外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《告白》

 

 運命の土曜日がやって来た。

 昼に合わせて、海棠家のリビングに真唯、健吾、菫、幹太、豪毅の五人が顔をそろえていた。それぞれの前に、『料亭 高円寺』という毛筆体のロゴの入った丹塗りの四角い木箱が置かれている。

「み、みんな、食べてみてくれ」豪毅が震える声で言った。

 一同は蓋を開けた。

「す、すげえ!」最初に声を上げたのは幹太だった。

 田の字に仕切られた弁当は、左上のエリアに茹でた絹さやに載せられた車エビの艶煮、紅葉の麩と里芋、人参、カボチャの煮物、右上に鮭の柚風味焼き、鴨ロース、小粒の栗の蜜煮に赤い紅葉の葉があしらわれている。左手前は銀杏の葉の形に抜かれた、栗ときざみ穴子のおこわ、脇には銀杏とはじかみが添えられている。そして右手前のエリアには、レタスを敷いた上に、だし巻き卵、蓮根の海老すり身はさみ揚げ、そして鶏肉のたたきとニラを包んだ生春巻き。表面がかるくあぶってある。

「こ、これは!」健吾も感嘆の声を上げた。「ま、まさに秋の色合い、紅葉の赤、栗や銀杏の黄色、」

「サーモンのピンクもきれいだね」菫も言った。「柚と生姜の匂いがうまい具合に溶け合ってるし……」

 真唯が豪毅の顔を見て言った。「この生春巻きだね? 完成品」

 豪毅は緊張したようにうなずいた。

「いただきまーす」真唯は箸を手に取り、最初にその春巻きを口に入れた。

 ごくり、一同はそんな真唯を微動だにせず、見つめた。

「旨いっ!」真唯は叫んだ。「アタシの想像してた味わいだよ、豪ちゃん」

「ほ、ほんとか?」

「中身の味と包んでる皮の食感がぴったりマッチしてるよ。すごい! 豪ちゃん。やったね!」

「や、やったー……」豪毅は涙ぐんでいた。

 菫は思わず手をたたいた。健吾も幹太も同じように拍手をした。

「あ、ありがとう、みんな。さあ、食ってくれ」

 五人は満ち足りた気分で、その松花堂弁当を食べ始めた。

「豪毅、俺、おまえを心から尊敬するよ」幹太が言った。

「呼び捨てにすんな! それになんだ、おまえって」

「幹ちゃん、すっかり豪ちゃんの弟分になっちゃったみたいだね」

「俺、高校出たら『料亭 高円寺』で修行することに決めたんだ」

「ユウナおばちゃん、許してくれたの?」真唯が言った。

「うん。約束してくれた」

「よかったじゃない」菫は微笑んだ。

 唐突に真唯が言った。「豪ちゃんも、合格」

「え?」豪毅は顔を上げた。

「アタシの恋人になってよ」

 豪毅は思わず箸を取り落とした。「へっ?」

「豪ちゃんが好き。つき合って」

 豪毅はみるみる真っ赤になった。

「おー、公開告白か。よかったな、豪」

 幹太は気づかれないように小さくため息をついた後、同じように威勢良く言った。「良かったな、豪毅」

 真唯はそんな幹太をちらりと見た。一瞬目が合った二人は微笑んだ。

 

 弁当を食べ終わり、茶をすすりながら豪毅は言った。「幹太、」

「なに?」

「ちょっと落ち込んでっか?」

「え? う、うん。ちょっとね」

「なに? どうしたの?」菫が聞いた。

「こいつな、俺の恋敵だったんだぜ」

「え?」

「こいつも真唯のことが好きだったんだ」

「そうだったんだー」菫がちょっと困ったような顔をした。

「大丈夫。初めからわかってた結果だよ」幹太は笑いながら言った。「真唯さんには豪毅がお似合いだ。それに、俺も豪毅といっしょに修行してれば、真唯さんといつでも会えるし。それでいいよ、俺」

「できたやつだな、幹太って。中学生のくせに」健吾が感心したように言った。

「幹ちゃんは、弟って感じだよ」真唯が言った。「豪ちゃんの弟分ってことは、アタシにとっても弟みたいなものじゃん」

「弟かー」

「それでいい? 幹ちゃん」

「十分だよ、マユ姉」

「『マユ姉』か、もうすっかりその気だな」豪毅が笑った。

「ところでさ、」幹太が言った。「ここに来た時から気になってたんだけど、マユ姉って、ピアノも弾けるんだね」

「え? アタシ?」

「でっかいピアノ、グランドピアノって言うんでしょ?」

「アタシじゃないよ、ケン兄だよ、ピアノ弾くの」

「ええっ?!」

「何だよ、その驚きようは」

「健吾さんが弾くの? ピアノを?」

「そうだよ」

「知らなかった……」

「弾いて聴かせてやったら? ケン兄」

「そうだな」健吾は眼鏡のテンプルをちょっと触って立ち上がり、ピアノの椅子に座った。

 おもむろに彼はその指をなめらかに鍵盤に落とし始めた。丸く粒の整った一つ一つの音が部屋の中を飛び回った。

「こっちもすげー……」幹太は目を見開いて呟いた。

 健吾が弾き終わると、聞いていた四人は盛大な拍手を送った。健吾はまた眼鏡の位置を整えてにっこりと笑い、椅子から立ち上がった。

「みんな凄いんだね」幹太は興奮して言った。

 その幹太の言葉を聞いた菫は、少しだけうつむき、上目遣いに健吾を見た。健吾はそんな菫を見て、口元にかすかな笑みを浮かべた。優しく包みこむようなそのまなざしに、菫は胸を熱くし始めた。

 

「ごちそうさま」マンションの大きなメインエントランスを出たところで真唯が言った。「デート、楽しみにしてるね、豪ちゃん」松葉杖を持っていた右手を離して、彼女は小さく手を振った。

 豪毅は赤くなって頭を掻いた。

「俺もいっしょに行こうかなー。二人のデート」幹太が悪戯っぽく笑いながら言った。

「おまえは来るな」

「わかってるよ、冗談だって」豪毅と幹太は連れだって歩き出した。幹太は一度振り返って真唯に手を振った。真唯も微笑みながら手を振り返した。

「お邪魔しました」菫はそういってぺこりと頭を下げた。

「あ、菫、」健吾が帰ろうとした菫の袖を掴んだ。

「え?」

「ちょ、ちょっと話があるんだ」

 真唯はにこにこしながら、そんな二人を残して、何も言わずにマンションのエレベーターに消えた。

 豪毅と幹太の姿が見えなくなったことを確認した健吾は、菫に向き直った。

「菫、俺、ずっと気づかなくてごめん」

「え?」

「俺も、おまえが好きだ」

「えっ? えっ?」菫はひどく動揺した。

「たぶん、ずっと前から好きだった」

「あ、あの、あの……」菫は真っ赤になっていた。

「おまえの返事が訊きたい」健吾はまっすぐに菫の眼を見つめた。

「わ、私も、私も好きです。健吾くんが」そう言ってうつむいた。

「良かった……。思い違いじゃなかった」健吾はふっと笑った。

「私なんかで、いいの?」

「え?」

「何の取り柄もない私なんかで……」

「人を好きになるのに、取り柄なんて関係ないよ」

「釣り合わないよ、健吾くんに、私なんか……」

「俺は、おまえがいつも横にいることに安心してるんだ。それだけで十分だろ?」

「ごめんね、健吾くん。私も気づかなかった。あなたがそんな風に私を思っていたなんて……」菫はやっと幸せそうな顔をして健吾を見た。

「菫……」健吾は菫の肩に手を置いた。

「健吾……くん……」

 二人は同時に目を閉じ、そっと唇同士を重ね合った。

 菫は健吾の唇が離れるのと同時に周囲をきょろきょろと見回した。「やだ! だ、誰も見てなかったよね? 今の」

「いいじゃん。誰かが見てても」

「恥ずかしいよ。だって……」

「じゃあさ、もう一回うちに上がってよ」

「え?」

「おまえ、紅茶、好きだろ?」

 電柱の影から豪毅と幹太がマンションの中に消えていく菫と健吾の姿を見ていた。

「やったね!」幹太が言った。

「おまえ、鼻血出さなかったか?」豪毅が訊いた。

「何とかね。でもうらやましいね。豪毅もやるのか? マユ姉と、いつか」

「あいつがさせてくれればな」

「成功したら教えてくれよ」

「やだね。教えてやんねーよ」

 

 海棠家のリビングのソファに菫は座った。健吾はピアノに向かった。そして『ジュ・トゥ・ヴ』を弾き始めた。菫は目を閉じ、これ以上ないぐらい幸せな気分でその軽やかなシャンソンに耳を傾けた。

 弾き終わった健吾は菫に身体を向け直した。「この曲と『水の戯れ』とどっちが好き?」

「どっちも好き。健吾くんは?」

「俺も。でもさ、この曲をおまえに聴かせたのって、実は無意識に自分の気持ちを伝えようとしてたのかもしれないな、今思えば」

「私、あの時、すっごくどきどきしたんだよ。日本語訳の『おまえが欲しい』ってタイトル聞いた時」

「この曲には歌詞がついててね、すっごく情熱的で露骨なんだ」

「露骨?」

「そう『どうか俺の心がおまえの心に/おまえの唇が俺の唇となってくれ/おまえの身体が俺の身体に/俺の肉体のぜんぶが/おまえの肉体となってくれ!』なんてさ」

 菫は落ち着かないように身体をもぞもぞさせた「あ、あのさ、健吾くん」

「なに?」健吾はピアノから離れ、菫の横に座った。

「男のコってさ、女の子とつきあい始めたら、あ、あの、セ、セ……したい、って思うものなんでしょ?」

「え? そ、それは……」健吾は言葉に詰まった。

「女の子だって、男のコに抱かれたい、って思う……らしい」

「らしい?」

「うん」

「そりゃ、男はある意味雄の本能っていうか、衝動的になるっていうところがあって、雰囲気が盛り上がったら、きっと最後までいきたくなるとは……思うけど」

「そうだよね」

「で、でも、女の子の誰もがそうだとは思ってないよ、俺」

「そうなの?」

「うん。だって、今ここで菫を押し倒して思いを遂げたとしても、おまえがそれを望んでなくて、ひどく傷ついたりしたら、つき合いそのものが壊れてしまうじゃん」

「そうだけど……」

「でも、わかんないか。ムラムラきたりしたら、何するかわからない動物だからね、男って。気をつけなよ、菫も」

「いや、健吾くん、あなたその本人だから」菫は困ったように笑った。

「こないださ、俺、それでマユに殴られた」

「ええっ? 殴られた?」

「マユが退院した日に、あいつのカラダにムラムラきちゃって、迫ったら、ステンレスのトレイで頭殴られて、キスされてビンタされた」

「な、なにそれ……」

「ごめん。だから、さっきのおまえとのキスはセカンドキス。ファーストキスはマユに捧げた」

 菫は笑った。「私、そんなこと気にしないよ」

「マユの水着姿に欲情してたのは事実なんだ。だから、ひょっとしたらマユとエッチできるのかも、って思ってた」

 菫は微笑みながら言った。「それは真唯のせいでもあるんじゃない? 彼女、お昼食べてる時に、あなたに『セ……したいって思わない』なんて聞いたこともあったし」

「そうだね。まんまとあいつのペースに振り回されてた、ってことかも」

「真唯はね、豪くんになら、迫られても許しちゃう、なんて言ってた」

「へえ。じゃあ、遠くない未来に二人は初体験を迎えるのかな」

「健吾くんも……そうしたいって思ってるんじゃないの?」

 健吾はふっと笑って言った。「マユのやつにひっぱたかれた時、俺、言われた」

「え? 何て?」

「そういうことをしたくてつき合うのはホントの恋愛じゃない。恋してつき合って、好きになってするもんだ、って」

「なんでそんなこと、真唯はあなたに言ったのかな」

「男ってどんな動物なのかをあいつは知ってるんだよ」

「男のあなたが教えられたんだね」

「俺、おまえとはホントの恋愛がしたいから、おまえが許さなければ最後までいかない。約束するよ」健吾は菫の手を握った。

「あ……」菫が小さく叫んだ。

 健吾は慌てて彼女の手を放した。「こ、これぐらいは、いいよな? 承諾なしでもさ」

 菫はこくんとうなずいた。