外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《幹太の決心》

 

 日曜日の昼過ぎ、まだ開店前で仕込み中の『料亭 高円寺』の前をうろうろしている少年がいた。女将のユウナが二階の窓からそれを見つけ、下に降りて玄関の鍵を開けた。

「どうしたんだい? そんなところで。うちに何か用?」

「え? あ、は、はい。あ、あの、ご、豪毅……さん、いますか?」

「豪毅の友だち?」

「は、はい。まあ、そんなとこです」

「ちょっと待っててね」

 すぐに豪毅が出てきた。「お! 幹太。何だよ、何しに来た」

「話があんだけど」幹太は少し緊張した面持ちで言った。

「入れよ」

「う、うん」

 豪毅は幹太を店に招き入れて玄関を閉めた。

 店の一階のカウンター席に幹太を座らせて、豪毅は隣に座った。

「で、何なんだ? 話って」

「豪毅、俺、ここに弟子入りしたいんだけど」

「は?」

「ちゅ、中学卒業したらさ、俺、料理人の修行がしたいんだ。ここで」

「いきなり何だよ」

「俺、頭も悪いし、勉強も苦手だし、無理に高校いくよか、早く働きたいんだ」

 着付けを終えたユウナが二階から降りてきた。そして二人に気づいた。

「あんたの名前は?」ユウナが訊いた。

 幹太は思わず立ち上がった。「え? あ、か、幹太です。汐崎幹太って言います」そしてぺこりと頭を下げた。

「幹太君か。で、うちの豪毅とは何の知り合い?」

「お、俺、真唯さんに怪我をさせた犯人なんです」

「え? あの、バイクの少年ってのはあんたなの?」

「は、はい。すみません。ごめんなさい。もうしません。許して下さい」幹太はうなだれた。

「なんだ、普通の中学生じゃないか。全然すれてない感じだよ」ユウナは笑って幹太の頭を撫でた。「で、豪毅に何か相談でもあったのかい?」

 豪毅が口を開いた。「こいつ、うちに弟子入りしたいんだってさ」

「弟子入り?」

「そ」

「高校は?」

「俺、行きたくないんです。高校なんて。頭悪いし……」

「諦めな」ユウナは吐き捨てるように言った。

「え?」

「高校に行きたくないから、料理人になるってのかい? 馬鹿にしないでおくれ」

「で、でも……」

「それじゃ何かい? 料理人は頭悪くてもできるって言うのかい?」

「そ、そういう訳じゃ……」

「そういう後ろ向きな心がけの人間を雇う気はないね。なに? 自分は頭悪い? なんでそんなこと決めつけるんだよ。悪いってわかってんなら勉強すりゃいいだけの話だろ? そっから逃げてるだけじゃないか、あんたは」

「か、母ちゃん、そこまで言わねえでも……」豪毅がおろおろして言った。

「努力もしないで、自分の思い通りになるって思ったら大間違いだよ」ユウナはそう言い捨ててそこを離れた。

「……」幹太は唇をかみしめて身を固くしていた。

「か、幹太、」

「俺、帰るよ。豪毅」

「幹太、」

 幹太は立ち上がり、小走りに玄関に向かうと、止める豪毅を振り切って表に飛び出した。

 

 二階の座敷で今夜開かれる宴会のために座布団を並べていた母親のユウナに豪毅は声を掛けた。「母ちゃん!」

 ユウナは手を止めずに返した「何だい?」

「言い過ぎだろ?」

「なんで? あたしが何か間違ったこと言ったかい?」

「幹太はまだ中学生なんだ。あんな言い方されたら、またあいつ妙なこと考えるかもしんねえだろ」

 ユウナは手を止め、豪毅の方を向き直った。「あの子はまだ逃げてる。自分にね」

「逃げてる?」

「安易な可能性にしがみつきたいっていう気持ちが見えるんだよ。そんな気持ちで料理人がつとまる訳はない。そのぐらいおまえにもわかるだろ?」

「わかる……けど……」

「鈴掛南中の生徒なんだろ? 幹太って」

「そうだと思うけど」

「おせっかいなことだとは思ったけどさ、あたしさっき修平に電話しといたから」

「え? 天道先生に?」

「そ。相談に乗ってやってくれって」

「それはいいかも……」

「修平って、中学校では生徒に信頼されてる先生ナンバーワンなんだろ?」

「うん。俺もずいぶん天道先生に相談に乗ってもらった」

 

 

 明くる月曜日。幹太の中学校。

「よお、汐崎幹太」

「あ、天道先生」放課後、鞄を抱きかかえて廊下を一人で歩いていた幹太は、首からホイッスルを提げたジャージ姿の教師、天道修平に呼び止められた。

「汐崎幹太、今日は表情が暗いな。どうした」

「なんで先生、俺のことフルネームで呼ぶんです?」幹太が口をとがらせて言った。

「おまえの名前、かっこいいじゃねえか。演歌歌手か板前みてえで」

「変なの」

「おまえあれ以降、少し表情は良かったじゃねえか。真唯んとこに通い詰めてたって?」

「なんで知ってるの? 先生。……あ、そうか。先生って夏輝警部の旦那さんだったね」

「お似合いだろ?」

「自分で言うかな……」幹太はあきれ顔で言った。

「おまえ、真唯のことが好きなんだろ? っつーか、好きになったんじゃねえのか?」

「えっ?!」

「何で知ってるかってか? そりゃおまえ、ただの中学生が毎日欠かさず女子高校生の見舞いに行くか? 普通」

「だって俺、加害者だし」

「おまえにそんな殊勝な気持ちがあったか、ってことだ。以前のおまえなら、ふてくされるか、いじけるかして、被害者とは顔を合わせようとしないんじゃねえのか?」

 その通りだ、と幹太は思った。

「あの事故を起こす前の顔つきと違うんだ、今のおまえは」

「そ、そんなことが解るんだ、天道先生って……」

「ばかにすんじゃねえぞ。これでも百戦錬磨の辣腕警察官、天道警部の夫だぜ」修平は幹太にウィンクをした。

「たぶん、その警部さんのお陰」

「夏輝の?」

「うん」

「よしっ!」修平は幹太の肩をぽんと叩いて言った。「おまえの悩みを聞いてやろう」

「悩みなんてないし」

「嘘つけ」

「断言するか、先生」

「あるんだろ? いろいろと。顔に書いてあっから。例によってな」

「おせっかいな先生だな」

 

 幹太と修平は体育館脇の小さな植え込みの脇にあるベンチに座っていた。穏やかな風が吹き、傾いた日差しが二人を包み込んだ。

「今年の夏も暑かったが、暦ってのは正直だな。10月になってちゃんと涼しくなってきた」修平が独り言のように言った。

「先生はさ、」幹太が口を開いた。「夏輝警部さんとどうやって知り合ったの?」

「高校ん時、あいつにコクられた

「えーっ?! 先生からコクったんじゃなかったの?」

「何だよ、その驚きよう。夏輝はな、剣道をやってるかっこいい俺に惚れたんだ。うらやましいだろ」

「ふうん。いい人だよね、夏輝警部」

「だがあいつは、ああ見えても陰でめっちゃ努力するタイプなんだぜ」

「そうなの?」

「見た目チャラくてやかましいだけのオンナだと思っていたが、つき合ってるうちに俺、やつの本当のすごさがわかっていったんだ」

「本当のすごさって?」

「あいつはな、すでに中学ん時から警察官になるって決めてたんだぞ」

「ほんとに? すごいね」

「実を言うとな、ヤツは自分が生まれた日に父親を交通事故で亡くしてんだ」

「えっ?!」

「事故の被害者だった。物心ついてそれを聞かされた夏輝は、心から交通事故を憎むようになってな、それがきっかけで警察官になろうって思ったんだ」

「……そうだったのか……」

「そもそも、警部であるあいつは、今はこういう交通事故に首突っ込むような部署にはいないんだぜ。二年前からこの町の警察署の地域課の課長だ。交通課じゃねえ。でもな、放っておけねえんだ。特におまえみてえな将来のある若い奴のからんだ事故に関しちゃな」 

「……そうなんだ……」幹太はうつむいた。

「熱かっただろ? あいつ。おまえにいろいろ言って聞かせる時はよ」

「俺といっしょに泣いてくれたんだ、夏輝警部。そうか、それでわかった。そういう過去があったからなんだね。本当に俺のこと心配してくれてたんだ、あの人」

「そういうヤツなんだよ。夏輝は」

「天道先生が惚れるのもわかる気がするよ」

「だから言っただろ、アイツが俺にコクったんだって」

「じゃあ、先生は夏輝さんに惚れてないの?」

「べた惚れだ」修平は笑った。

 幹太は空を仰いだ。白く細い雲をまっすぐに残して、一機の飛行機がその碧いキャンバスを横切っていった。「俺、きのうさ、『高円寺』に行った」

「何しに?」

「高校にいかないで、料理人になりたい、弟子入りさせてくれ、って頼みに行ったんだ」

「へえ、自分だけでか?」

「うん。豪毅とも友だちになってたし、その勢いで、っていうか……」

「豪毅な。真唯の病室で顔合わせたってわけだ」

「うん。俺、豪毅の弁当食べさせてもらって、無茶苦茶感動した」

「あいつの弁当はもはやプロ並みだからな」

「でさ、俺、調子に乗って乗り込んだんだ。『高円寺』にさ」

「それで?」

「豪毅の母ちゃんに酷く怒られた」

「ユウナにか?」

「あの母ちゃんユウナって名前なんだ」

「俺や夏輝、真唯の母ちゃん真雪の同級生だ」

「へえ」

「あいつも高校ん時は茶髪でチャラかったんだぜ」

「そうなの?」

「『高円寺』の親父に惚れられて、結婚して、ああなった。あいつも親父に惚れて、料亭の女将になる自覚を持ったって言ってもいいかな」

「高校なんか行きたくない、って言ったら、血相変えて俺を叱り飛ばすんだ」

「かっこいい女だろ? ユウナ」

「うん! 言われてる時はめっちゃ悔しかったけど、後で思い返したら、なんて堂々としてて、かっこいい人なんだろう、って思った」

「やつの息子の豪毅もな、一時は高校に行かねえ、中学出たら修行するって言ってたことがあったんだぜ」

「へえ、俺と同じじゃん」

「そん時もユウナは豪毅を叱り飛ばした。手足も出たって話だぞ」

「ほ、ほんとに?」

「よかったな、おまえあいつに殴られたり蹴られたりしなくて」

「そうだったのか……。でも、豪毅って、すごいヤツだよね」

「おまえ、先輩に向かって『ヤツ』って何だよ」

「豪毅の料理の腕前、ハンパない。それにあの執念っていうか……」

「執念?」

「そう。真唯さんが一言『旨い』って言ってくれるまで、料理の研究を続けてるんだ。すごいよね」

「あいつは真唯に惚れてっからな」

「……やっぱり?」

「見りゃわかるだろ? あいつの態度、バレバレじゃねえか」

「…………」

「どうした? 汐崎幹太、いきなり黙り込みやがって。おお! そうか、そうだったな、おまえも真唯のことが気になってたんだっけか」わっはっは、と笑い飛ばした後、修平は続けた。「おまえが慕ってる先輩が、おまえの恋敵ってか、こりゃおもしれえ」

「何だよ、他人事だと思って……」

「悪かった。だが強敵だぞ、豪毅は」

「だよね」

「あのしつこさは筋金入りだかんな。親父譲りで」

「わかるよ」

「ま、がんばんな」修平は幹太の背中をぱんぱんと叩いた。

「『高円寺』の親父さんって、どんな人なの?」

「頑固一徹を画に描いたようなやつだぜ」

「そうなんだ」

「あいつも俺たちと同じ世代なんだが、一代であの店をあそこまでの料亭に育てたんだ」

「ほんとに? 俺、江戸時代ぐらいからやってる店かと思ってた」

「江戸時代は大げさだ。でもま、確かに堂々としてっからな、あの料亭。だが、最初からそうだった訳じゃねえんだ」

「聞かせてよ、その話」

 修平はうなずいた。

「最初は小さな総菜屋。ユウナと結婚して、借金してあの料亭を建てるって言い出した時にゃ、俺たちみんな反対したんだ。そう簡単にやっていけるわけねえだろ、ってな」

「でも建てちゃったんでしょ?」

「押し切られちまった。それでも俺たちが思った通り、最初は客があんまり寄りつかなくてつぶれかけたこともあった」

「でも残ってるじゃん。今も」

「ユウナは総菜屋ん時から続けてた弁当配達を休まずやり続けた」

「配達してたんだ、弁当」

「親父は一日中、客の舌と予算に合わせて弁当の中身を考えてた。完全オーダーメイドの弁当。だから、あの頃の店のチラシにはメニューも値段も書いてなかった」

「すごいね」

「そのうち、口コミで固定客も増え、贔屓にしてくれる会社も増え、座敷を使う宴会も増えて、うなぎ登りに『料亭 高円寺』の評判は上がっていったんだ。今ではこの町で押しも押されもせぬ名料亭になってる」

「かっこいい……」

「だろ?」

「先生、俺さ、今まであんまり気にかけてなかったけど、周りにはそんなかっこいい大人がいっぱいいるんだね」

「見えてきたか? おまえにも」

「うん。夏輝警部、『高円寺』の親父さんにユウナさん、それに、」幹太は修平に顔を向けた。「天道先生」

「よせやい」修平は幹太の後頭部をひっぱたいた。

「先生、」

「何だ?」

「俺が行ける高校なんてあるかな。今さらだけど……」

「おまえが本気でそう思ってんのなら、山ほどあるぜ」

「ほんとに? でも、受験で合格するかな……」

「勉強しなけりゃ合格しねえ」

「だよね」

「だがな、目標も夢もなく、しょうがねえから高校ぐらい行っといてやるか、ってやつが多い中、おまえみてえに、先々料理人になりてえから、勉強する、っていうやつなら、高校生活は人生で最も役に立つ三年間になる」

「そう言えばさ、先生の娘も中三って言ってなかったっけ?」

「ああ、そうだぞ。うちのは鈴掛北中に通ってるけどな」

「北中って剣道部、強いんでしょ?」

「今んとこはな」

「娘さんも剣道部だよね?」

「一応な」

「こないだ田中が言ってた。北中の剣道部に、南中はこてんぱんにやられたって」

「そうだったか」

「だって、田中んちの父ちゃん、北中の剣道部のコーチやってんだよ、田中も気まずいよ」

「確かにな」

「知ってる? 田中んちの父ちゃん」

「もちろんだ。やつとは高校ん時、総体で戦ったこともある」

「へえ、そうなんだね」

 ベンチに座ったまま、幹太は両腕を上げて伸びをした。

「娘さんは、どこの高校に行くの?」

「穂波(ほなみ)は今んとこ、鈴掛高校って言ってるよ」

「なんだ、豪毅たちと同じ高校じゃん」

「ま、剣道部もそこそこ強いからな、あの高校。それにうちからそれほど遠くないし」

「穂波って言うんだ、娘さんの名前」

「ああ。秋生まれだかんな」

「天道穂波、かっこいい名前だね。いかにも剣道やってるって感じ」

「ありがとよ」

 幹太は立ち上がった。

「俺、もう決めた、高校に行って、勉強して、将来料理人になる」

「誓えるか?」

「うん」

 修平は幹太の目を見つめた。

「わかった。俺はおまえを応援すっぞ。精一杯やれ」

「ありがとう、天道先生」

 修平も立ち上がった。そして幹太の肩を二度叩いて、にっこりと笑った。