外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《クリスマス・イブ》

 

 ――12月24日。巷では『クリスマス・イブ』と呼ばれている。

 朝から豪毅はむやみにそわそわしていた。

「ちょっとは落ち着いたらどうなんだい?」ユウナが朝食の席でいらいらして言った。

「ま、落ち着かねえだろうな」親父は落ち着き払って茶をすすった。「まずはどこでマユお嬢と待ち合わせなんだ? 豪毅」

「え? ああ、11時に『シンチョコ』で。なあなあ、母ちゃん、やっぱネクタイしていくべきかな」

「知るかっ! 自分で考えな」

「で、晩飯はどこで食う?」親父がまた訊いた。

「え? ま、まだそこまでは……」

「もはや豪毅の頭ン中はお嬢とのエッチのことで一杯ってとこか」がははは、と親父は笑った。

「そのエッチ、どこで決行するんだい?」ユウナが訊ねた。

「えっ? ど、どこって……」

「まあ、高校生でラブホテルってわけにはいかねえだろうしな。てめえの部屋に連れ込むか。豪毅」

「そ、そうだな、それしかねえだろうな。真唯ん家でってわけにもいかねえだろうしな……」

「それより夕飯はどうすんだい? 今夜はイブだから、お洒落なディナーの店なんて、もう予約でいっぱいだよ、たぶん」ユウナが少し呆れたような表情で言った。

「そ、そうだよな……」豪毅はしょんぼりした様子で呟いた。

「だったらよ、俺たちがディナーを世話してやっから、あとはおめえらで好きにしろ」

 豪毅は顔を上げた。「そ、そうか、親父、すまねえな」

「お嬢も和食は好きだからねえ。よし、あたしたちがあんたらの為に特別豪華クリスマス和風ディナーをこしらえてやるか」ユウナが言った。

「わ、わりいな、母ちゃん」

「出かける前に、部屋、掃除して、ゴムとかティッシュとか、然るべき準備をしとけよ」

「わ、わかった」豪毅は箸を置いて手を合わせた。「ごっそさん」そして食器を持って立ち上がった。

 

 親父の言った通り、『シンチョコ』で真唯と待ち合わせをして、ハンバーガーショップで昼食を済ませた後、街のアクセサリー屋やペットショップを覗いたり、写真シールを一緒に撮ったりしていても、豪毅はずっとそわそわしっぱなしだった。

「豪ちゃん、この靴、かわいいよね」

「え? あ、ああ。そうだな。おまえに似合いそうだ」

「わあ、こっちにもかわいいの、いっぱいあるっ」真唯はその靴屋の中をうろうろしながらはしゃいでいた。

 豪毅は腕時計に目をやった。「ま、まだ3時か……」

 

 菫と健吾は並んでカラーリングされた歩道を歩いていた。

「私たち、お付き合いし始めて二ヶ月以上も経つのに、こうやって本格的なデートするの、初めてだよね」

「そうだな。いつも、たいていうちでピアノ聴かせるか、シンチョコでお茶するか、ぐらいだったからね」

「健吾くんってさ、」

「え?」

「街、歩く時は、どんなお店に入るの?」

「例えば豪と出かける時は、服見たり、靴見たり、ぶらぶらしたり、ってとこかな。あんまり目的があって街に出ることはないなあ、そう言えば」

「そうなんだ」

「ま、男だけで街に出る事って、そんなにないよ。俺、部活にも入ってないし、学校帰りに遊ぶこともほとんどない。おまえは? 菫」

「あたしもそんなに頻繁に街に出ることはない。真唯とは時々『シンチョコ』でお茶したり、真雪さんのペットショップを覗いたりするぐらいかな」

 菫は無意識に手を自分の腹に当てていた。それに気づいた健吾は言った。「どうかしたのか?」

「え?」

「いや、お腹押さえてるから……。痛いのか?」

「う、ううん。ちょっと張った感じがするだけ。大丈夫。こういうこと、よくあるんだ」

「どっかで休もうか?」

「平気。心配してくれてありがとうね、健吾くん」菫は笑った。

 二人は映画館の前を通りかかった。

「映画見に行くことなんか、ないのか? 菫」

「好きな映画だったら、一人で見に行くんだよ」

「一人で?」

「そう。見たい映画が友だちと合わないことが多いからね」

「どんな映画、見るんだ?」

「アドベンチャー系が好き。SFモノとかも」

「へえ」

「でも、女のコって、そんな映画より、甘甘の恋愛モノがいいみたい。私はちょっと苦手」

「なんで?」

「現実にはあり得ない、って思っちゃうんだ。ひねくれてるってよく言われる。健吾くんは映画とか見るの?」

「俺は実際に見に行くのはめんどくさいから、レンタルで済ますことが多いかな。でも俺も冒険モノとかは好きだよ」

「そうなんだ」菫は嬉しそうに笑った。「今度、一緒に観に行こうよ」

「そうだな」

 健吾は菫の手を取った。二人はそのまま手を繋いで賑やかなアーケード街に入っていった。

 菫はまた、空いた手で思わず自分の腹を軽く押さえた。

「やっぱりどこかで休もうか。お茶でも飲もうよ」健吾が言った。

 

「真唯、おまえ、靴そんなにたくさん持ってたっけか?」靴屋を出たところで豪毅が訊いた。

「え? なんで?」

「だって、ずいぶん時間かけて熱心に見てたじゃねえか」

「見るだけだよ。かわいいな、って思う靴は高くて手が出せない」

「確かに高いよな」

 女のコってのは、見るだけであんなに時間をかけられるのか、と豪毅は思った。

「ねえねえ、豪ちゃん」

「何だ?」

「休憩しようよ。何だか喉渇いちゃった」

「いいけど……。どこに入る?」

「そこの紅茶の店」真唯はアーケード街の中程にある明るい紅茶の店を指さした。店頭に大きなクリスマス・ツリーが置いてあり、色とりどりのオーナメントが吊り下げられていた。「豪ちゃんの好きな緑茶もあるんだよ」

「へえ。そんな風には見えねえけど」

「世界中のお茶の葉を扱ってるんだよ。二階はティールーム。前から入ってみたかったんだ、アタシ」

「よし。入るか」

 真唯と豪毅は階段を登った。ドアを開けると落ち着いた雰囲気の女性が姿勢良くお辞儀をした。「いらっしゃいませ」そして柔らかな笑みを浮かべた。

「あれ?」

 店の中に目をやった真唯は小さく叫んだ。「ケン兄だ!」

「え?」豪毅も真唯の視線をトレースした。「ほんとだ。やつらも来てたんだ」

 アーケードを見下ろす窓際の席に健吾と菫が向かい合って座っていた。真唯はそのテーブルに駆け寄った。

「偶然だね」

「お! マユ、おまえらもお茶しにきたのか?」

「座りなよ、ここ」菫が言った。

「邪魔じゃないか?」

「お互い様だよ」

 

 四人は一つのテーブルに座った。健吾は立ち上がり、菫の横に、豪毅と真唯はその二人の向かいに並んで座った。

「スミ、どう? ケン兄との初めての街デート」真唯が言った。

「充実してるよ。とっても楽しい」

「ケン兄は?」

「俺も。今までずっと横にいたのに、今日は菫がなんだか違う女のコに思える」

「恋だね」真唯は笑った。

「そう言うおまえはどうなんだよ、マユ」

「豪ちゃんね、ずっとそわそわしてんだよ」

「え?」豪毅が思わず真唯を見た。

「わかってるって、豪ちゃん。早くアタシとエッチしたいんでしょ?」そしてにっこりと笑った。

「そ、そんなこと……」豪毅は赤くなってうつむいた。

「デートは三度目だけど、今日は何をやってても上の空なんだよ、豪ちゃん」

 二つのケーキセットが運ばれてきた。「どちらに?」店員が訊ねたので、健吾と菫は小さく手を上げた。

「おいしそう。豪ちゃんどれにする?」真唯がメニューを広げながら言った。

「え? お、俺、な、なんでもいい……」

「それだめ」真唯が豪毅の鼻に人差し指を突きつけて睨んだ。「デートの時には、相手を気遣うつもりの『何でもいい』『どれでもいい』ってのはかえって困らせるんだよ。自分の意見をちゃんと言わなきゃ」

「そ、そうなのか?」豪毅は前に座った健吾に訊いた。

「そうらしいぞ。俺もついさっき、菫に言われた」健吾はカップを口に運びながら言った。

「何がいい? ほら、ここに緑茶のセットもいくつかあるよ」

「じゃ、じゃあ、俺、緑茶と羊羹のセットにしようかな」

「相変わらず渋いね、豪くん」チーズケーキを一切れ口に入れながら菫が言った。

「ねえねえ、ケン兄たちは夕食はどこで?」

 健吾はちらりと菫を見て言った。「『カンポ・デル・オリヴァ』でディナー」

「わあ! リッチ。イタリアンだね」

「菫がパスタ好きなの、知ってるだろ?」

「評判だもんね、あそこのパスタ。あの店のマスターの田中さんって修平先生の友だちなんだってよ」

「そうなのか?」

「うん。こないだ修平先生がうちに遊びに来た時に聞いた。高校生の時に総体で戦ったんだって」

「戦った、って……。え? じゃあ剣道やってんだ、あのマスター」豪毅が驚いたように言った。「で、でもなんでイタリアン・レストランなんか……」

「高校出てから勤めてた会社が倒産して、ぷーたろーだった頃、修平先生と再会して、やめてた剣道をまたやるようになって、そこで今の奥さんと知り合ったんだって」

「奥さんって、イタリア人なんだろ? いつも店にいる小柄な赤毛の」

「そう。彼女も剣道やってて、その時は日本に留学してたんだって」

「そうか、それでイタリアン」

「田中さん、一念発起して奥さんの国で料理の修業して、日本で店を開いたってわけ」

「へえ!」豪毅が感心したように言った。

「出会い、って大切だよね」菫が言って、微笑みながら健吾を見た。

 入り口で真唯たちを出迎えた品の良い店員がテーブルにやってきて、豪毅の目の前に緑茶と羊羹のセット、真唯の前にはダージリンとアップルパイのセットを置き、またにっこりと笑った。「ごゆっくり」

「でもよ、『カンポ・デル・オリヴァ』、ただでさえ人気なのに、今日はクリスマス・イブだろ? 客、いっぱいじゃねえのか?」豪毅が心配そうに言った。

「抜かりはない。一週間前に予約した」健吾が余裕の表情で言った。

「おお! すでにデートの達人っぽいね」真唯が言った。

「で、おまえらは? どこでディナーなんだ?」健吾が豪毅に訊いた。

 豪毅が答える前に真唯が口を開いた。「『料亭 高円寺』で豪華な和風ディナーだよ」

「さすが!」健吾が言った。

「親父とお袋、めっちゃ張り切っててよ」豪毅が頭を掻いた。

「どっちも素敵なイブになりそうだね」菫が笑った。