英明と美穂の夫婦に授けられたその一人娘の真琴は4歳になっていた。
とある十月の朝、幼稚園に娘を送り届けた帰り、美穂は自宅のすぐそばにある八百屋の前で足を止めた。短い秋という季節の丁度真ん中あたり、「十月」という響きが美穂は大好きだった。ちょっと暑かったり、不意に朝方寒さを感じたりするその予測できない気候の気まぐれさと、空の色が日に日に深くなっていくのを眺めて、時間が確実に、でも落ち着いた足取りで進んでいく気分を味わえるのが好きだった。
――そしてこの月はある人の誕生月だった。
八百屋の店先には赤く色づいたリンゴが三個ずつ小分けされ、竹製のざるに盛られていた。
「リンゴのうまい季節だよ、奥さん」奥から店主のしゃがれ声が聞こえた。「どうだい? そいつぁ『陽光』っつって、出荷時期が短けえんだ。十一月までしか出てねえよ」
「もらっちゃおうかな」
美穂は近づいてきたその初老の男に笑顔を向けて、バッグから財布を取り出した。
「毎度っ」店主の威勢の良い声に軽く会釈をして、リンゴの入った袋を左手に持ち替え、振り向いた美穂の前に一人のジーンズ姿のラフな格好をした男性が立っていた。
誠也だった。
「こんにちは、美穂さん」
彼は恥ずかしげに笑った。
「せ、誠也君……」
美穂は彼の顔を見上げてしばらく口をぽかんと開けていた。
「ごめんなさい、突然声掛けちゃって」
誠也は頭を掻いた。
「リンゴ、」美穂はそう言って、たった今買い求めた赤い実を袋から取り出し、誠也に差し出した。「もうすぐお誕生日だから、はい」
誠也は思いっきり困ったような、驚いたような、何とも形容しがたい表情になった。「あ、ありがとうございます」
「なんであんな所をうろついてたの? 誠也君」
美穂の自宅のソファに恐縮したように座って、誠也は淹れ立てのコーヒーのカップを持ち上げた。
「今日は休みなんです、予備校」
「予備校?」
美穂もセンターテーブルを挟んで誠也と向かい合った。
「あちちっ!」
誠也は言って、思わず顔をしかめた。
「自分が猫舌って知ってるくせに、そんなに慌てて飲もうとしなくてもいいでしょ?」
美穂は小さく吹き出した。
誠也は頭を掻きながらカップをテーブルに戻した。
「講師をやってるんです。なかなか学校の先生にはなれないですね。採用試験落ちまくり」
誠也は恥ずかしげにそう言って額をぽりぽりと掻いた。
「去年の採用試験もだめだったんで、もう諦めてバイトで勤めてた予備校に秋から正社員として雇ってもらうようになったんです」
「そうだったの。今年のお正月にはそんなこと言ってなかったのに」剥いて切り分けたリンゴの乗った皿を誠也の方に寄せて、美穂は言った。「食べて」
「ありがとうございます」
誠也はぺこりと頭を下げた。
突然に妙なタイミングで再会した誠也は、ずっと丁寧な言葉遣いで、態度もいつも正月に増岡家で会う時と同じように他人行儀だった。しかし美穂の身体はあの時と同じように反応していた。鼓動が喉元で聞こえ、身体の中心が熱くなり始めていた。
「車はどこに?」
「そこのコンビニに駐めてます」
「なんで? よく利用するの?」
「そういうわけじゃないけど……」言いよどんで、誠也は頬を人差し指で掻きながら続けた。「美穂さんは仕事はされてないんですか?」
「今は週に三日、お弁当屋さんにパートで」
「そうですか」
誠也はコーヒーをすすった。そしてぐるぐると部屋の中を見回しながら言った。
「いいですね、一軒家。去年でしたっけ? 引っ越したの」
「うん。去年の今頃だったかな。まだまだローンが山のように残ってる」
美穂は自嘲気味に言って眉尻を下げた。
「いやいや、叔父さんの稼ぎだったらすぐですよ」
再び誠也がカップを手に取った時、美穂が低い声で言った。
「どうしてあたしに声を掛けたの?」
「え?」誠也は思わず顔を上げた。
「もうこうして二人きりでは会わないって約束したのに……」
美穂の胸の中心辺りがきゅうっと音を立てた。
美穂はうつむいた。誠也もうつむいた。
誠也が小さな声で言った。
「……ごめんなさい。まだ時効じゃなかったのかな……」
「時効って何よ」
「あの関係をなかったことにするのに掛かる時間が過ぎた、ってこと」
誠也は顔を上げずに続けた。
「美穂さんを俺の叔父の奥さんとして見られるようになったかな……って」
そして誠也はひどく申し訳なさそうに身を縮めた。
美穂は立ち上がり、ゆっくりと誠也の背後に立った。ソファに張り付いたように座った誠也はかしこまったまま動かなかった。
「うちの近くのコンビニにはもう何度も来てるの?」
「そ、それは……」
少しの時間、二人の間に沈黙が横たわった。
「お願いだから、もういいかげんあの時のあたしを忘れてよ……」
美穂は震える声でそう言って、誠也の両肩にそっと手を置いた。
「……」
「あなたもあたしも既婚者。お互い忘れてしまわなきゃいけない、って約束したでしょ」
その言葉を聞いた誠也は出し抜けに立ち上がり、振り向いて美穂の顔を睨み付けた。
「じゃあ教えてよ! どうすれば忘れられるのか、教えてくれよ!」
その誠也の大声に美穂はたじろぎ、思わず後ずさった。
「せ、誠也君……」
「俺にはわからないよ、ちゃんと教えて! ねえ、美穂さん、どうすれば貴女を忘れられる?」誠也は唇を震わせながら叫んだ。「俺、美穂さんを忘れたいなんて思ったこと、一度もないよ。貴女を忘れるなんて無理なんだよ、俺には!」
美穂は誠也の目を見つめ、真っ白になる程唇を噛んで、小さく身体を震わせていた。
「知ってるなら教えて! 貴女を忘れる方法! ねえ、美穂さん!」
誠也は両手の拳を握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「バカじゃないの?」
美穂も大声で叫び、ずいと進み出て誠也を睨み付けた。
誠也はびくん、と身体を震わせた。
「そんなこと、あたしに解るわけないじゃない! あたしだって!」
美穂は涙ぐんでそう叫ぶと、誠也の頭を両手で鷲づかみにして、唇を彼のそれに強く押し当てた。
んんっ、と呻いて目を見開いた誠也は、反射的に両腕で強く美穂の身体を抱きしめた。
「美穂っ!」
一度口を離してその名を呼んだ誠也は再び美穂の唇を自らのそれで塞いだ。
二人は激しく口を交差させながら、忘れることの叶わなかったその甘く熱い感触を貪り合った。
狂った時計のように二人の時間が一気に逆回転を始め、過去に重なった。
着ていた服を脱ぎ捨ててあっという間に隔てるもののない姿に戻った二人はソファの上で激しく絡み合った。
固く抱き合い、唇を重ね合い、誠也は美穂の胸の膨らみに顔を埋め、硬く隆起した粒を咥え込んだ。
ああ、と甘い声を上げ、美穂は仰向けのまま両脚を高く上げた。誠也はそれを両腕で抱え込み、硬く怒張しその先から糸を引く透明な液を漏らし始めていた自身のものを美穂の豊かに潤った谷間に押し当てた。
「来て、誠也君、あの時のように……」
「美穂っ!」
誠也は美穂の身体にのしかかり、熱く脈動しているそれを奥まで進ませた。
悲鳴のような声を上げて目を剥き、顎を上げて美穂は身体を震わせた。
「あたしの中に来て、ああ……」
誠也は腰を激しく動かしながら、また美穂の身体をぎゅっと抱きしめた。
「ああ、誠也君、抱いて欲しかった」
「俺も我慢の限界だった。美穂、美穂っ!」
「あたしもずっとあなたのことを忘れてない! あなたの身体も、何もかも」
ソファががたがたと激しく音を立てた。誠也は美穂の唇を吸った。そして舌を絡め合った。
「貴女を忘れるなんてやっぱり無理だ!」
「来て、誠也君、あたしの中に!」
「もう一度俺を受け入れて、美穂っ!」
「誠也君!」
ぐうっという音が誠也の喉元から聞こえ、美穂は全身を大きく震わせた。その次の瞬間、誠也の動きが止まり、その身体の中心が何度も脈動した。
びゅくっ! どくどくっ!
そして美穂の身体の奥深くに熱く沸騰した激流が渦巻くように流れ込んだ。二人は唇を押しつけ合ったまま、ふるふると身体を震わせ、いつまでも抱き合っていた。
◆
誠也が帰宅したのは夕方の4時頃だった。
リビングのソファに妻のエリが座っていた。
「あれ、早かったんだね」
誠也が言った。
エリは顔を上げて誠也に笑顔を向けた「久しぶりのお休み、ゆっくりできた?」
「え? ああ」
誠也はボディバッグを首から抜いて、洗面所に入った。そして顔と手を念入りに洗い、鏡を見ながら髪を手で軽く整えた。
リビングに戻った誠也に目を向けもせず、エリは言った。「どこに行ってたの?」
誠也は動揺する気持ちを必死で抑えながら言った。「さっきまで本屋にいた」
それは事実だった。美穂との再会と情事の後、彼はそこから車で10分以上も掛かる駅裏の大きな書店に立ち寄り、時間を潰したのだ。
「座って、誠也」
抑揚のないエリの言葉に誠也は素直に従い、彼女に向かい合って座った。
「嬉しい知らせがあるの」
エリは誠也に身を乗り出し、にっこりと笑った。
「あなたにとっては悪い知らせかな」
「え? な、何?」
エリは背筋を伸ばして居住まいを正し、真剣な顔でまっすぐ射貫くように誠也の目を見つめた。「私、妊娠してるの」
全身から血の気が引く思いがした。誠也は目を見開き、言葉を失った。
「近頃階段で息切れするの。今までそんなことなかったのに。脚もむくんでるっぽいし、それに」エリは少し言葉を切って数回瞬きをした。「基礎体温が高温期のまま」
誠也はようやく、しかし絞り出すような声で言った。「それで、び、病院に?」
「そう。あなたには内緒で受診してた。今日は午後からお休みをもらって検査の結果を訊きに。妊娠6週目に入った頃だって言われた」
誠也は青ざめたままうつむき固まっていた。喉がカラカラに渇いていて、何か言おうにも声が出なかった。
エリはふっと笑って言った。「安心して、あなたの子じゃないから」
えっ? と言葉にならない声を出して、誠也は顔を上げた。
「落ち着いて聞いて、誠也」エリは一つ息をついて続けた。「あなたが私との子供を欲しがってないことはずっと前からわかってた。だって、今私が妊娠していることについて身に覚えなんかないでしょ? 避妊どころか、この半年ぐらいセックスレスだったんだから」
エリは自分の下腹に手を当てた。
「私も女だし、もうすぐ30だし。本能的に子供が欲しかった。実はね、あなたには不義理なことをしてるのを承知で、一年ぐらい前から肉体関係を続けている男の人がいるの。同じジムで働く人。あなたの知らない人。で、この子はその人の子供」
「お、俺、どうしたらいい?」誠也は恐る恐る訊いた。
「あれ? 怒ってないの? 私不倫してるのよ? それとも、そうか、あなたにとって私はその程度の女だったってわけか」エリは笑った。「いいよ、それで。私もその方が気が楽だしね」
誠也は黙り込み、自分の膝に置いた両手の握り拳を見つめた。
「さっきこのことを彼に電話したら、産めよ、って言われたわ。彼、バツイチだけど独身。いずれはこの子を認知するから、って言ってた。もしかしたら再婚するかも」
誠也は混乱していた。エリは俺との結婚生活を続けながら何を考えていたのだろう、俺のとるべき行動は? 慰謝料、調停、戸籍、引っ越し……軽重とりまぜた彼の身に降りかかるかもしれないことがぐるぐると誠也の頭の中で渦を巻いていた。
エリは封筒を取り出し、誠也の前に置いた。
「離婚届。もう私の印は押してある」そして彼女は静かに、自嘲気味に続けた。「これ、ほんとはもう少し早くあなたに渡すべきだったのかもしれないわね。先延ばししてたってことは、私にも未練があったのかな、あなたに対して」
「君は……それでいいの?」
「あなたももう学生じゃないし、とりあえず独り立ちできてるからね。私があなたにしてあげることはもう残ってないわ。それに、」エリは肩をすくめた。「偶然って怖いわね、私が今日これをこうやってあなたに渡す決心をしたのは朝。そしてさっき帰ってきたあなたから、女の匂いがほんのりと漂ってきた」
誠也は息を飲んだ。
「今も匂う。誰かと逢ってたんでしょ?」
エリはにっこりと笑った。
「ジャストなタイミングじゃない? 偶然にしてはほんとにうまくできてる」
「す、済まない、エリ、俺、俺、」
「何も言わなくていいわ。私、そんなこと聞きたくもない。それにあなたが私に謝る必要もない。お互い様だから。そうでしょ?」
エリは一つ大きくため息をついた。
「精算しましょう。これまでのあなたと私の関係を」
誠也の全身から力が抜けていった。
「届けを出したら、お互いに荷物をまとめて引っ越し。それで全て、何もかも終了。あなたの親戚とも敢えてつき合いを避けてきたのは正解だったわね。ま、そもそも私、自分の私生活に支障のある面倒なことには関わりたくなかったし」そして誠也を見て少し切なそうな笑みを浮かべた。「ごめんね、最後まで強烈な私のわがままで振り回しちゃって」