外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《菫の気持ち》

 

「健吾」母親の真雪が部屋をノックした。ベッドに転がって読んでいた雑誌を慌てて布団の中につっこんだ健吾は焦ったように返事をした。「な、なに? 母さん」

 ドアが開いてエプロン姿の真雪が顔を出した。「今日は真唯、夜のクラスだから、あなた迎えにいってくれない? スイミングに」

「え? な、なんで俺が?」

「今、夕食の支度で手が放せないんだよ。もう外は暗いから危ないでしょ。妹の身に何かあったらどうするんだよ」

「しょうがないな……。わかったよ。母さん。すぐ行くよ」

「助かる」真雪はそう言ってドアを閉めた。

 健吾は布団からさっきの雑誌を引っ張り出して、ベッドの下の狭い隙間に慎重に隠した。そうして薄い黄色のパーカーを羽織ると部屋を出た。

 

 『KAIドーム』の観覧席への階段を気乗りしない足取りでのろのろと上がっていった健吾は、プールを見下ろす位置まで来ると、プラスチック製の硬い椅子に腰を下ろし、膝にほおづえをついた。何人かの生徒が泳いでいた。その中でも最も目を引く赤を基調にした水着を身につけているのが真唯だった。見事に無駄のないフォームで、平泳ぎながら水の中を豪快に進んでいく。「泳いでる時はあいつもなかなかかっこいいんだが……」健吾は独り言を呟いた。

 プールから上がった真唯はプールサイドを歩きながらゴーグルを外し、キャップを脱いだ。濡れたショートヘアがそのうなじに貼り付いている。さっきまで見ていた雑誌の中の写真とよく似た構図、写真のモデルによく似た水着姿だった。その真唯の姿を見つめていた健吾は、身体の中の一部分が熱を持ち始めたのに気づいた。

 

「ケン兄、あたしの水着姿覗きにきてくれたんだね」ジャージ姿の真唯がまたポーズをとってはしゃぎながら言った。

「だれが覗くかっ! 母さんに言われてしかたなく迎えに来てやっただけだ」

「あたしとセックスしたくなったでしょ?」

「あほかっ!」

「今夜あたり、どう?」

「かっ、帰るぞっ!」健吾は真唯から目をそらして真っ赤になったまま言った。

 

 ――その夜、健吾はとんでもない夢をみてしまった。

 リビングでピアノを弾いていると、後ろから真唯の声がした。「ケン兄、」

 健吾は振り向いた。真唯は真っ赤な下着姿だった。

「な、なんて格好してるんだ! マユっ!」健吾は慌てて言った。

「続けて、ケン兄、あたし、その曲最後まで聴きたい」

 健吾はどきどきしながら、弾いていた曲を続けた。真唯はピアノの横のソファに横になり、目を閉じていた。

 ピアノを弾き終わった健吾に真唯は言った。「ケン兄、来て……」

 赤面したまま健吾はソファに近づき、真唯の前にひざまづいた。

「マ、マユ……」

 真唯は健吾のシャツのボタンを外し始めた。健吾は動くこともできず、じっとしていた。

 いつしか二人は着ていた服を脱ぎ去り、ソファの上で抱き合っていた。そして口を交差させながら激しくお互いの唇を求め合っていた。

 そしてついに、二人は繋がり合った。健吾の身体中が熱を持ち、同じように汗だくになって波打つ二人の身体はしだいにその動きを加速させた。

「ううっ!」健吾は呻き、真唯の中に身体の中の熱く沸騰したものを激しく、何度も放ってしまった。

 

「わああああっ!」健吾は飛び起きた。汗だくになっていた。下着の中に、果たして大量の液を放出させていた。「やばいやばいやばいっ!」健吾は慌ててティッシュの箱に手を伸ばした。

 

 

 学校。昼休み。

 豪毅は、他の三人の反応をじっと窺った。

「だし巻き卵はもはやプロ並みだ、と俺は思う」健吾が言った。

「炊き込みご飯もこの前のに比べると味が上品になったよね」菫もそう言って微笑んだ。

 豪毅は真唯を見た。

「んー……」真唯は少し眉間にしわを寄せて唸っていた。

「どうした? マユ」健吾が訊いた。

「このご飯、タケノコもにんじんもきれいに切りそろえられてるし、味もそれなりなんだけどさ、」

「ど、どうなんだ?」豪毅がたまらず訊き返した。

「炊きたてなら、もっと旨かっただろうな、って思ったわけさ」

「そりゃ弁当だからしかたないよな」健吾が言った。

 豪毅は表情をこわばらせて黙っていた。

「それじゃ駄目なんじゃ?」真唯が追い打ちをかけるように言った。「最初から弁当だってわかってるのに、冷めて味が落ちるようなモノを詰めちゃだめでしょ」

「あ、相変わらず辛口だね、真唯の評価」菫が豪毅をちらちら見ながら、ちょっと気の毒そうに言った。「で、でも普通のお弁当なんかに比べたらずっとおいしいと思うよ、私」

「いや、真唯の言うとおりだ……」豪毅がぽつりと言った。「俺、親父の教えを忘れかけてた」

「親父の教え?」

「そう。料理は食べる人が食べる時に最高の味になるようにしなきゃならねえ、って小学校の時に言われたんだ」

「小学校の時?」

「できたてを提供するなら、出されてすぐ、一時間後に口に入れられるものは、その時に最高の味になるようにするのが本当の料理人だ、って言われた。真唯に言われて記憶が蘇った」

「な、なるほど、そういうもんなのか……」健吾は感心したように言った。

「真唯、ありがとうな」豪毅は真唯を少し潤んだ目で見つめた。真唯は豪毅の目をまっすぐに見て、くりくりした目をいっそう大きくして微笑んだ。「豪ちゃん、ファイトっ!」

 

 その日の放課後。

「菫、ちょっといいか」豪毅が菫を呼び出した。

「どうしたの? 豪くん」菫は帰り支度の済んだ鞄を手に立ち上がった。

 

 豪毅は自転車を押しながら、歩きの菫と二人で正門を出た。

「俺さ、今、どうしようかって迷ってる」

「迷ってる?」

「そうだ。あ、あの、あのな、」豪毅がもじもじし始めた。

「なに? いつになくナーバスになってるみたいだけど」

「お、俺、惚れたヤツが、その、いてよ」

「ふうん。で、告白するのに悩んでるってわけ?」

「ま、まあ、言ってみりゃそういうことなんだが……」

「私にどうしろと?」

 豪毅は立ち止まった。「菫、おまえ、何だか今日は冷てえな」

 菫は小さなため息をついた。「豪くん、真唯に私が健吾くんのことを好きだってこと、バラしたでしょ」

「え? 駄目だったのか?」

「当たり前でしょ。そんなこと、軽々しく口にしないでほしい」

「わ、悪かった。ずっと四人でいっしょにいたから、別にいいかな、って……」

「いくら幼なじみでも、そういうデリケートなことは慎重にしてほしいよ」

「ごめん。う、うかつだった。菫、許してくれ」豪毅は眉尻を下げ、うなだれた。

 菫はふっと笑って言った。「いいよ。そんなに落ち込まないで、豪くん。本当のことだからね。それに真唯もこのこと知っててくれた方が、この先いろいろと都合のいいことがあるかもしれないしね」

「本当にごめんな、菫」

 豪毅はくしゃくしゃになったハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して額の汗を拭った。

「で、豪くんが告白したい人って、誰なの?」

「え? あ、あの、あのあのあの……」

「目、泳いでるよ」

「ま、ま、ま……」

「真唯かー。私もそうじゃないかって思ってた。何かあったの? つきあい長いのに何だか急な話だね」

「な、なんでわかった?」

「顔に出てる。幼なじみだからわかるんだ」菫は笑った。「それに豪くんの反応の真意、手に取るようにわかるし」

 豪毅はばつが悪そうに微笑んだ。

「あ、あいつが俺の料理を素直に旨いって言ってくれねえところに惚れた」

「え? なに、その理由」

「俺を成長させる女のような気がする」

「もっと意味がわからない」

「みんな俺が作る料理をとりあえず『おいしい』って言ってくれっけど、それじゃあ俺のためにならねえんだ」

「あのね、豪くん、私思うんだけど、その要素と恋愛感情って別物だよ、きっと」

「え? そう……なのか」

「たとえば私があなたの料理に辛口の注文付けたら、あなた私を好きになったりした?」

「おまえは、友だちだ。それ以上にはならねえ……気がする」

「そうでしょ? 恋心なんて、理由があるわけじゃないよ。真唯の持っているつかみ所の無い何かに惹かれてるんだと思うよ」

「ううむ……」

「告白するのに、無理に理由をつける必要はないよ。彼女だってそんなこと望んでない。もちろん返事がどうなるかはわからないけどね」

「そ、そうだよな」

 

 二人は少しの間無言で歩いた。

「あ、おまえ良かったのか? いつものバス停、もう過ぎちまったけど」豪毅がしまった、という顔をして言った。

「いいよ。豪くん、まだ話し足りないことがありそうだもの」

「悪いな、菫」

「気にしないで」

 菫は微笑みながら歩いた。

 信号待ちで立ち止まっている時、豪毅が言った。「そういえばおまえ、今日健吾んちに行くって言ってなかったか?」

 菫は少し恥じらったように言った。「うん。彼のピアノを聴きに。豪くんも来れば?」

「いや、俺がいちゃ邪魔だろ」

「なんでよ。私たちまだ付き合ってるわけじゃないし、そんなに気を遣われると、今までみたいに仲良しでいられなくなるような気がして寂しいじゃない」

「っつーか、俺、明日の弁当の材料調達しなきゃなんねえし……」

「そうか。真唯を満足させなきゃなんないもんね」菫は微笑んだ。

 信号が青に変わった。二人は横断歩道を渡り始めた。

「今度は何に挑戦するの? 豪くん」

「中華じゃねえ餃子」

「え?」

「言ってみりゃ和風の餃子みてえなもんかな。でも餃子じゃねえ」

「ふうん。よくわからないけど、私も食べてみたい」

「完成したらもちろん弁当に入れて持ってくっから、おまえも味わってくれよ」

「楽しみね」

 二人は道路を渡り終わって、また立ち止まった。

「私、ここからバスに乗るよ」

「そうか」 

「じゃ、また明日」

「ごめんな、つき合わせちまってよ」

 菫が微笑みながら手を振った後、交差点のすぐそばの「楓三丁目」バス停の前に立ったのを確認して、豪毅は自転車に跨がり走り去った

 

 

 海棠家のマンションは、二つの階が繋がった三世帯用の広々とした間取りだった。玄関を入った一階部分には、いきなり広いリビング。そしてそれはダイニング、キッチンと一続きになっていた。南向きの壁の大部分は床から天井までの広い掃き出し窓。その外には三メートル幅のテラス。その端に作り付けの半円形のバーベキュー窯。木製のテーブルやベンチも置かれている。

 西陽がレースのカーテン越しに差していた。その広いリビングはまるで金粉をまき散らしたようにあたり一面が黄金色に輝いていた。

「菫が聴きたい曲はなんだ?」健吾がリビングの真ん中に堂々と据えられたピアノの蓋を開けながら訊いた。

「健吾くん、こないだやっとマスターした曲がある、って言ってたじゃない。それ聴かせて」

「『ジュ・トゥ・ヴ』だな。俺もこれ、弾こうって思ってた」健吾は楽譜を広げた。

「変わった題名。それってフランス語?」

「さすがだな菫。そう。日本語では『おまえが欲しい』って訳されてる」

 菫はどきりとした。

「そ、その曲をあなたが弾きたいって思ったのは、どうして?」

「んー……、別にこれと言って理由はないんだけど、元々ラヴェルとかフォーレとかのフランスものの音楽は好きだし」

「あたしも好きだよ。ラヴェルの『水の戯れ』なんか、聴いてると泣きたくなる」

「え? あれは泣ける曲じゃないだろ」

「健吾くん、弾ける?」

「一応はね」

「やった! じゃあ、その『おまえが欲しい』と『水の戯れ』、二曲聴かせてよ」

「いいよ」

 健吾は椅子に座り直して、ピアノに向かった。そして軽やかにその指が鍵盤の上を踊り始めた。

 菫は今までに何度もこうして健吾のピアノを間近で聴いたことがあったが、この時程、聴いていて心が落ち着かないことはなかった。さっき彼の口から出た『おまえが欲しい』という言葉にひどく動揺していたからに違いなかった。菫は、収まりきれない自分の鼓動と、その軽快なシャンソンの調べに目を閉じて耳を傾けた。

 最後の音が部屋の中の空気を震わせながら消えた。

 健吾の指が鍵盤から離れた。

「素敵!」菫は派手に手を叩いた。「いい曲だね。パリの香りがぷんぷんする! 行ったことないけど」

「なかなかだろ?」そして続けた。「菫に一番に聴いてもらいたかったんだ」

 菫の胸がどくん、と大きく脈打った。

 しばらくして彼女はためらったように小さな声で言った。「け、健吾くんはさ、どうして私にピアノを弾いて聴かせてくれるの?」

「え? だって、友だちじゃん。昔からの」

「友だちなら、他にもいるじゃない」

「菫はイヤなのか? 俺にこうしてピアノ聴かされるの」

 菫は慌てて言った。「と、とんでもない! イヤじゃないよ。好き、私健吾くんが好き」

「えっ?!」

「え? あ、い、いや、健吾くんのピアノ、聴くのが好きってこと……」菫は真っ赤になって叫んだ。

「菫?」

「ね、ねえ、約束のもう一曲、弾いてよ。『水の戯れ』」

「あ、ああ」

 健吾は再び鍵盤に向かった。

 

 

 『ジュ・トゥ・ヴー』(仏:Je te veux)は、エリック・サティが1900年に作曲したシャンソン。歌詞はアンリ・パコーリによる。元々は歌曲集『ワルツと喫茶店の音楽』のうちの1曲とされているが、現在ではサティ自身によるピアノ独奏版でよく知られている。題名は日本語では「お前が欲しい」「あなたが大好き」など様々に訳されるが、原題のまま「ジュ・トゥ・ヴー」と呼ばれることも多い。“スロー・ワルツの女王”と呼ばれた人気シャンソン歌手ポーレット・ダルティのために書かれた。

(wikipedia「ジュ・トゥ・ヴー」より抜粋)

 『水の戯れ』(みずのたわむれ、仏: Jeux d'eau)は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲。当時の作曲の師であるガブリエル・フォーレに献呈された。初演は1902年4月5日、サル・プレイエルで行われた国民音楽協会主催のリカルド・ビニェスのピアノ・リサイタルにおいて、『亡き王女のためのパヴァーヌ』とともに初演された。

 楽譜の冒頭に、「水にくすぐられて笑う河神」というアンリ・ド・レニエの詩の一節を題辞として掲げている。曲の構成はソナタ形式。また、七の和音、九の和音、並行和声が多用されており、初演当時としてはきわめて斬新な響きのする作品だったと思われる。

(wikipedia「水の戯れ」より抜粋)


 その夜。

「今日もマユは夜のクラス?」健吾が台所に立った母親に訊いた。

「そうだよ。でも今日はいいよ。洗剤がきれそうだから後でホームセンターに行くついでにあたしが迎えに行くから」

「お、俺が行くよ。洗剤も買ってきてやるからさ」健吾が少し赤くなって言った。

 真雪は野菜を切る手を止めて、健吾に身体を向けた。

「なに? どうしたの? いつもは思いっきりイヤな顔するくせに。どういう風の吹き回し?」

「いいだろ。お、俺も大人になったってことだよ。家のこともちゃんと手伝わないとね」

「下心なし?」

「な、ないよ、そんなもの」

「あるんだ」

「どっ、どうしてそんな」健吾は、ずり落ちかけた眼鏡を慌てて掛け直した。

「あなたの父さんも、じいちゃんも、隠し事ができない人なんだよ。すぐに顔に出ちゃう」真雪は笑った。

「ま、それがあなたたちの良さでもあるんだけどね」真雪は再びまな板に向かった。「七時までのクラスだから。洗剤はこれと同じ」真雪は健吾に背を向けたまま、傍らにある食器用洗剤を指さした。

「わ、わかった」

 

 健吾は『KAIドーム』のプールを取り囲む観覧席にいた。この前に見たのと同じ水着を真唯は身につけていた。プールから上がった妹の身体を見た健吾は、この前よりももっと温度の高いものが体の中でくすぶるのを感じていた。

 

 料亭『高円寺』。

「なんだ、これは」『料亭 高円寺』の主人は、息子が作った料理の皿を無表情で見下ろしたまま言った。今日は月に一度の自由題の日だった。つまり、自分で考えた料理を親父に評価してもらうという、いつもよりもハードルの高い特別な日だった。

「わ、和風餃子だけど……」

「てめえのそのネーミングからして気に食わねえ!」親父は大声を出した。

「な、何でだよ!」

「『餃子』は中華。それに『和風』ってわざわざつけるところが言い訳じみてるってんだよ」

「言ってることがわかんねえんだけど」

「失敗して醤油臭さが強く出すぎた餃子を『和風』っつってごまかしたりできるじゃねえか。そんぐれえもわかんねえのか、おめえはよ!」

「じゃあどうすりゃいいんだよっ!」

「結局何が言いたいんだ? あん? この餃子に似ていなくもねえ食いモンはよ」

「何がってなんだよ」

「おめえのこの料理に込めた主張はなんだ、っつってんだよ」

「主張?」

「何度も言ってんだろ! テーマだ、テーマ。召し上がって頂くお客様に、いったい何を味わってほしいのか、ってとこだ」

「食ってみろよ」豪毅はぶすっとした顔で言った。

「もし、何の主張もねえ料理だったら、金輪際おめえに厨房使わせねえからな、覚悟はできてんのか?」

「いいから食えっつってんだよっ!」豪毅はムキになって言った。

 親父は箸をとって、その小振りの餃子を口に入れた。噛み味わっている間中、親父は難しい顔を崩さなかった。そしてそれを飲み下した後、すぐに箸を投げ捨て、立ち上がって豪毅に向かってきた。豪毅はとっさに身構えた。

 いつものように豪毅の襟をつかんで引き立たせた親父は、いつものように脂ぎった顔を間近に迫らせ、息子にすごんだ。

「訊かせろ!」

「は?」

「味付けは何だ?」

「しょ、醤油だけだけど……」

 親父はゆっくりと息子から手を離した。

「え? そんだけ?」豪毅は心底驚いた表情で小さく言った。

 親父は腕組みをして天井を見上げながら静かに言った。「ニラの臭みが抑えられてて、なおかつ味がまろやかになってる」

「え?」豪毅はますますびっくりして親父を見上げた。

「来週もう一回こいつを作って、俺に食わせろ」

 それだけ言うと、親父は部屋を出て行った。

 親父が食べ残した自分の皿を見つめて、豪毅はため息をついた。そこへ母親のユウナがやってきた。「あ、母ちゃん」

「豪毅、どうだった?」

「な、殴られなかった……」

「え?」

「っつーか俺、生まれて初めて親父に褒められた」

「そう。どんな風に?」ユウナは微笑んだ。

「ニラ臭さが押さえられて味がまろやかだって」

「良かったじゃない。作った甲斐があったじゃないか」

 豪毅は顔を上げて母親を見た。「でもな、母ちゃん、親父よりもっと厳しいヤツがいるんだぜ」

「へえ。誰だい? それは」

「真唯だよ、真唯」

「え? マユお嬢?」

「そ。俺の弁当、無条件で褒めてくれたこと、まだ一度もねえんだ」

「へえ」

「俺さ、アイツが俺の作ったモンを食って『旨い』とだけ言うのが聞きたい」

「あんたが最近弁当作る時間を長くしたのはそのせい? 前より早く起きるようになってたのはどうしてだろうって思ってたよ」

「俺、燃えてるんだ。絶対あいつに『旨い』とだけ言わせてみせる」

「あんたマユお嬢に惚れてるんだね」

「えっ?!」

「顔に出てる。私にはわかるんだ。母親だからね」

「母ちゃん……」

「早く『旨い』って言わせな、お嬢にさ」

「うん。俺、がんばる」

 

「おまえさん今日初めて豪毅の料理を褒めてやったんだって?」

 親父は居間でユウナの淹れた茶をすすりながら静かに言った。

「言いたかなかったんだがよ。あんなこと」

「いっつもけなしてばかりだったからね。どうして今日はそんなこと言ったんだい?」

「あいつの料理は、すでに俺をある意味超えてる」

「へえ、もうそんなに?」

「餃子の皮まで自分で作ってやがるんだ。しかも粉もほんの少し薄力粉混ぜてある。しつこい食感を抑えるためにな」

「そんなことまで」

「中身も、鶏肉をたたいて粗挽きのまま旨味を残し、最小限の調味料しか使っていねえくせに、味が深いんだ。ニラやショウガを使っちゃいるが、あれはヤツが言うようにもう中華じゃねえ。見事に和食になってやがる。焦げ目も全てほぼ同じ面積、一つ一つの形も寸分違わねえ。しかも、」

「なに?」

「あの料理は、できたてを食わせるもんじゃねえ。冷めた状態が最も旨いはず」

「そうなんだねえ」ユウナはにっこりと笑った。

「ヤツのさっきの皿、ここに持ってこい」

「あいよ」ユウナは立ち上がった。

 しばらくして、ユウナは豪毅の作った『和風餃子』の皿を持って戻ってきた。

「厨房に置いてあったよ。いつもならさっさと捨てちまうのにね。あの子」ユウナは微笑みながらそれを座卓に置いた。

「おめえも食ってみろ」

 ユウナは黙ってその料理に箸をのばした。そして一つつまんで口に入れた。

「んん。旨いね。冷めてるのに、脂が舌につかない」

「だろ? やつの計算通り。ぱさつきを避けるためにムネ肉を使わず、もも肉を使ってる。しかもその脂を丁寧に落としてある。それにな、この中身の味付けは醤油だけだ」

「ホントに? まるで昆布だしみたいな風味があるよ」

「先月のに比べてもこいつは別格だ。何があったのか知らねえが……」

「冷めておいしくなる料理なんだねえ」ユウナは手ぬぐいで口を押さえた。

「おめえ、何か知ってるな? あいつがこんなモン作った訳ってのをよ」

「訊きたいかい?」

「訊かせろよ」

「マユお嬢に『旨い』って言わせたいんだってさ」ユウナは急須に湯を足した。

「え? マユお嬢に?」

「そうだよ。豪毅、お嬢に惚れてて、でも作る弁当をなかなか旨いって言ってくれないんだと。今のあの子の唯一の目標は彼女に一言『旨い』って言わせることなんだとさ」

「そうか」親父は残った茶を飲み干した。「そういう目標があったって訳なんだな」

「健気だよ。我が子ながらさ」

「ったく、色気づきやがって……」親父は黙って湯飲みを置いた。ユウナは急須からその湯飲みに茶を注いだ。