外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《お礼に代えて》

 

 明くる朝、まだ外は暗い。菫はそっと身を起こした。隣では健吾が布団にくるまって寝息を立てている。彼を起こさないようにベッドから降りた菫は、下着だけだった身体に服を着始めた。そして音を立てないようにして健吾の部屋を出た。

 リビングのドアを開けると、ふんわりとしたカボチャとクリームの香りが漂ってきた。菫は、そのままダイニングに足を向けた。

「あれ?」菫はリビングに立てられたクリスマス・ツリーの横で足を止めた。

「あ、」キッチンに立っていた豪毅が振り向いた。

「豪くん!」

「おお、菫。もう起きたのか? 早えな」

「どうしたの? 豪くんこそ、こんなに早くから」

「龍さんや真雪さんにいっぱい世話になったから、お礼の意味を込めて朝食を、と思ってな」

「あたしもそう思って」

「そうか。じゃあいっしょに作るか」

「うん。そうしよう」菫が火に掛けられた鍋を見ながら言った「これって?」

「ああ、それはカボチャのスープ」

「それでいい匂いがしてたんだ。お米、仕込もうか?」

「いや、海棠家の朝食はいつもパンなんだってさ」

「そうなんだ」

「龍さんたちが起きたら焼き始めっから」

「え? パンを焼くの?」

「思い立つのが遅かったから、さすがにパンは焼けねえ。仕込む暇がなかったからな」

「じゃあ、何を?」

「スコーン。もう生地は冷蔵庫に入ってる」

「すごい、豪くん」

「ほんとだったらよ、それなりの材料も準備してくるとこだったんだが、何しろ昨日ここに来てから、そんな余裕は全くなかったからな。冷蔵庫やストッカーにあるモノで作らなきゃなんねえ」

「カボチャがあったんだ」

「そう。だからカボチャのスープ」

「大したもんだね。さすが料理人。西洋料理もお手の物なんだね、豪くん。それにスコーンまで焼けるなんて」

「丁度クルミがあったからな。でもな、この北米風スコーンについちゃ、『シンチョコ』のケニーさんに作り方を習ったんだぜ」

「ほんとに?」

「ああ。ケニーさんのお父さんはカナダ人で、向こうでチョコハウスやってたって、おまえも知ってんだろ?」

「そうか、だからケニーさんも知ってるんだ、スコーンの作り方」

「うちの親父といっしょに以前習った。他にもよ、チョコの扱い方やケーキの生地の作り方なんかもいっぱい教えてもらったんだぜ」

「ケニーさんもすごいけど、あなたのお父さんもすごいよね。料亭のご主人なのに、洋物の食べ物まで研究してるんだから」

「食いモンのことは何でも知っとかねえと気が済まねえタチなんだよ」

「豪くんも、でしょ?」

「まあな」

「で、でも、」菫がはっとして言った。「スコーンだって、仕込みに長くかかるんじゃないの?」

「たかだか一時間程度だ。バゲットやクロワッサンに比べりゃ、手はかからねえ」

「何か手伝わせてよ。私にも」

「じゃあそこのレタス、洗って、ちぎってくれっか?」

「わかった。どのくらいの大きさにちぎればいいの?」

「シーザーサラダにすっから、大きめな。横に載せるミニトマトも半分に切ってくれ」

「わかった」

 菫はレタスを手でちぎり始めた。

「そう言えば豪くん、真雪さんに教えてもらったんだって?」

「え?」卵をボウルに割り入れていた豪毅は手を止めて菫を見た。「な、なんでそれを?」

「夜に喉が乾いて健吾くんといっしょに起きてきたら、龍さんと真雪さん、まだ起きてらしてね、その時訊いた。ごめん、訊いちゃいけなかった?」

「い、いや、そんなことはねえけど」豪毅は頭を掻いた。「かなり恥ずかしい話だけどよ、俺たち、そうでもしなきゃ、永遠にエッチができねえ、と思っちまったんだ」

「悩み抜いた上での決断だったってわけだね?」

「そんなとこだな。で、おまえたちはどうだったんだ?」

「やっぱり、うまくはいかなかったよ」

「そうなのか」

「一応、自分たちだけで、できはしたけど……。ま、いろいろね。健吾くんが起きてきたら、話してあげるよ」

「是非聞かせてくれ。今後の参考のためにもよ」

「うん。わかった」

「で、豪ちゃんたちは、練習の後はうまくいったの?」

 豪毅は晴れ晴れとした顔で言った。「それも真唯が起きてきたらな」

「そうだね」

 そうして豪毅と菫の二人はキッチンでみんなのための朝食の準備を進めた。

 

 スリッパの音がして、リビングのドアが開いた。

「あら?」真雪の声がして、二人は同時に振り向いた。

「おはようございます。お母さん」「おはようございます」

「なに、なに? どうしたの? 二人とも」真雪はキッチンに小走りでやって来た。

「朝食を作ってるんです」

「やだ、だめだよ、そんな、お客さんなのに……」

 豪毅と菫は真雪に向き直った。「俺も、菫も、真雪さんや龍さんのお陰で、無事に初体験を済ませることができたんです。お礼と言っちゃ何ですけど、せめてこんなことでもさせてもらえねえかと思って」

「もう、そんな気を遣わなくてもいいのに。二人とも……」

「勝手にキッチンのもの使っちゃってごめんなさい、お母さん」菫が言った。

「それは全然問題ないけど……。ほんとに悪いね。ありがとう、豪毅くん、菫ちゃん」

「真雪さんはコーヒーでも飲んでゆっくりしてて下さい」豪毅が言った。「何時に召し上がりますか?」

「龍に合わせて六時十分頃には食べ始めようかな」

「承知しましたっ!」豪毅はボウルに入れた卵をかき混ぜ始めた。

 

 身支度を調えた龍がリビングに入ってきて、真雪と短いキスをした。

「にしても凄いな、この朝食は!」龍がネクタイを締めながらテーブルを見下ろして驚嘆の声を上げた。

 モーニング・プレートにはボイルされたソーセージ、チーズオムレツにカリカリに焼かれたベーコン。プレートの横にパンプキン・スープ、テーブルの中央にはグリルされた鶏肉の乗ったシーザーサラダ。そしてホットコーヒー。

「よくまあ、これだけのものを……」龍が椅子に座ったとたん、豪毅がたった今焼けたばかりのクルミ入りスコーンを運んできて、龍と真雪のプレートの空いたところに載せた。

「どうぞ、お召し上がり下さい」

「お金払いたいぐらい」真雪がため息をついた。

「これ、全部君たちが作ってくれたのかい?」

 菫は首を横に振った。「いえ、真雪さんも手伝ってくださいました」

「あたしがやったのは、コーヒーのドリップだけ」真雪が笑った。 

「じゃ、遠慮なくいただくよ」

「どうぞ」

「いただきます」真雪も手を合わせた。

 

「あの、真雪さん、」豪毅が出かけようとする真雪を玄関で呼び止めた。

「なに?」

「今夜のパーティの参加者を、教えていただけませんか?」

「うちの家族、菫ちゃんの家族、天道家の三人と豪ちゃんちの三人」

「えっと……十五人っすね」

「豪ちゃんち、大丈夫? お店」

「大丈夫です。クリスマスは料亭に来る客は少ないんで、毎年店休日にしてるんです。その代わり年末は超忙しいっすけどね」

「よかった」

「俺が料理作っていいっすか?」

「え? また? しかも十五人分だよ?」

「今度は親父もお袋もいますからお手のモンです。任せてください。材料も何もかも」

「悪いよ、そんな……」

「大丈夫です。もう親父たちもその気です。邪魔しないでください」

 真雪は笑った。「そうね。じゃあすっかり任せることにする。ありがとう、豪ちゃん」

 真雪はそう言って、豪毅の両肩に手を置いた。

「え?」豪毅は身を固くした。

 朝日が大きな窓からリビングの天井に差してきた。

「あのキス、またして」真雪は豪毅の耳元で囁いた。

「え? あ、あの、あの……」

 真雪は豪毅の唇に自分のそれをそっと重ねた。テーブルの食器を片付けようとしていた菫はそれを見て、少し赤くなって微笑んだ。

 豪毅は真雪の背中に手を回し、口を開いて舌を絡め始めた。

 その時、リビングのドアが開いて、ぼりぼりと頭と尻を掻きながら、寝ぼけ眼の真唯が入ってきた。

「あーっ! ママ! ずるい、ずるいっ!」真唯は目を見開いて立ちすくんだ。

 豪毅は真雪を抱いたまま、ちらりと目だけを真唯に向け、さらに大きく口を開いて顔を交差させながら真雪と激しく情熱的なキスを続けた。

 口を離した豪毅の顔を見て真雪は微笑んだ。「やっぱり素敵。豪ちゃん」

「だめでしょ! 豪ちゃんたら」真唯が叫んで駆け寄り、豪毅を母、真雪から引き離した。

 豪毅が言った。「真唯、俺、おまえのママのお陰で男になれたし、お前とも無事に繋がれた。恩人の頼みは断れねえよ」そして照れて笑いながら頭を掻いた。

「あたしが朝食作ってくれた豪毅くんにお礼をしてあげたんだよ。特別に今だけ。もうしないよ、真唯」真雪は笑って履いていた靴を脱いだ。

「だからって、あたしの目の前でやんなくてもー」真唯は頬を膨らませた。

 真雪は洗面所に足を向けた。「メイク、し直さなきゃ。豪ちゃんも、真唯と口直しする前に、そのルージュ落としといてね」

 ぶーっ! あはははは! 大きな笑い声がダイニングから聞こえた。菫の声だった。「豪くん、口の周り、真っ赤だよ」

「え? え?」豪毅は焦って、玄関にある縦長の姿見をのぞき込んだ。「ほ、ほんとだっ!」

「豪ちゃん、はい」真唯は無表情のまま、豪毅にティッシュの箱を差し出した。豪毅は慌てて鏡に向かって口の周りについた真雪の口紅を拭った。

「よ、よし。とれた。何とか」そして彼は再び真唯の方を振り向いた。「真唯、これで、むぐっ!」

 いきなり真唯は豪毅に抱きつき、自分の唇を彼のそれに押し当てた。「んんんんんんっ!」豪毅は目を白黒させて慌てた。

 一度口を離した真唯は、低い声で言った。「アタシの方が、ママのよりずっといいんだからね」そしてまた豪毅の口に吸い付いた。

 豪毅も真唯の身体を抱き、舌を絡ませ、大きく口を開いて、彼女の唇や舌を味わった。

「な、なんだなんだなんだ?!」ようやく起きてきた健吾は、いきなり玄関先でディープなキスシーンを繰り広げている豪毅と真唯の姿を見て、その場に固まった。「あ、朝っぱらからおまえら!」

「健吾くんっ!」キッチンから菫が駆けてきて、髪に猫耳のような寝癖がついたままの健吾に飛びついた。「私もっ!」

 そして菫も健吾の唇を求めた。健吾は初め戸惑ったが、すぐに菫の唇を味わい始めた。

 

 かくして海棠家のリビングの一画、玄関の手前で二組の高校生カップルは抱き合い、貪るように熱いキスを交わし続けるのだった。

「じゃ、行ってくるねー」真雪がそんな四人の横をすり抜け、玄関ドアを開けて出て行った。

 いつしか黄金色の朝の光が斜めにリビングに差し込み、恋人たちの姿を浮かび上がらせ、眩しく輝かせた。

 

《あとがき》

 

 いつもながら最後まで読んで頂きありがとうございます。

 今回のお話には挿絵が一切ありません。その訳は、何しろ「Chocolate Time」の初代主人公の海棠ケンジがここでは実に62歳になりました。歳を重ねた彼やその妻ミカを描く勇気がありません(笑)。

 その彼らの孫である双子の健吾、真唯、その幼なじみの豪毅、菫が今回の主役。この高校生の四人が恋をして、初めて繋がり合うことの困難さを描きました。そして彼らを取り巻く大人たち、すっかり落ち着いた中年になった龍、真雪、夏輝、修平、健太郎、春菜、そしてその同級生である豪哉とユウナが主役の四人に責任ある大人として関わっていくという温かさを味わってもらいたかった、というのが作者のこの物語に込める願いです。

 話の中には随所にこれまでのお話が伏線として仕込まれています。

 幼い頃の真唯、健吾の姿は外伝第2集第12話「夫婦交換タイム」で見ることができます。

 いつも通り、ほとんど全ての物語に登場するおなじみの「Simpson's Chocolate House」、健太郎の妻春菜がメイド服で店に立ったのは本編第9話「Almond Chocolate Time」。ケンジとミカが経営する『海棠スイミング・アミューズメント・ワールド』は外伝第3集第4話「アダルトビデオの向こう側」が初出で、施設の様子はこの話の中でいろいろと描写されています。

 龍と真雪の初体験は本編第7話「Milk Chocolate Time」で。その話の中に、龍が中学生の時に理科の教師にレイプされたエピソードがあります。また、真雪が行きずりの男性と過ちを犯したのは本編第10話「Cherry Chocolate Time」。ユウナが真雪を叱責して立ち直りのきっかけを与えたのもこの話。その後、ユウナと友人リサがこの憎むべき男に復讐する話は外伝第1集第9話「天誅タイム」で詳しく描かれています。

 健太郎の初体験のお相手は、彼にとっての伯母である海棠ミカ。その様子は本編第6話「Macadamia Nuts Chocolate Time」で。当時16歳の健太郎が初々しさを弾けさせています。

 「カンポ・デル・オリヴァ」(オリーブ農園)のオーナー田中さんの件は、本編第11話「Sweet Chocolate Time」に。

 小説の世界では、こんな風に時間の取り扱いが自由自在です。作者として過去の登場人物の体験や出来事を引用しながら新たな物語を紡いでいくのは、懐かしさやいとおしさがいや増して、実に何とも言えない豊かな気持ちになるものです。

2020,3,22