外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《記憶をたどれば》

 

 菫は一人自分の部屋でぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。住宅街の一角にある菫の家のそばに小さな公園がある。そこには二本の大きなキンモクセイの木が植えられていて、毎年この時期になるとかぐわしい香りを辺り一面に振りまく。菫の部屋にもほのかにその甘く穏やかな香りが届いていた。

 菫は一つため息をついた。そして机の横にあるCDプレーヤのリモコンを手に取り、再生ボタンを押した。流れ始めたのはサティの『ジュ・トゥ・ヴ』。

 菫はまたため息をついた。

 その音楽が、ひときわ明るく跳ね上がる部分に達した時、彼女は停止ボタンを押した。胸の熱さが限界を超えて、苦しさに耐えられなくなったのだった。部屋の中に再び静寂が訪れた。菫の目が潤んでいた。

 健吾とは保育園時代からの幼なじみだ。その頃の彼は友だちと外で元気に遊ぶと言うより、部屋の隅で粘土遊びをしたり、絵を描いたりしている時間の方が多かった。菫はそんな彼の横にいつもいた。小学校高学年の時も、彼がピアノを始めたことを珍しがって、よく音楽室でそのピアノを聴かせてもらったりした。しかし、その時もただの仲のいい友だち以外の感情を抱いている訳ではなかった。それは中学校でも高校に入学してからもそうだった。少なくとも彼がたった今まで聞こえていた音楽を先週自分に聴かせてくれるまでは。

 

「どうした、健吾」豪毅が放課後教室に一人、机に向かっている健吾に気づいて声を掛けた。

「ん? いや……」

 健吾は何をするでもなく、机にほおづえをついていた。

「なにぼーっとしてんだ? おまえ」

「俺、菫になんかしたかな」

「は? 何だそれ」

「いや、菫、最近俺を避けてるような気がするんだ」

「そう言や、今日の弁当、あいつ全部食ってくれなかったな」

「それにほとんど話もしなかったし」

「真唯がいねえから気まずいのかね」

「気まずい、って俺たちずっと前からいっしょにいるじゃないか。今さら何に気を遣うっていうんだよ」健吾は少しいらいらしたように言った。

「俺から訊いてやろうか? 菫に」

「何て訊くんだよ」

「いやなに、何かあったのか? ぐれえ……かな」

「あいつはきっと『別になんにもないよ』って答えるよ」

「おまえ、えらく気にしてんな、菫のこと」

「っつーか、今まで普通に近くにいたのに、急に距離置かれると、なんか落ち着かないっていうかさ」

「来週真唯が復帰したら元に戻るんじゃね?」

「そうかな……」健吾はうつむいた。

「気にすんなって」豪毅は健吾の肩に手を置いた。「帰ろうぜ」

「ああ」健吾は鞄を持って立ち上がった。

 豪毅はうすうす感づいていた。菫の健吾を想う気持ちが強くなってきたのかもしれない、と思ったのだ。だが、急に健吾を避けるような態度をとり始めたのには何か理由があるはずだ、とも考えた。

 廊下を並んで歩きながら豪毅は健吾に訊ねた。

「おまえ、菫になんかしたか?」

「だから、それはさっき俺が言っただろ? 心当たりがないから悩んでるんじゃないか」

「嘘つけ! 何もねえのに急におまえを避けたりすっかよ」

「本当に何もないって、これまで以上のことなんて、何も」

「そういやあ、あいつ、おまえん家にピアノ聴きに行ったんだろ? 最近」

「もう二週間も前だ。だけど、そんなこと、それまでも何度かあったし、その時も別にいつもと変わらない感じだった」

「そうかー」

 

 菫は自分のベッドに膝を抱えて座っていた。そばに保育園の卒園記念アルバムが広げられている。彼女はそれに視線を落とした。

 健吾と真唯、菫、豪毅が並んで立っている。四人とも無邪気に笑っている。

 菫は記憶の中の保育園時代の出来事をたぐり寄せ始めた。

 健吾が菫の手をとって、保育室の隣にある薄暗い倉庫に入った。

「どうしたの? けんごくん」菫はとまどったように訊いた。

 健吾は菫の手を離すことなく、もう一つの手の人差し指で菫の口を押さえて言った。「しーっ。すみれちゃん、しずかに。いいもの見せてあげる」

「え? いいもの?」

 倉庫の片隅にあった段ボール箱に手をかけた健吾はそれをそっと持ち上げた。その箱に隠されていたのは、積み木で作った城だった。それは城門から尖塔まで細かく再現された、ファンタジーの世界に登場する様な見事なものだった。

「す、すごい……すごいよ、けんごくん」菫は健吾の顔を見た。

 えへへ、と頭を掻きながら、健吾は言った。「これ、すみれちゃんに一番に見せたかったんだ」

「ほんもののおしろみたい」菫は感動して言った。

 あの時と同じ台詞。『ジュ・トゥ・ヴ』を弾き終わった後に言った彼の言葉『菫に一番に聴いてもらいたかったんだ』。

 菫は、それを偶然とは思いたくなかった。十年以上も前の健吾が言った言葉、その時の自分に対する気持ちが、今も残っていると信じたかった。菫の胸が締め付けられるように痛んだ。

 

 

 水曜日、菫は病院に真唯を見舞った。真唯は数日前から6人部屋に移されていた。

「いよいよ明日退院だね、真唯」

「うん。ありがとうスミ。ずっと退屈で死にそうだったよ、アタシ」

「だろうね。でも、お昼ご飯は毎日豪くんのお弁当だったんでしょ?」

「うん。病院の管理栄養士さんに掛け合って、カロリーや食材の制限なんかをちゃんと聞いた上で説き伏せたんだって。本当なら病院食を食べなきゃいけないのにね」

「すごいね、豪くんの情熱」

「彼がどうしてそんなに一生懸命になるのか、アタシ、だんだんわかってきた」

「え?」

「豪ちゃんはアタシのことが好きなんだよ。惚れてるんだ。きっと」

「気づいたんだ、真唯」菫は嬉しそうに言った。

「豪ちゃんの押しに負けたよ、アタシ」真唯も笑った。「こないだまでケン兄に抱かれたいって思ってたけどさ、もし、豪ちゃんがアタシにキスを迫っても、アタシ許しちゃうな。今なら」

 菫は思わず周囲を見回した。そして小声で言った。「ちょっと、真唯、もうちょっと声落としなよ。隣に聞こえちゃうよ」

「そうだったね。えへへ」真唯は頭を掻いた。

 菫は椅子をベッドに近づけ、真唯のすぐ側に座り直して言った。「そ、その、け、健吾くんはさ、今は誰が好きなのかな」

「ん?」真唯は菫の顔を見た。「いきなり何でそんなこと……」

「い、いや……」

「ふうん」真唯は口角を上げて唸った。「そうか、スミ、本気でケン兄に恋しちゃったんだね」

「えっ?」菫はうつむいていた顔を上げて赤面した。

「ケン兄、今はたぶん、アタシとスミ、両方が好きなんだと思うよ」

「え? 両方?」

「そ。でもアタシとはセックスしたい、って思ってるだけ。兄妹だからね。恋心とはちょっと違うよ。単純にカラダ目当て」

「い、いや、兄妹でそんなこと、普通しないから」菫はますます赤面した。「で、でも、なんでそんなことがわかるの?」

「だって、あの人、アタシをスイミングスクールに迎えに来た時、上から水着姿のアタシのカラダを舐めるようにじろじろ見てたんだもん。もうバレバレだよ」

「そ……、」

「それに、意味もなく背中や脚に触ってきてたしね」

「ま、真唯はどうなの? 健吾くんのこと、どう思ってるの?」

「もうやめた」

「やめた?」

「うん。今はケン兄に迫られても抱かせてあげない。きっとひっぱたく」真唯は笑った。「豪ちゃんならいい。抱かれても」

「抱かれて……って……。そ、そんな気になるものなの? 女の子でも?」

「うん。なるよ。ガタイのいい豪ちゃんのハダカ、想像したら、お腹の下んところがうずうずしてきたりするもん。きっとセックスしたい、ってカラダが思ってるんじゃない?」

 菫は周囲を気にしながら言った。「そ、そうなの?」

「アタシが特別なのかなあ……。スミはそんな経験ないの? 例えばケン兄に抱かれたいなんて思わない?」

「そ、そりゃあ、そっと抱き寄せられて、優しくキスされることぐらいなら想像したりもするけど……」

「男のコってそれじゃ終わらないよ。そのくらいスミにもわかるでしょ?」

「う、うん……」菫はうつむいた。

「覚悟はできてる?」

「か、覚悟?」菫は顔を上げた。

「スミがケン兄にコクって、つき合いが始まって、彼があなたのカラダを求めてきた時にさ。応じる覚悟」

「そ、その時にならないと、わからないよ、そんなこと……」

 

 

「退院おめでとー!」真雪が大声で言ってグラスを上げた。賑やかにグラスが触れ合う音が響いた。

 木曜日の夜、海棠家では久しぶりに三世代の家族が大きな食卓を囲んでいた。

「よかったな、真唯」祖母のミカが言った。

「ありがとう、ばあちゃん。でもまだリハビリが続くんだよ。しばらく」

「元通りに泳げるように、しっかりやれよ」ビールのグラスを片手に父親の龍が言った。

「うん」

 食事が終わり、自分の部屋に戻った真唯は、ベッドに腰掛け、松葉杖をカーペットの上に置いた。

 ドアがノックされた。「マユ、いいか?」

「あ、ケン兄。どうしたの?」

「開けるぞ」ドアが開き、健吾が顔を覗かせた。「紅茶、持って来てやったぞ」

「いいねいいね。ありがとう、ケン兄」真唯は大きな目をくりくりさせて笑った。

「俺も一緒にいいか?」

「いいよ。どうぞ」

 健吾はステンレスの丸いトレイに紅茶の入った二つのカップとチョコレート・アソートの箱を載せて部屋に入ってきた。「これは俺からの退院祝い」

「わあ! シンチョコのアソートだ! 『マユモデル』だね。ケン兄、優しいね。今までこんなことしたことなかったのに」

「おまえをいたわってやってるんじゃないか。俺だって気を遣ってるんだぞ」

「ありがと」

 真唯はベッドの横の小さなガラスのテーブルに向かって座り直し、ベッドに背もたれをして、置かれたトレイからカップを手に取った。

 健吾ももう一つのカップを手に取り、口に持っていった。

「あのさ、マユ、」

「なに? ケン兄」

「おまえが入院してる時、菫、時々見舞いに来た?」

「けっこう来てくれたよ。なんで?」

「いや、最近さ、俺、あいつに避けられてるような気がして……」

「はあ?」真唯はチョコレート・アソートの箱を手に取って言った。

「心当たりがないんだよ。俺、あいつに何かしたかな……」

「心当たりがないんだ、ケン兄」

「うん」

「何もしてないからじゃない?」

「え?」

「そもそも、ケン兄って、今、誰が好きなの?」

「は? 誰……って?」

「アタシのカラダが気になってるでしょ、ケン兄」

「ええっ?」

「こんな近くに、こんなかわいい女子高生がいるってことにムラムラきてるんでしょ?」

「ばっ、ばか言えっ!」健吾は赤くなった。

 真唯は健吾の手を取った。「え?」

「ケン兄、どうなの?」真唯は健吾ににじり寄り、身体を寄り添わせた。

「マ、マユ……」

 真唯は正面から健吾の目を見つめた、「ケン兄……」

 健吾は真唯の両肩にそっと手を置いた。真唯は静かに目を閉じた。

 健吾の唇が、真唯の顔に近づいた。

 その途端、真唯はテーブルにあったステンレスのトレイを手に取って、健吾の頭頂部に振り下ろした。

 がいんっ!

「い、いってーっ!」健吾は真唯の肩から手を離して殴られた頭を押さえた。「な、何すんだよ! マユっ!」

「ケダモノ!」真唯は言い放った。

「お、おまえなあ!」

「ケン兄の性欲のはけ口になるつもりはないんだ、アタシ」真唯はそう言いながら健吾のほっぺたを両方から指でつまんで引っ張った。「アタシをイヤらしい目で見てたの、知ってるよ。アタシなら簡単に抱けるって思ってた?」

 健吾はおどおどしながら言った。「お、俺、おまえが好きになってた……ような気がする」

「わかった。じゃあ、一瞬だけ、ケン兄とつき合ってあげるよ」

 真唯は健吾の首に腕を回し、自分の唇を強く彼の唇に押し当てた。「むぐぐ……」健吾は目を白黒させた。

 すぐに唇を離した真唯は、右手で思いっきり健吾の左頬をひっぱたいた。ばしっと乾いた大きな音が部屋中に響き渡った。「はうっ!」健吾の眼鏡が吹っ飛んだ。

「これでいいでしょ? どう? 目が覚めた?」

 健吾は赤くなった左頬を押さえて、泣きそうな顔で言った。「ご、ごめん、マユ……」

 真唯は座り直し、穏やかな口調で言った。「ケン兄も思春期だからね。女の子のカラダに興味があることぐらいわかるよ。でも、アタシに向かって『おまえには女性の魅力を感じない。』って言ったのもケン兄自身でしょ?」

「…………」健吾はその場に正座をしてうなだれた。

「逆なんだよ、ケン兄は」

「逆?」

「そう。セックスしたいと思った相手を好きになる、ってのは、雄のイヤらしい本能であって、本当の恋じゃない。好きになった相手とセックスしたい、って思うのが普通。そうでしょ?」

「た、確かに」健吾は部屋の隅に吹っ飛んだ眼鏡を、ごそごそと這って取りに行き、その場でかけ直した。

「ま、アタシもケン兄を誘惑したことは悪かったって思う。ごめんね」

「おまえに一瞬で振られちまったな」健吾は笑った。そしてテーブルに戻ってきた。

「アタシのキス、どうだった?」

「舞い上がる気分……じゃなかった。何が何だか、よくわからなかったよ」

「アタシも」真唯も笑った。「ファーストキスは、実の兄とだった、なんて、なかなかネタになるね」

「そうだな」

「ケン兄も、もしかして、アタシが初めてだったの?」

「う、うん……」

「ご、ごめん、悪いことした」

「いいさ。俺も将来の語りぐさにするから」健吾は脚をくずしてカップを手に取った。

「スミはね、ケン兄に本気で恋してるんだよ」

「そうなのか?」健吾は目を上げた。

「早く気づいてあげなきゃ」真唯もカップを口に運んだ。「ケン兄はどうなの? スミのこと、どう思ってるの?」

「ずっと……友だちだ、って思ってたし、いつも横にいるから、意識してなかった。でも、」

「でも?」

「俺、それこそ保育園の頃から、あいつに恋してたのかもしれない」

「保育園の頃?」

「うん。もうすでにその時から菫は俺の横にいるのが当たり前みたいになってたし、考えてみればそれは小学校の時も、中学校に入ってからもそうだった」

「スミはケン兄にとって眼鏡みたいなものだった、ってことか」

「眼鏡?」

「近すぎて見えない。でも近くにないと困る」

「なるほどな」健吾は自分の眼鏡を押さえ直した。

「スミがケン兄にコクったら、うんって言う?」

「……言う」

「良かった」真唯は微笑んでアソートのチョコレートをひとつつまんで健吾に渡した。「はい。さっきのお詫びとご褒美」