美穂は近くのスーパーでパートとして働き始めた。八月は誰が何と言おうと文句なしに一年で最も暑い時期だったが、スーパーという場所は空調が効いているのでこんな季節でも比較的快適ではないかと美穂は思っていた。しかし甘かった。従業員がその労働時間のほとんどを過ごすのは、レジ打ちの係でもない限り裏手にある薄暗くだだっ広い商品搬入倉庫と事務所が主な場所だった。店内での商品陳列の仕事も、常に身体を動かしているためか、常に汗をかいていなければならなかった。かと思えば、冷凍食品庫の付近や搬入倉庫の脇にあるばかでかい冷蔵室は非常識に冷えていて、そのうち自律神経がやられてしまうのではないか、と仕事を始めて三日目まで美穂は本気で思っていた。その上、心機一転気分をリセットして臨むつもりのこの仕事場でも、前の職場での退職時のイライラが不本意ながら埋み火のようにとろとろと心の隅に残ったままだったので、慣れない仕事とは言え、商品の数え間違いとか補充忘れとかいうあり得ないような小さな失敗を繰り返す結果を生んでしまっていた。また仕事の内容の性質上、自分の持ち味である人に明るく接して快適な人間関係を作り上げていくという能力さえも十分に発揮できず、美穂はもやもやとしたストレスを常に感じていた。
それでも働き始めて一週間程経ち、美穂はようやく自分に合った仕事のペース配分のようなものをなんとなく掴めるようになってきた。
美穂は、その日の開店前、野菜、果物コーナーの陳列作業を言いつかっていた。
「今日は水曜日で野菜と果物の特売日だから、なるべく見栄え良く並べてね。そろそろ青果屋が来る頃だ」
店長が菓子の入った大きな段ボールを抱えて美穂の横を通り過ぎながら早口で言った。
はい、と彼女が返事をした時にはその小太りの店長はすでに菓子コーナーに姿を消した後だった。
小一時間ほど経ち、美穂が野菜の冷蔵ケースの拭き掃除を終えたばかりの時、店の奥から観音開きの大きなドアをカートで押しやって、一人の若者が姿を現した。くたびれたジーンズに「apple」という赤いロゴが大きくデザインされたTシャツを着て、売り場に入った所で一度立ち止まり、首に掛けたタオルで顔の汗をごしごしと拭いた後、彼は物珍しそうに自分を見ていた美穂と目が合った。
リンゴの入った三つの木箱をカートに載せ、青果売り場のディスプレイまでやって来た彼は、美穂に笑いかけた。まるで猫に引っかかれた傷のような細い目をして笑うその表情は、どことなく婚約者英明に似ていると彼女は思った。
「見かけない方ですね。新入り?」
彼はそう言いながら赤いリンゴを時折自分のTシャツでその汚れを拭き取りながら手際よく並べ始めた。
「そ、そうです」
美穂はいきなり親しげに話しかけられたのでちょっと面食らって上ずった声を出した。
「リンゴ、好きですか?」
彼は腰をかがめたまま、上目遣いで美穂を見上げ、持っていた一つのリンゴを持ち上げた。
「え? ま、まあ嫌いじゃないけど……」
「じゃあこれ。初めてお会いするからご挨拶代わりね」
その若者はまた目を細めて笑った。首に下がった『真田』と書かれたネームカードが揺れた。
「あ、ありがとう。あの……真田さんってお幾つですか?」
美穂が訊いた。
その男子はネームカードに手を当ててちらりと目をやった後、答えた。「21。もうすぐ22になりますけどね」
二歳下。なんだそれほど若者ってわけじゃないじゃない、と美穂は思い、いや待てよ、この彼が若者だったらあたしもまだまだ若者ってことじゃん、と自答して思わず笑った。
「何かおかしいこと言いました? 俺」
「あ、ごめんなさい、なんでもないんです。下のお名前は?」
「『誠也』です。かっこよくないですか?」
「自分で言う?」
今度はその若者の返答がおかしくてまた美穂は笑った。
青果や野菜は、ほぼ毎日誰かがその卸のために店を訪れていたが、真田誠也がやってくるのは水曜日だけだった。他の曜日は生活に疲れ切った様子で全く口を開かず黙々と作業をする初老の男性や、がさつな態度で店員を見下したような態度の中年の男性などがやってきた。それでも美穂は店長に、翌週から自分を野菜、果物コーナーの専属にしてくれと頼んだ。店長は怪訝な表情を隠そうともせず、訳が分からないと言いたげに、それでも彼女の申し出を承認してくれた。
その日から美穂は水曜日を心待ちにするようになった。いやいややっていた仕事にも何となく張り合いが感じられるようになっていた。言うまでもなくそれは誠也のお陰だった。同じ店内で働く同僚には見られないような明るく、笑顔を絶やさない爽やかさで自分に接してくる姿はまた、それまで美穂が出会ったどんな男性にもなかった特徴だった。毎週水曜日の開店前に彼と会話のやりとりをしていると身体の奥から元気になっていくのが実感できた。そして美穂は彼のことがもっと知りたいと思うようになっていた。
◆
誠也と初めて会った時から数えて四回目の水曜日、美穂は思い切って誠也を夕食に誘った。この歳以上に若く見える男子と話していると、まるで自分の部屋の中で不意に無くしてしまった何か大切なモノを、諦めかけていた頃にあっさりと発見したような気分になるのだった。
美穂は朝の開店前、いつものようにやって来た誠也と夜の7時に川沿いのファミリーレストランで会う約束をした。
その日の仕事はいつになく気分良くこなすことができて、美穂は久しぶりに充実した労働に従事した気持ちで退勤のタイムカードを事務所の壁のポケットに入れ直した。
「誘ってくれてありがとうございます」
誠也は一度座った椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「誠也君っていつもそんなに明るいの?」
美穂はホールスタッフが運んできた水の入ったグラスを引き寄せながら言った。
誠也は元通り座り直した。
「普通じゃないですか? 周りのヤツらが暗すぎるんですよ」
美穂は思わず吹き出した。
「誠也君っておもしろい」
美穂の向かいに座った誠也は紙おしぼりで手をごしごし拭いながらにっこり笑った。
食事の最後に出されるデザートはチーズケーキ、アップルパイ、イチゴのタルトの三種類から選べるようになっていた。美穂は少し迷ってチーズケーキにした。誠也が迷わずアップルパイ、と威勢良くスタッフに告げたので美穂はくすくす笑った。そしてそれが運ばれてくると、誠也はきらきらした目をしてその皿を自分の方に引き寄せた。
「アップルパイ、好きなの?」
「もう大好物」
誠也は嬉しそうにフォークを手に取った。
「リンゴが好きなんでしょ?」
「うん、そう」誠也は口をもぐもぐ動かしながら答えた。「なんでわかるんですか?」
「バレバレだよ。貴男と初めて会った時もリンゴ運んでたし、他の果物を並べる時とはその扱いの違いが歴然としてたし、おまけにシャツにもプリントしてあったしね」
「そうか、そうですよね」
「あのシャツ、業者のユニフォーム?」
「いえ、自前です」
「よっぽど好きなんだね、リンゴ」
美穂は楽しそうに笑って誠也の顔を見た。
「リンゴって、」誠也が真剣な顔で、目を輝かせながら話し始めた。「抗酸化作用のあるカテキン、動脈硬化やガンの予防に有効なケルセチンが含まれてて、水溶性食物繊維のペクチンは消化を促進させて胃酸のバランスを整えてくれるんです」
「そ、そうなの」
「リンゴの食物繊維を無駄なく摂取するには、皮ごと食べるのが一番。一、二個ほど入ってる種を除けば、リンゴは丸ごと全部食べられるエコな果物でもあるんです。種は少量のシアン化物を含んでるので食べない方がいいですよ」
「いや、普通種は食べないよ」美穂は呆れたように笑った。「でも、時々不自然にテカテカしてるのもあるじゃない? あれってワックスとか農薬とかじゃないの? 皮ごと食べて大丈夫なの?」
ちっちっち、誠也は人差し指を立てて左右に振った。
「あれは完熟が近づくとリンゴが自ら出すオレイン酸やリノール酸なんかの不飽和脂肪酸。かえって口にした方が身体にはいいんです」
「そ、そうなんだね……」美穂はいきなりに饒舌になった誠也のリンゴへの情熱に圧倒されていた。
「それにリンゴはエチレンガスをいっぱい出すからキーウィとかバナナとかを一緒にしとくと早く熟すんです」
「あ、それは聞いたことある」
「キーウィをリンゴと一緒に袋に入れておくと、甘く、柔らかくなっていくんです。でもね、リンゴの出すエチレンガスはジャガイモの発芽を抑制する効果もあるんですよ。これは知らなかったでしょ?」
誠也はしたり顔で言った。
「ほんとに?」
「そう。ジャガイモの芽も有毒ですしね。だからリンゴと一緒にしておいた方が長持ちするんです。俺があのスーパーでジャガイモの隣にリンゴを置くように店長に教えてあげたんです」
「そうだったんだね」美穂は目を丸くした。「そんなことまで考えて並べてたんだ、誠也君」
誠也はへへへ、と鼻を擦った。
「俺の大のお気に入りは『陸奥』っていう品種で、ジューシーで甘みが強く、」
美穂は、そのまま語り続けさせたら夜が明けるのではないか、と思われる勢いでしゃべり続ける誠也を、両手で顎を支え、微笑みながら見ていた。そしてこんな弟がいたら楽しいだろうな、と考えたりもしていた。美穂には弟はいなかったが、ドラマや小説の中で描かれる『弟』という種類の人間は、たいていこんな風に少しやんちゃっぽくて、訳の分からないものに拘ったりする変な生き物だ。今、目の前にいる男子はまさにその典型ではないか。
「だからリンゴは、その豊かな栄養価とおいしさで、人を健康かつ幸せにしてくれる果物なんです」
「それが結論なんだね?」
満足そうにはあ、と一息ついて、ぬるくなった手元のコーヒーをごくごくと飲み干した誠也は、美穂を見て充実した顔でにっこりと笑った。
「ありがとう、とっても役に立つ話だった」
「ほんとに?」誠也は美穂を上目遣いで見ながら恐る恐る訊いた。「ほんとにそう思ったの? 美穂さん」
あははは、と美穂は大声で笑った。
「あれだけ大講義をぶっておいて、なに、その自信なさげな顔」
誠也は頭を掻いた。
「誠也君といると、ほんとに楽しい。時間を忘れちゃう。コーヒーお代わりする? 頼んであげようか?」
美穂はそう言ってホールスタッフを呼んだ。
二杯目のコーヒーが運ばれ、テーブルに置かれると、誠也は半分程になっていたアップルパイの一切れをフォークで刺した。それを口に持って行きかけて、彼は手の動きを止め、じっと美穂を見つめた。きゅっと口を結び、なぜか切なそうな目で、まっすぐに美穂を見つめた。
美穂はどきりとした。今まで誠也が見せたことのない瞳の色だったからだ。
だがそれはほんの一瞬のことだった。誠也は再び焦ったようにフォークを動かし、残りのアップルパイをあっという間に平らげた。
その時美穂の動悸はなぜか速くなっていた。胸の真ん中あたりがきゅうっという音を立て、身体の中心のわずかな部分が熱を持っているのに気づいた。向かいに座った元気な男子は、いつもの陽気さを取り戻していたが、美穂が見たあの切なげな表情はずっと瞼の裏に張り付いたままだった。
誠也はコーヒーカップを手に、美穂に目を向けた。彼女はその時、カップを持った彼の手の薬指に銀色に光るものを発見した。
「あ、誠也君って結婚してるんだ……」
その時美穂が至極残念そうな顔をしたのを美穂自身は気づかなかった。
「え?」誠也は動揺したようにカップをソーサーに戻し、握り拳を作った左手を覆い隠すように右手のひらで包み込んだ。「そ、そうです」
そして誠也も至極残念そうな顔をした。それには誠也本人も気づいていた。
「そうなんだ。てっきり独身とばかり……」
美穂は残っていたチーズケーキの最後の一切れを口に入れた。
誠也はしゅんとなって小さく言った。「すみません」
「なんで奥さんがいるのにあたしと二人で食事をしようなんて思ったのよ……」
美穂は拗ねたように言って、フォークを皿に戻した。
しばらく気まずい沈黙が続いた。
会話を再開したのは誠也だった。
「俺、あんまりうまくいってないんです、妻とは……」
「え?」
「たぶん妻は美穂さんと同い年ぐらいなんですけど、あ、お幾つですか? 美穂さん」
「24になったばかりよ八月生まれだから」
「じゃあほんとに同い年です。あの人、性格がきつくて、なんか……」
誠也が自分の妻のことを『あの人』と呼んだことで、彼とその結婚相手との距離を如実に感じた美穂だった。
「家にいても、精神的に閉じ込められてるって言うか……」
「閉じ込められてる?」
「別に嫉妬深いとか、過度に俺の行動に干渉してくるというわけじゃないんですけど、何て言うか、彼女の出す強い空気感に閉じ込められてる、そんな感じですかね」
「結婚したのはいつ?」
「20歳の時です。大学二年の秋でした」
「えっ?! 学生結婚? なれそめは?」
「彼女は大学のサークルの先輩で、副主将」
「へえ……何のサークル?」
「水泳です」
美穂はびっくりして思わず身を乗り出した。
「水泳やってたの? 誠也君。 あたしも高校時代は水泳部だったよ」
「え? ほんとに? どこの高校ですか?」誠也も身を乗り出して目を見開いた。
「『すずかけ商業』だよ。貴男も高校時代から泳いでたの?」
「はい。『すず商』だったら地元ですね。俺、隣のS市の高校だったから」
「もしかしたらその時大会で一緒になったこともあったかもね」
美穂は笑った。
誠也はテーブルを見つめて独り言のようにぽつりと呟いた。
「そこで美穂さんと出会いたかったな……」
美穂の動悸がまた速くなった。そしてさっきと同じように身体の芯の一部分が熱を持ち始めた。その現象は、たぶん一般的に言って『弟のような男子』によってもたらされるタイプのものではなかった。美穂は自身のその反応に狼狽してごくりと唾を飲み込んだ。
「あたしが持つよ」
テーブルに置かれた伝票を手にとって美穂は立ち上がった。誠也はありがとうございます、とあっさり言った。その素直すぎる反応に美穂が拍子抜けした顔をすると、誠也は続けて言った。
「また美穂さんと食事ができる理由ができた。今度は俺が奢ります」そしておなじみのはじけるような笑顔を美穂に向けた。「美穂さんって素敵な人ですね」
レストランを出た後、誠也と別れた美穂は『シンチョコ』に立ち寄った。
「あれ、美穂。どうしたの?」
マユミがすぐにその姿を認めて出迎えた。
「ちょっと通りかかったから寄ってみたんだよ」
「そう。この後用事がないんだったらゆっくりしていって」
喫茶スペースのテーブルに一人、美穂はほおづえをついて店の前に立つカカオの木をかたどった街灯をぼんやりと見ていた。
「コーヒー飲む?」
マユミが三粒のチョコレートが載せられた小さな白い皿を持ってやって来た。
「さっき食事で飲んだから紅茶にしようかな」
「そう。どんなのがいい? いろいろあるけど」
美穂はマユミの顔を見上げて少し躊躇いがちに言った。「アップルティとかある?」
「あるよ。珍しいね、美穂、フレーバーティなんて今まであんまり頼んだことないのに」
マユミは笑いながらそこを離れた。
美穂と向かい合って座ったマユミは自分の手元に置いたカップを手に取った。
「たまにはいいね、こんなお茶も」
そう言いながらマユミはまろやかで甘いリンゴの香りのする紅茶をすすった。
「今日は何してたの? 昼間は仕事だったんでしょ? いつものスーパーで」
美穂はカップをソーサーに戻した。
「うん」
「どう? もう慣れた?」
「もう一か月以上経ったけどね……でもやっぱりなかなか慣れないとこもある」
「前の仕事とは違うからね、随分」
「そうなんだよ」
美穂は困ったような顔をした。
「あんたのその性格だったら接客の方が向いてると思うけどね、人当たりがいいから」
「そうでしょ? マユミもそう思うよね?」
「スーパーではどんな仕事してるの?」
「商品の陳列とか整理とかばっかりやらされてるよ」
「レジ打ちとかは?」
「まだちゃんと教えてもらってないけど、来月あたりからやらせてもらえるかも。でもみんな何でもやんなきゃいけない職場だからね。人手が足りない所にいかされる。仕事内容を選べるような所じゃないよ」
「十一月の結婚式まで続けるの?」
「うん。そのつもり。親と同居してるとは言え、仕事もしないでのんきに過ごすわけにもいかないしね。とは言っても給料なんて小遣い程度の額だけど」
美穂は笑いながらカップを口に運んだ。
「あ、そうそう、アップルティと言えば、」マユミがカップをテーブルに戻して不意に顔を上げた。「珍しいお酒が入ったんだよ」
「お酒? ここはチョコレート屋でしょ?」
「ちょっと待ってて、見せてあげる」
マユミはそう言って席を立ち、夫ケネスが仕事をしている売り場奥のアトリエに入っていって、すぐに一本のくすんだ緑色をした瓶を持って戻ってきた。
「これ」
テーブルに置かれたその瓶は、丸いリンゴのような形で、琥珀色の液体の中にリンゴが丸ごと漬け込まれている。
「わあ、すごい!」美穂はその瓶に目を近づけて驚嘆の声を上げた。「リンゴの形の瓶の中にリンゴが入ってる!」
「『カルヴァドス』っていうフランスのリンゴブランデーなんだって」
「リンゴのブランデー?」
「そう」
「で、でもどうやってこのリンゴ、瓶の中に入れたんだろう。丸ごと入ってる……」
「リンゴの木の枝にその瓶を吊して、中で実らせるんだって」
「へえ! 瓶の中でリンゴを育てるんだ……」
目を丸くしながら美穂はそれを手に取った。ずっしりと重かった。
「そのお酒を使った生チョコをケニーが開発中なんだよ」
「ああ、それで」美穂は笑った。「納得。リンゴ風味の大人のチョコレートってわけね」
テーブルにそれを戻し、改めて眺め直していた美穂は、瓶の中の狭苦しい空間に浮かぶリンゴの実を何となく憐れに感じ始めた。開放的な外界の空気に触れることなく、瓶の中に閉じ込められているそのリンゴを。
「閉じ込められたリンゴ……なんか、ちょっと可哀想……」
◆
毎週水曜日に誠也はスーパーにやって来る。いつしか美穂はそれを心待ちにしていた。しかし、二人が夕食を共にしてから誠也はぱったりとスーパーに来なくなった。最初の水曜日は、きっと何か事情があったに違いないと美穂は自分を納得させていたが、次の週も、その次の週も、朝から一日待っても彼は姿を見せず、違う男性がやってきた。美穂はひどく落ち込んだ。一緒にレストランで食事をした時に何か彼を怒らせることをしたのだろうか。気に障るようなことをこの口が? 態度がなれなれしかった? 美穂らしくないいろんなネガティブで根拠のない可能性が彼女の頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
九月の二週目、水曜日に店に来たのはやっぱり誠也ではなかった。その日の退勤前に美穂は思い切って店長に訊いてみた。
「あの、いつも水曜日に果物を納入しに来ていた真田さんが先月の終わりからいらっしゃらなくなったのはなぜですか?」
店長は美穂に身体を向け、手を腰に当てて眉間に皺を寄せた。
「目に余るんだよ」
「は?」
「店内でいちゃいちゃされると目障りなんだ。少しは従業員としての責任と言うか節度を持って欲しいもんだね」
美穂は憮然とした表情で店長を見た。彼はたたみかけるように言った。
「他の従業員も言ってる。気づかなかったのか?」
「あたし、そんなつもりであの人と話してたわけじゃありません」
店長はふふんと鼻を鳴らした。「第一、君はもうすぐ結婚するんだろ? 何でも相手は学校の先生だとか。そのくせ別の若い男といちゃつくなんて、いい度胸じゃないか」
もう無駄だ、と美穂は思った。この人に何を言っても解ってもらえない。誠也を来させないように仕組んだのはこの店長に違いなかった。自分が十一月に結婚することはこの男には言っていない。同じ店内で働いている従業員の、比較的気軽に話ができると感じた女性には雑談程度で話したことはある。そこからの情報を店長は口にした。もうこの職場で信用できる人間は一人もいない。
もちろん水曜日にやって来ていた誠也と親しげに会話をしていたのは認める。だがあれを『いちゃつく』と捉えられていたことに美穂はひどく困惑し、憤りさえ覚えていた。前の職場を離れる原因となった出来事が自ずと思い出された。もしかしたら従業員の誰かが誠也を狙っていて、またあることないこと店長に吹き込んだのかもしれない。
疑心暗鬼の妄想は果てしなく膨らむばかりだということは美穂には嫌と言うほど解っていた。
「辞めたきゃいつでも辞めていいから。あんたの代わりなんぞいくらでもいる」
店長は吐き捨てるように言って、美穂に背を向けすぐにその場を離れた。
明くる日の朝、スーパーの事務室に入るやいなや、美穂はキャスターの壊れかけて傾いた椅子にだらしなく腰掛けて爪楊枝を咥えていた店長の前に立った。そして机の上の、しなびたキャベツの千切りだけが残された貧相な弁当容器の横に『辞表』と書かれた封筒を置き、言った。
「あたし、店長のお望み通り昨日限りで仕事を辞めました。お給料は契約通り口座に振り込んでおいてください」
店長は椅子から立ち上がりもせず、無言のまま片頬にうっすらと笑みさえ浮かべて、早く出て行けと言わんばかりに左手をひらひらさせ、机に置かれた封筒を手に取るとそのまま傍らのゴミ箱に放り込んだ。
その夜、ベッドに横になり、ケットを広げかけた美穂は、枕に顎を乗せて大きなため息をついた。
「あたし、調子に乗り過ぎかな……」
思えばこの一か月あまり、誠也のことばかりを考えていた。
思い返してみれば今まで美穂に親しげに話しかけ、近づいて来て親切にしてくれるのは年上の男性ばかりだった。高校の時につき合っていたのも一つ上の先輩だったし、短大時代にたった二か月だが交際していた男性も三つ年上の市役所職員だった。そして美穂はそんな男性の後ろからついていくような付き合い方しか経験したことがなかったのだ。誠也のように年下の男子から、生まれてこの方一度もされたことのないようなあんな切なげな目で見つめられることは想定外だった。そしてそのことで自分の身体にあれほどの変化が現れることも……。
しかし考えてみれば自分は彼の名前と少しばかりの身の上の事情を知ったに過ぎない。電話番号もメールアドレスも交換していない。それなのにあの若者のことが頭から離れない理由は明白だった。笑顔を向けられた時の心臓の音と身体の疼き。婚約者の英明にさえ感じたことのない気持ち。
「何なんだろう、これ」
美穂は熱を持ったもやもやとした思いに耐えきれず、くるりと仰向けになると、広げたケットで顔を覆った。
誠也の連絡先を聞いていたら、きっとすぐにでも電話を掛けただろう。今それができない状態なのは、神様か誰かがそれはいけないことだ、と諫めているからではないか。美穂はそう思うことにした。もうすぐ結婚する相手のことを一番に、その人のことだけを考え、思い続けるのが当然だろう? と諭しているのではないか。