先に座っていた美穂のテーブルに置いた。
「いらっしゃい。デート?」
「あ、マユミ。うん」
すぐに増岡もやって来て美穂に向かい合って座った。
「こんにちは、増岡先生」
「こんにちは。おじゃまします」
マユミはにこにこ笑いながら訊いた。「何になさいますか?」
増岡はコーヒーを、と言った。
「あたしもそれで」美穂も言った。
マユミがテーブルを離れると、美穂はグラスと一緒に置かれたナプキンで手指を拭き始めた。
「イブの日は本当に申し訳ない」
「いえ」美穂は慌ててかぶりを振った。「貴男の方こそ、いろいろと大変だったでしょう?」
「突然のことだったからね……」
増岡は小さなため息をついてうつむいた。
「お寂しいでしょう? あの……しばらくは無理してあたしを誘ってくださらなくても……」
増岡は顔を上げて力なく笑った。
「高森さんと会って、寂しさを忘れたいんだよ」そして照れたようにぎこちない笑みを浮かべた。「一緒に居て癒やされる人がいて、本当に良かったと思う」
その言葉を聞いた美穂は恥ずかしげに頬を染めた。
二人の前にコーヒーカップが置かれると、増岡が促した。
「身体、冷えてるんじゃない? おあがりよ」
「はい、ありがとうございます」美穂はその言葉に素直に従ってカップを両手で包み込むように持ち上げ、コーヒーをすすった。
増岡もカップを口に運び、一口飲んでソーサーに戻した後、静かに話し始めた。
「姉の人生はあまり幸せとは言えないものだった」
美穂は顔を上げた。
「彼女は二十歳の時に結婚した夫とは離婚してるんだ」
「そうなんですね……」
「その夫はアルコール依存症でね、時折暴力もふるってた。いわゆるDVってやつ」
美穂は返す言葉を見つけあぐねていた。
「そんな彼も、結婚してすぐの頃は普通の……何て言うかどっちかって言うと気弱な感じの男だった。姉は気が強くて突っ走りやすい人だったから、DVの話を聞いた時はちょっと信じがたい感じだった」
「お子さんはいらっしゃったの?」
「できちゃった婚だったから、結婚した時は臨月だった。姉が離婚したのはその息子が10歳の時だったかな。その夫も依存症であることを自覚していて、このままでは妻子が不幸になるっていうんで協議離婚という選択をした。姉は一度は引き留めはしたけど、息子のことを考えるとそれ以上は強く言えなかったらしい。僕ら家族もその方がいいだろうっていう結論だったよ」
「亡くなられたお姉さんには持病が?」
「いや」増岡は首を振った。「血圧は確かに高めだったけどね」
増岡は肩をすくめた。「人間いつ、どうなるかわからないってことだよ」そしてカップを持ち上げた。
「その息子さんは?」
「ああ、大学に通ってる。二十歳だから今度成人式だな。やつも相当ショックを受けていたんだろうけどね、通夜の時も葬儀の最中も一度も泣かなかった。姉に似て気丈な男なんだよ。」
「辛いでしょうね……」
「でもあいつが暗い顔をしているのを見たことはないんだ。泣いてるところも見たことがない」増岡は呆れたように笑った。「妙にテンション高くて、いつも明るく振る舞ってる。僕はちょっと羨ましいって思ってる。人付き合いもいいし仕事も真面目にやってるし」
増岡は腕時計に目をやった。
「そろそろ出ようか。予約してた映画が30分後」
「そうですね」美穂は増岡に微笑みを返した後、ホールを見回した。
店主ケネスがそれに気づいてすぐにやって来た。
「もう帰るんか? 美穂さん。もっとゆっくりしていったらええのに」
瞳が蒼くブロンドの髪の店主ケネスは大阪弁をしゃべる。父親アルバートがカナダ出身、母親のシヅ子が大阪人だからだ。
「映画がもうすぐ始まるの」美穂が言った。
「ええなー、デート」そして彼は増岡に目を向けた。「ええ子ゲットしましたね、先生」
「そうですね。僕にはもったいないかも」そう言いながら増岡はケネスが持ってきた勘定用の革のトレイに千円札を載せた。「何しろ10歳も離れてるし」
「文豪夏目漱石も妻鏡子とは10歳差やったそうでっせ」
増岡は驚いたように言った。
「へえ、そうだったんだ。よくご存じですね」
「たまたま知ってただけですわ。すぐにおつり持ってきますさかいな」
そう言ってケネスはテーブルを離れた。
それから時はいつもと同じ足取りで進んでいった。
美穂は姉を失った増岡を元気づけようと、デートの時は努めて明るい服を選び、いつもより余計に陽気に振る舞うように心がけた。増岡もその美穂の気持ちを知ってか、一緒に食事をする時も、街を歩く時も一時期のような暗い顔をしなくなっていった。良い具合に世の中も春に向かって次第にその明るさを増していた。