外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《イメージトレーニング》

 

 豪毅は、居間で丸めた座布団を抱きしめながら寝転がり、唇を突き出してうーうー唸っていた。

「豪毅、イメトレは万全かい?」布団を抱えた母親のユウナが通りかかった。

 豪毅は抱いていた座布団を広げて、その上に腹ばいになった。「母ちゃん、」

「何だい?」

「女のコって、どんなキスをして欲しいのかね?」

 ユウナは抱えていた布団を畳の上に置いて言った。「まだ経験なしなの? あんたら、もう何度かデートしてんだろ?」

「きっかけが掴めなくてさ」

「意外に奥手なんだね、あんた」

「ほっといてくれ」

「妙なとこばっか父親に似ちゃって……。じゃあ、ファーストキスなんだね。あんたもマユお嬢も」

「俺が二度目になるって」

「え? お嬢ファーストキスはもう済ませてんだ。意外だね」

「健吾が最初に奪われたらしい」

「ちょっと待て」ユウナは豪毅の前にしゃがみ込み、思い切り怪訝な表情で息子の顔をのぞき込んだ。「双子の兄がファーストキスの相手だって? 何だい、そりゃ。それに『奪われた』ってのはどっちなんだい? 意味がよくわからなかったんだけど」

「以前、健吾がムラムラきちまって、真唯に迫った時、真唯はやつをキスで鎮めてひっぱたいて、終了」

 ユウナは心底呆れた様に言った。「変な兄妹だね」

「俺、自信ねえんだ、母ちゃん」

「誰だって初めてでうまくできるわけないよ。だけどさ、おまえがお嬢のこと、好きで、大切にしたい、って思ってれば、とんでもないことにはならないと思うよ」

「そうかな……」

「幸せじゃないか、そうやってキスさしてくれて、なおかつエッチもできるんだろ? オトコとしては最高に恵まれた初体験ってもんだよ」

「でも、何だかどきどきしねえよ。最初からやれるってわかってっとさ」

「嘘つけ。かえってどきどきしてんだろ? 毎晩毎晩妄想してさ」

「え?」

「あんたの布団、シーツのあちこちにシミがついてたから、洗ってやってるよ。ありがたく思いな」

 ユウナは持って来た布団を抱え上げた。歩きだそうとしたユウナは、ふと立ち止まり、布団を抱えたまま振り向いた。「母ちゃんとキスの練習してみるかい?」

「ばっ! ばかなこと言うんじゃねえよ! だ、だっ、だっ、だれが母ちゃんと!」豪毅は真っ赤になってうろたえた。

「冗談だよ」ユウナはくるりと背を向けてそこを離れた。

 豪毅は部屋を出て行くそんな頼もしい母ユウナの背中をずっと見つめていた。

 

 

「おはよー、ケン兄。あれ、眠そうだね」

「ああ、おはよう、マユ。おまえ朝っぱらから弾けてるな。いつものことだけど」健吾は眼鏡を手に持って目をごしごしとこすった。

 ――海棠家の朝食。

 テーブルでは父親の龍がミルクのたっぷり入ったコーヒーを片手に三社目の新聞を食い入るように見ている。母親の真雪が一リットル入りの瓶入り牛乳を運んできて健吾の前に置いた。「はい」

「ありがとう、母さん」健吾は自分のグラスに牛乳を注ぎ入れた。

「昨夜も遅かったの?」

「え? うん。ま、まあね」

「ケン兄ね、」真唯が目をくりくりさせながら言った。「最近毎日のようにDVDレンタルして、一人で見てるんだよ」

「DVD?」

「そ。パソコンで見てるんでしょ? ケン兄」

「べ、べつにいいだろ。俺の勝手だ」

「なぜだかわかる? 真唯」母が楽しそうに聞いた。

「え? 何が?」

「なんで健吾がそんなことし始めたのかってことだよ」

「なんでなの?」

「練習してるんだよ」

「練習?」

「おおかた、映画のラブシーンでさ、女のコの扱いを研究してる、ってとこでしょ」

「熱心じゃないか。いいことだ」龍が新聞から目を離さずにぼそっと言った。

「お、おまえも少しは研究したらどうなんだよ、マユ」健吾は少し赤くなり、ムキになって隣に座った妹に言った。

「豪ちゃんもいろいろ考えてるのかなー。楽しみだなー」真唯は胸の前で指を組み、夢みがちな瞳で独り言のようにつぶやいた。

「いい気なもんだよ。女って……。まったく」健吾は生野菜のボウルに入ったミニトマトをフォークでつついた。

「ま、エッチはキホンオトコが女のコをどう扱うかで勝負が決まるからな」龍が読んでいた新聞をたたみながら言った。

「勝負?」

「そうだよ。独りよがりの行為は、まず間違いなく嫌われるね」真雪が椅子に腰掛けてエプロンを外しながら言った。「自分だけ気持ち良くなろう、なんて思ったら、もうアウト」

「パパはどうだったの?」真唯がオレンジジュースのグラスを手に持って言った。「パパの初体験の相手は母さんだったんでしょ?」

 真雪がにこにこしながら言った。「パパとあたしが初めて結ばれたのは、あたしが高三、パパは何と中二の時」

「ええっ?!」

「早っ!」

「思春期真っ盛りの、性欲の塊みたいなその年頃でね、パパはあたしにすっごく優しくしてくれたんだよ。何もわからないなりにね」

「ほんとに?」

「忘れられない『龍くん』の言葉、『いやならやめるよ。僕、大丈夫。我慢できるから』」

「へえ!」健吾が叫んだ。

「パパ、何だかかわいい、っていうか微笑ましいね」真唯もにこにこしながら言った。

 龍は赤面しながら言った。「真雪とはいとこ同士だったしな。小さい頃から知ってたってこともあるが、実際のところ、俺もあの時はびくびくしてた」

「びくびく?」

「大好きなマユ姉を傷つけたくない、ってことが一番だったかな」彼はカップを持ち上げた。

「『マユ姉』って呼んでたんだ、パパ。幹ちゃんがアタシを呼ぶのと同じだ」

「四つ年下だからね」真雪が言った。

「ママもパパのこと、大切に思ってたんでしょ?」

「もちろんだよ。守ってあげたい、ってその時は思ってた。パパはその時、ちょっと辛い体験をした後だったからね」

「辛い体験?」真唯が心配そうに龍に顔を向けた。

「また今度、ゆっくり話してやるよ」龍は微笑みながら言った。

「お互いそうだったから、初体験の時は、ほとんど不安はなかったよ。安心して『龍くん』に抱かれた」

「幸せな初体験だったんだね」

「でも、その行為自体は、何が何だか、よくわからないまま、終わってた」龍はそう言って笑った。「ま、そんなもんだろ」彼は立ち上がった。

「忘れ物はない?」真雪が顔を上げて言った。

「ああ。じゃあ、行ってくるよ」

「気をつけて、父さん」健吾が言った。

「行ってらっしゃい」真唯も手を振った。

 上着を肩にひょいと担いで、龍は背を向けたまま家族に右手を振って、ダイニングを出て行った。

 

 

 街なかのペットショップ『MAYU』は、『シンチョコ』のすぐ近く、道を挟んで反対側の並びの角にあった。経営者の真雪は週に2~3度、酪農関係の会議や畜産農家、研究所に顔を出す技師でもあった。『家畜人工授精師』の免許、『動物看護士』や『犬訓練士』の資格も持っているので、あちこちの団体や関係機関から頻繁に声がかかるのだった。

 店を若い店員に任せて、真雪はスタッフルームでコーヒーを片手に電話をしていた。

「ユウナ、本当にいいの? うちの真唯、あなたのところに泊めてもらっても」

『全然平気だよ。そっちこそ大丈夫? うちの豪毅、マユお嬢を手籠めにしちまうかもよ?』

 真雪は笑った。「大丈夫でしょ。豪毅くんはそんな乱暴なコじゃないよ」

『でもさ、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったよ、あたし』

「本当だね。昔からの幼なじみって、ずっと思ってたからね」

『豪毅にゃもったいないね、マユお嬢はさ。で、どう? あんたんとこのお店、繁盛してっかい?』

「お陰様でね。畜産農家や他のペットショップからの依頼もけっこうあるし」

『大したもんだよ、あんた初志貫徹っていうかさ、動物飼育の専門学校出て、そのまま今の職だからね。あたしなんかダンナと結婚してから、全然畑違いの料亭の女将だからね』

「ユウナは今の女将が似合ってるよ」

『龍くん、元気?』

「うん。仕事もかなり忙しそうだけど、家族もちゃんと大切にしてくれてる」

『さすが龍くん』

「……ユウナには、感謝してる」真雪の声のトーンが少し落ちた。

『なに、どうしたの?』

「あたし、専門学校での実習の時、あなたに助けられた。今でも忘れないよ。丁度今頃だったよね……」

『何言ってるんだい。あたし、あんたの役に立ったつもりはないよ』

 

 ――真雪とユウナが同じ動物飼育の専門学校に通っていた頃、郊外の水族館で一週間の泊まりがけの実習が十二月にあった。その時、二十歳になったばかりの真雪は、実習の責任者で妻子ある男性に食事に誘われ、酒を勧められた挙げ句、夜を共にしてしまったのだった。その時、彼女は龍とつき合い始めて2年を経ていて、ユウナもそのことを知っていた。真雪のその不倫に気づいたユウナは、その男との情事の後宿舎に戻ってきた彼女の頬を力任せに叩き、諭したのだった。

 

「あの時、あなたから殴られなかったら、あたし、どうなってたかわからない」

『よしてよ。あたしがいなくても、あんた十分反省してたじゃないか。龍くんの名前を呼びながら泣き叫んでたあんたを、あたし、もうどうしていいかわからなかったよ』

「ユウナがいてくれなかったら、あたし、きっと壊れてた。龍とも結婚できなかったかも知れない……。本当にありがとう。感謝してる」

『もういいよ。よそうよ、その話』

「ごめんね」

『そうそう、豪毅ったらさ、毎夜、マユお嬢を抱く練習してんだよ』

「え? 練習?」

『そ。座布団丸めて、抱きしめてキスして、畳の上を転げ回ってるよ。もう見てておかしいったらありゃしない』

「あはは、男のコだね、豪毅くん」

『その練習の成果が出ればいいんだけどねえ』

「あなたの家に泊まってて、真唯が何か失礼なことしたら、電話してね。すぐに連れ戻しに行くから」

『その必要はないよ。きっと』ユウナは笑った。『それより、うちの豪毅がお嬢に乱暴なことしちゃって、あたしがヤツを引っぺがして、あんたと龍くんの目の前に引き出して土下座させなきゃいけなくなるかも』

「ふたりとも、どきどきだろうね」

『そうだね。後でどんなだったか、豪毅のヤツに聞き出さなきゃ』

「じゃあ、イブの夜はよろしくね」

『わかった。じゃあね』