外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《幼なじみ四人組》

 

 いつものようにその四人は中庭の芝生の上に車座になって、弁当を食べていた。

 

「ところでケン兄さ、アタシとセックスしたいって思ったことなんかないの?」くりくりした目をいっそうくりくりさせて、その中の一人、ショートカットの女子が唐突に言った。

 残りの三人は一様に凍り付いた。

 彼女はもう一度口を開いた。「なんで、みんな黙る?」

「ちょ、ちょっと来い! 真唯(まゆい)っ!」彼女の真向かいにいた男子が慌てて立ち上がり、真っ赤な顔をしてその真唯と呼ばれた女子の襟首を掴んで、焦ったようにその場を離れた。

 

 真唯をすずかけ高等学校初代校長の胸像の裏に引きずり込んだ双子の兄健吾(けんご)は、始めにその妹の頭を平手でペち、とはたいたあと、声を潜めて、しかし怒ったように言った。「ばかっ! お、おまえ、いきなり何言ってるんだ!」そしてずり下がっていた眼鏡を右手の人差し指で押し上げた。

「アタシ、思ってること、素直に口に出しただけだよ。ケン兄、なんで怒る?」

 健吾は胸像の陰から残った二人の様子をチラ見して言った。

「豪も菫も、まだ固まってるじゃないか。おまえなんでいきなりあんなこと言い出すかな」

「いやなに、そろそろケン兄もそっちの方に興味が出てきた頃かなって思ったんだよ。アタシ」

 健吾の瞳が眼鏡の奥で落ち着かないように揺れ動いた。「と、とにかく、この話は家に帰ってからゆっくりしよう。な、真唯」

 

 この双子の兄妹海棠健吾(かいどうけんご)と海棠真唯(かいどうまゆい)は現在高校二年生だ。保育園の頃からの仲良し四人組の残りの二人は、町でも名高い料亭の一人息子高円寺豪毅(こうえんじごうき)と、ごく普通の一般家庭育ちの狩野 菫(かのうすみれ)だった。

 しかし、いくら幼なじみと言っても、高校生になってまでこうやって仲睦まじく弁当を食べているという光景は、端から見れば少し異様に見えなくもない。それには訳があるのだった。

 

 四人ともこの高校に入学したのは偶然だったが、その入学式が終わった後、豪毅は三人に向かって宣言した。「俺の作る弁当をモニターしろ」

「へ?」真唯がまず変顔をした。

「何だって?」健吾は眉間に皺を寄せ、訊き返した。

「豪くんのお弁当を私たちが食べて、意見を聞かせろ、っていうわけ?」

「ぴんぽん」豪毅が右手の人差し指を立ててにっと笑った。菫の推測が当たったからだ。

「その代わり、毎日俺に百円払え。材料代として。まとめ払いも可だが、一週間以上の付け払いは受付けねえぞ」

「百円は安すぎだ。そんなんでおまえ、元とれるのか?」健吾が訊いた。

「心配すんな。うちの料亭は繁盛してっから金に困ることはねえ。で、どうなんだ? この話に乗るのか? 乗らねえのか? はっきりしろ」

 

 というわけで、結局三人は豪毅の計画に乗るしか選択肢はなかったと言ってよい。

 

 その日の放課後、菫と豪毅は生徒用玄関で話していた。

「どうしたんでい、菫。浮かねえ顔して」豪毅が靴箱に背もたれをして言った。

「今日のお昼の真唯の発言、どう思った? 豪くん」

「ああ、あれな。はっきり言ってびっくりしたぞ、俺」

「だよね。私もそう」

「真唯の真意は測りかねるが……」

 菫はうつむいたままで言った。「真唯って、健吾くんに気があるのかな……」

 豪毅が答えるのに少し時間があった。「そんなわけは、ねえだろ」

「そうかな……」

「菫、おまえが健吾のことを好きだってコトは俺、知ってる」

「え?」菫は顔を上げた。「知ってるの?」

「え? 本当に好きなのか? おまえ」

「な、何なの? 今のフェイント?」

 少し気まずそうに豪毅が続けた。

「い、いや、たぶんそうだろうと、思ってた。でもよ、」豪毅は菫の肩に手を置いた。「心配いらねえって。だいいちあいつら兄妹なんだから、男女交際の対象にはならねえだろ。普通」

「でも、いきなり真唯、健吾くんにあんなこと……」

「いつもの軽いノリで言ったに決まってるって」

「そうかな……」

 菫はまたうつむいた。

「そうに決まってら」豪毅が独り言のように言った。

 

 その夜、健吾は真唯の部屋を訪ねた。

「おまえな、あんなこと豪や菫の前でいきなり言い出すなんて、どうかしてるぞ」

「アタシ、かねがね思ってたんだ。で、どうなの? ケン兄、アタシを見てクラクラしない?」真唯はセクシーポーズをとって見せた。

「ううむ……」健吾は唸った。

「おっと、唸ってるし……。年頃の高校生だからやっぱり女体に興味があるんでしょ?」

「女体には人並みに興味はある。だが、おまえの身体見てもクラクラはしない。悪いけど」

「なんで?」

「そもそも、おまえのその話し方、っつーか性格だよ」

「性格?」

「いつも髪は寝起きのままのばさばさ、相手が誰だろうと構わずがさつな言葉遣い、授業中はよだれ垂らしてはばかりなく寝くたれてるし、靴下は臭いし……」

「何だよ、そんなこと、普通の女子高生といっしょじゃん」

「違うね」

「違うんだ」

「おまえには女性の魅力を感じない。それは豪も同じだと思うぞ」健吾は眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭きながら言った。

「アタシに女らしくしろ、ってさ、犬にニャーと鳴けって言ってるようなもんだよ、ケン兄」

「年頃で、それなりに可愛いのに……」

 健吾は大きくため息をついて、哀しそうな目でその双子の妹を見つめた。目の前の彼女はそんな兄の気持ちを知ってか知らずか、くりくりした目をいっそうくりくりさせて微笑んでいた。

 

 

 週に一度、料亭『高円寺』では、跡取りの息子豪毅が、その時親父の豪哉から出される課題に基づいて作る料理を親父本人が評価する、という日が設けられていた。

 今日のお題は茶碗蒸しだった。

 豪毅は座卓をはさんで向かい側に座っている親父が、自分の作ったその碗に手を伸ばすのを固唾を呑んで見守っていた。

 親父は器を手に取り、蓋を開けた。つややかでなめらかな表面から少しだけ銀杏と百合根が覗いている。それをいぶかしげにのぞき込んだ後、彼は木製のスプーンを手に取ってその表面をすくった。

 豪毅はごくりと唾を飲み込んだ。

 親父はそれを口に入れたとたん、目を剥いて持っていたスプーンを放り投げ、立ち上がった。そして座卓を回り込んで豪毅の元へやってくると、いきなり彼を足蹴にした。「ばかやろう!」

 豪毅は派手に畳にひっくり返った。しかし、すぐにむくっと起き上がった。「な、何しやがんでいっ!」

 親父は豪毅の襟首をひっ掴んで立たせ、彼の顔にその脂ぎった顔を至近距離まで近づけて叫んだ!

「おめえにはまだ包丁を持たせるわけにはいかねえ!」

「な、何でだよ!」豪毅も負けずに親父を睨み付けた。

「てめえの指、よく見てみろっ!」親父は襟を掴んでいた手を離した。

「え? 指?」豪毅は自分の両手の指に見入った。

「てめえ、自分の爪、料理に仕込ませやがったな!」

 よく見ると、左手の中指の爪がほんの少し削られていた。茶碗蒸しの材料を切る時に知らずに包丁で削り取ってしまったのだろう。

「こんなもの、お客様に出せるか!」親父は再び豪毅の襟を掴んで往復ビンタを食らわせた。びびびびびびっ!

「あ、味とか見かけとかはどうなんだよ!」

「それ以前の問題だ!」

「それじゃ参考にならねえだろっ!」

「てめえ、何年包丁握ってやがるっ! 料理は遊びじゃねえんだ、そんな甘い考えで板前ができるかっ!」

 びびびびびびびっ! 親父はもう一度豪毅にビンタを食らわせた。

「痛えじゃねえか! いっぺん言やわかるってんだ! 俺、ガキじゃねえんだからな!」

「てめえはガキ以下だ!」

 料亭『高円寺』では、毎週毎週、こうして豪毅と親父の格闘が繰り広げられているのだった。

 

 

 海棠家のリビングには、心洗われるピアノの音色が広がっていた。

 その最後の音が静かに窓から差し込む明るい光の中に吸い込まれると、ソファに座って目を閉じて聴いていた祖父のケンジがため息をついた。

「いつもながら癒されるよ、健吾」

「ほんとだねえ、孫に音楽で癒されるなんて、思ってもいなかったよ」ケンジに寄り添って座っている祖母のミカもうっとりしたように言った。

 健吾は少し赤くなって頭を掻きながら振り向いた。「ほんとに?」

「ああ。私は音楽に縁があったとは言えない人生を送ってきたが、おまえのピアノの音色を聴いていると、本当に豊かな気持ちになるよ」

「っつってもまたじいちゃんもばあちゃんも60代だろ? 見かけはそれよりずっと若いけど。じいちゃん、ばあちゃんって呼ぶのも、まだ違和感がある感じだ……」

 その時、ドアを開けてケンジたちの息子、つまり健吾の父親、龍がリビングに入ってきた。「健吾、調子よさそうだな。今日は」

「あ、父さん」

「ゴールドベルク変奏曲。主題のアリアをもう一回弾いてみてくれ」

「わかった」

 健吾は再びピアノに向かい、その大バッハが作った長大な作品の最後の部分を弾き始めた。

 健吾の指が鍵盤から離れると、龍は静かに口を開いた。「グレン・グールドの1981年再録音版にかなり近い弾き方だな」

「父さん、相変わらず詳しいね。音楽やってたわけじゃないんだろ?」

「そんなことは常識だ。ジャーナリストとしてそれくらい知っておかなきゃ恥ずかしいだろ」

 健吾、真唯兄妹の父、龍は地元の新聞社の編集に携わっていた。龍夫婦の部屋の半分はさまざまな書籍、映像や音楽のディスクで埋め尽くされていることを健吾も知っていた。

「で、おまえ、何度も聞くようだが、ピアノで身を立てようとは思ってないのか?」

「何度も言うようだけどさ、父さん、俺、ピアノはあくまで趣味にとどめておきたいんだ。収入に繋がるとは考えられないし」

「だが、おまえぐらいの腕前なら、ピアニストとしてもやっていけるんじゃないのかい?」ケンジがコーヒーを飲みながら言った。

「無理無理。世の中そんなに甘くないよ、じいちゃん。俺は音楽は趣味に徹することにしてる。その方がずっと音楽を愛せるからね。ただ、」

「ん? どうした?」ミカが訊いた。

「じいちゃんとばあちゃんにこんな立派なピアノを買ってもらって、それじゃいけないのかもしれないけど……」健吾は今まで弾いていたグランドピアノの蓋を静かに閉めて、大切そうに手のひらで撫でた。

「なに、俺たちもおまえを将来音楽家にするつもりでそれを買ってやったわけじゃない」

「そうだよ。おまえが音楽が大好きで、ピアノを弾きたいって言ってたから買ってやったんだから、気にしないの」

「ありがとう、二人とも。俺、いつでもこのピアノ、弾いて聴かせてあげるから」健吾は微笑んだ。

「それで十分さ、健吾」ケンジは穏やかに言って、またコーヒーのカップを口に運んだ。

 

 この町唯一のスイミングスクール『海棠スイミングスクール』は、『海棠スイミング・ドーム』、通称『KAIドーム』という大きな円柱形の建物の中にある専用プールを使って開講されていた。

 海棠ケンジが28歳の時、妻のミカと共に既設のスイミングスクールの経営を譲り受けた。ケンジもミカも高校、大学と優秀なスイマーであっただけでなく、その独自の指導法で多くの生徒を集め、全国レベルの大会で入賞するほどの実力を持った選手を次々と輩出したことでスクールは大いにはやり、ケンジは38歳の時に街の一画に『海棠スイミング・アミューズメント・ワールド』を建設した。

 その広大な敷地には、『KAIドーム』を始め、ショップや大浴場、レストランの入った三階建ての『海棠アミューズメント・プラザ』、そしてその裏手にそびえ立つこの街で最も高い14階建ての『シティホテルKAIDO』。夏場にオープンする、まるで南国リゾートのような風情のレジャープールもその広い敷地内に展開されていた。

 

 ケンジ夫婦の孫である真唯は物心つく前からそのスイミングスクールに通い、祖父母に手厚い指導を受けていた。お陰で真唯は中学の頃も、去年も今年も、100m及び200m平泳ぎで県大会では優勝し、ブロック大会でも入賞するという優れたスイマーになっていた。

 プールから上がった真唯は、ジムの入り口に菫が立っているのに気づいた。

「あれ、スミ、どうしたの?」真唯はキャップを脱いだ髪をタオルで拭きながら彼女に近づいた。

「真唯、この後時間ある?」

「あるよ、いっぱい。どうやって暇つぶそうかと考えながら泳いでた」

「そう。じゃあいっしょに『シンチョコ』に行こ」

「いいよ。すぐ着替えるからロビーで待ってて」

「うん、待ってる」

 

「お待たせっ」ロビーの赤いベンチで文庫本を読んでいた菫は、その愛らしい声に振り向いた。ジャージ姿の真唯が立っていた。「行こ」彼女はにっこりと笑った。菫は本にピアノの形の栞を挟んで立ち上がった。

「ずっと待ってたの?」真唯が訊いた。

「ううん。さっき来たばっかり」

「そっか」

 二人は『KAIドーム』のエントランスを出た。

 通りから細い路地を通り抜けるとお洒落な小物を売る店やペットショップ、ドラッグストアなどが並んだ賑やかなエリアに入る。その中に目立って大きなロッジ風の三角屋根の建物がある。駐車場にはその店のシンボルとも言えるプラタナスの木が10本ほど植えられていた。これが町でも名高いチョコレート専門店『Simpson's Chocolate House』だ。巷では『シンチョコ』と呼ばれ親しまれている、今年で創業45周年を迎えるスイーツの老舗だ。

 

 『シンチョコ』の現在のメインシェフはケネス・シンプソン(63)。彼と妻のマユミ(62)との間に双子の兄妹健太郎(42)と真雪(42)。健太郎はこの店のもう一人の腕利きのショコラティエ。一方真雪は動物に関する豊富な知識を活かしてペットショップや畜産関係の仕事を精力的にこなしている。彼女は25の時、いとこの海棠 龍と結婚し、生まれたのがこれも双子の兄妹健吾と真唯なのだった。

 

「おっちゃん! お邪魔するよ」

「おお、真唯じゃないか」健太郎が店の白いユニフォーム姿でガラス張りのアトリエから顔を出した。「友だちといっしょか?」

「おじゃまします。おじさま」

「なんだ、菫ちゃんだったか。ゆっくりしていきな」

「ありがとうございます」

 真唯と菫は店の喫茶スペースのテーブルに向かって座った。

 奥からシンプルで洒落たピンク色のシャツにダークブラウンのスカート姿の女性が姿を現した。「いらっしゃい、二人とも」

「あ、春菜おばちゃん」

 その春菜と呼ばれた女性は健太郎の妻(43)である。若い頃ピンクのメイド服姿で、ここのホールの接客をしていたという経験を持つ。

「何飲む?」春菜は眼鏡の奥の目を細めて二人を見た。

「アイスココアでいいよね、スミ」

「うん」

「じゃあ少し待ってて、すぐに持って来てあげる」

「ありがとうございます」菫はぺこりと頭を下げた。

 

「あのさ、」菫が切り出した。

 咥えていたストローを口から離すことなく真唯はそのつぶらな瞳を菫に向けた。「ん?」

「あなたこないだ健吾くんに、そ、その、セ……したくないか、って訊いてたけど、」

 真唯は口をストローから離した。反動で跳ねたストローの先から雫が飛んで菫の目の前に落ちた。「ああ、あれね」

「ほんとのところは、どういう意味だったの?」

「別に深い意味はないけど……」

「そう……なんだ」

「でもね、」真唯が身を乗り出して、少し声を落としてしゃべり始めた。「アタシ、ケン兄のハダカに萌え始めたのは事実」

「ええっ?!」

「今までさ、あんまり意識してなかったんだけど、ケン兄の身体って、素敵だと思わない? スミ」

 菫は赤くなった。「す、素敵って……。私、彼の身体をそんな目で見たことないから……」

「こないだね、ネットで動画見てたらさ、いきなりエッチな動画にたどり着いちゃって」

「な、なにそれ?! あなたそんなことしてるの?」

「単なる興味だよ、興味。それでね、その男優さんがケン兄そっくりだったわけよ。顔も、身体も。おまけに声も。髪型まで。眼鏡も掛けてたし」

「そ……」菫はますます赤くなって言葉をなくした。

「もうアタシ、ケン兄がバイトでビデオに出演してんのか、って思ったぐらい」

「そんなばかな」

「アタシさ、それをずっと見てたら、何だか身体がむず痒くなってきちゃって、変な気持ちになってたんだ」

「ずっと見てたんだ……」

「スミは経験ない? そういう」

「な、ないない」菫は顔の前で右手を左右に激しく振った。

「それから、ケン兄のことが、どーも気になっちゃって」

「そ、それで、セ……したくないか、って誘ったわけね」

「うん。あの女優さんみたいに、ケン兄に抱かれたらすっごく気持ち良くなれるんじゃないかと思ったわけよ」

「いや、健吾くんとは違う人だから。それにあんなビデオはヤラセで演技だし」

 真唯は照れた様にピンク色の舌を出して言った。

「アタシ、ケン兄にあの晩怒られた」

「怒られた?」

「っつーか、おまえにゃ女性の魅力を感じない、ってまで言われちゃったよ。あっはっは」

「ま、それが普通だわね」菫はほっとため息をついて、目の前のアイスココアのグラスに手を掛けた。

「ずっと気にしてたんだ、スミ。あんたケン兄のことが好きなんだもんね」

「ええっ?!」

「だって、そうなんでしょ?」真唯はまたストローを咥えた。

「な、な、なんでそんなこと知ってるのよ」

「豪ちゃんが教えてくれた」

「(あ、あのやろー……)」