外伝集 Hot Chocolate Time 第3集 第8話「初体験をなめるなよ」

《女のコのキモチ》

 

 病院でのリハビリの日だった。真唯はリハビリ室でサイクルマシンをゆっくりとこいでいた。

「今日はこれだけか? 真唯」隣で豪毅が声を掛けた。

「この後プール。でも泳がないで歩くだけ」運動を続けながら真唯は言った。

「へえ」

「ごめんね、初めてのデートがこんなとこで」

「いいよ。おまえといっしょにいられれば、俺満足だかんな」

「お詫びにアタシの水着姿、たっぷり見せたげるね。なんなら触ってもいいよ」

「な、なに言ってやがるんだ。さ、さ、触るなんてよ」

「触りたいでしょ? アタシのカ・ラ・ダ」

「露骨だぞ、真唯っ!」豪毅は赤くなった。

 リハビリが終わり、病院を出た真唯と豪毅は、近くの喫茶店に入った。

「豪ちゃんは何が好きなの? コーヒー? 紅茶?」

「あんまり拘んねえけど、一番好きなのは緑茶だな」

「日本人だねえ」

「なんでもいけるよ。真唯に合わせてやっから」

「そう。じゃあ紅茶でいいかな?」

「いいぜ」豪毅は店員に合図をした。

 店員が白いポットから二人のカップにアールグレイを注いだ。ゴールデンリングがオフホワイトのカップの内側に映えて輝いた。

「豪ちゃん、男だからアタシを抱きたいでしょ?」

 口の中の紅茶を噴きそうになり、豪毅は慌ててごくりと飲み込んだ。「とっ、突然何言い出すんだ、おまえは」

「約束するよ。アタシとの初体験はクリスマスイブ」

「えっ?」

「だめ?」

「い、い、いいのか? 真唯、シても?」

「だって、恋人同士でしょ? 当然の成り行きじゃん」

「そ、そ、そんなこと、おまえから言われるとは思ってなかったからよ、」豪毅はそわそわし始めた。

「豪ちゃんはアタシが初めて?」

 こくこくこく。豪毅は無言で大きく何度もうなづいた。

「アタシも豪ちゃんが初めて。うまくできるように勉強しててね」真唯はウィンクをした。

 かーっ! 豪毅は豪快に赤面した。

 

 

 ――学校。放課後。

「ねえねえ、スミ」真唯は菫の教室を訪ねた。菫は帰り支度をして、今、まさに帰ろうとしていたところだった。

「あ、真唯、どうしたの?」

「いっしょに帰ろ」

「いいよ」

 二人は正門を出た。

「何か話でも?」菫が訊いた。

「うん。あのね、」真唯はいつになく真剣な顔を菫に向けた。「アタシね、クリスマス・イブにね、豪ちゃんにね、……させようと思って……」

「え? 何? よく聞こえなかった」

 二人は学校前のバス停にたどり着いた。

「だからね、豪ちゃんにね、」真唯はもじもじして顔を赤らめた。

「豪くんに?」

「こ、こ、この、カラダをね、その、プレゼントしようかと、お、思ってさ」

「え? カラダ? そ、それって……」

「は、初体験……しようかと、豪ちゃんと」

 菫は思い切り赤面した。

「だ、だめかな?」真唯はうつむいて、上目遣いで菫を見た。

「え、あ、あの……」菫はなかなか言葉を発することができずにいた。「ま、ま、真唯が、そう思ってるんだったら、べ、別にいいんじゃ、ないかな。私が決めることじゃないし……」

「そ、そうだね……」

 いつものバスがやってきて、二人の目の前に停まった。真唯と菫は黙ってそのバスに乗り込んだ。

 二人がけのシートに並んで腰掛けたが、真唯も菫もずっと黙ったままだった。やがて車内の自動アナウンスが次が『すずかけ三丁目』であることを告げた。菫の家はこのバス停が最寄りだ。一方真唯の住むマンションはもう一つ先のバス停『すずかけ橋』のすぐそばにあるので、いつもなら、ここで二人は別れることになっていた。しかし、菫が鞄を持ち直すと、窓際に座っていた真唯もポケットから定期カードを取り出した。

「え?」菫が真唯を見た。「降りるの? 真唯も。ここで」

「スミ、相談に乗ってよ。『シンチョコ』行こ」

「う、うん。わかった」

 二人は三丁目のバス停で降りて歩き始めた。すずかけ町の一番の繁華街はこの三丁目にある。そこを通り抜けて10分も歩かない内に菫の家に着く。真唯と菫はクリスマスが近づいて一気に賑わいを増した、明るい繁華街の中を歩いた。すぐに『シンチョコ』は見えてきた。

 

「ごめんね、つき合わせちゃって」真唯が喫茶スペースの椅子に腰を下ろしながら言った。

「ううん。実は私もちょっと気にはなってた」菫も向かいの席に座った。

 背の高いネクタイ姿の男性が水の入ったグラスを持ってやって来た。「やあ、二人とも。学校の帰り?」

「健太郎さん。今日はお店に出てるんですか?」菫が顔を上げた。

「うん。平日のこの時間はちょっとだけお客が減るんだ。だから今のうちに交代で休憩。今かみさんが休んでる」

「ねえねえ、健太郎おじ」真唯が言った。「春菜おばさんとの初体験って、どうだったの?」

「なっ! 何っ?!」健太郎は危うく持っていたグラスを取り落とすところだった。「と、突然何てこと訊くんだ、真唯」

「春菜おばさんは初めてだったのに、健太郎おじはそうじゃなかった、って聞いたけど」

「だ、誰に?」

「ミカばあちゃん」

 健太郎はもう一つのグラスも取り落としそうになった。実は健太郎は春菜とつきあい始める約一年前の高二の時、伯母のミカ(当時38)に童貞を捧げたという過去を持っているのだった。

「と、とにかく、何でそんなことを聞くんだ、いきなり」

「相談に乗ってくれない? 健太郎おじ」

「わ、わかった、ちょっと待ってな。ホットチョコレートでいいだろ? 二人とも」

「うん。ありがとう」「いただきます」

 一度店の奥に引っ込んだ健太郎は、しばらくしてトレイに二つのホットチョコレートのカップと一つのコーヒーのカップを載せて運んできた。

「さてと」健太郎は真唯の横に腰掛けた。「姪っ子も、そんな年頃になったんだな」

「順を追って話すね、健太郎おじ」

「俺にもわかるようにな」

「アタシ、豪ちゃんとつき合い始めた。このスミはケン兄と交際を始めた」

「いつから?」

「こないだ」

「おまえら四人はずっと前からの仲良しだったじゃないか。それにしてもうまいこと二人ずつのカップルになったもんだな」

「いて当たり前の関係だったからね、今更って感じもするけどさ」

「菫ちゃんが健吾とつき合うようになったきっかけは何?」

「私も、気づいたら、彼が好きになってた、って感じです」

「ふむ……まあ、それが思春期ってもんなんだろうね」

「でさ、アタシもスミも今度のクリスマス・イブに初体験を予定してるんだけど、」

「ちょ、ちょっとちょっとちょっと! 真唯! 私そんなこと一言も言ってないんだけどっ!」菫が椅子から腰を浮かせ、目を大きく見開き、慌てふためいて言った。

「あのさ、スミ、考えてごらんよ。愛し合う恋人同士にとって、一年で一番大きなイベントなんだよ、クリスマスって。その最大のイベントの最大のクライマックスが、」

 菫はとっさに真唯の口を押さえた。「わかった。もう言わないで。真唯、わかったから」

 健太郎は赤い顔をして困ったように口をゆがめた。

「というわけでさ、健太郎おじ、」

「うん……」

「初体験にあたっての心構え、っていうか、何て言うか……。教えてくんない?」

「俺、急用を思い出した」健太郎は立ち上がった。

「助けてよ、健太郎おじー」真唯が健太郎にすがりついた。丁度その時、店の奥から白い前掛けを手に持った春菜がやって来た。

「あっ! ルナ、おーい、助けてくれっ、ルナ!」健太郎は手を上げてその愛妻の名を呼んだ。彼の背後から真唯が胴体に手を回してしがみついている。

「ど、どうしたの?」春菜はちょっと驚いて小走りに健太郎に駆け寄った。「まあ、真唯ちゃんに菫ちゃんじゃない。いらっしゃい。どうしたの?」

「助けてくれっ!」真唯の腕を振りほどき、健太郎が春菜の背後に回り、背中を押した。「こ、この子たちの相談に乗ってやってくれ」

「相談?」

「み、店は、俺が仕切るから。頼んだ。そ、そろそろ子供らも帰ってくる頃だし」健太郎はそう言って、そそくさとレジに向かった。

「春菜おばさん、ごめんね。健太郎おじ、困らせちゃったみたい」

「いったいどうしたっていうの?」

「座って。ここに」

 真唯は今まで健太郎が座っていた椅子を春菜に勧めた。春菜はそこに腰掛けた。

 さっき健太郎に説明したことを、真唯は同じように春菜にも伝えた。

「なるほどね。それは確かに一大事」

「でしょ? でもね、アタシもう決心したんだ。スミも」

「いや、私まだ決心したわけじゃないから……」菫が小さく言ってカップを口に運んだ。

 春菜は健太郎が口をつけることのなかったコーヒーカップを手に取った。

「まあ、あなたたちの場合は、小さいころからずっといっしょにいたわけだし、つき合い始めてお互いを解り合う時間はずいぶん節約できてるわね」

「うん」

「とは言っても、親密なおつき合いをして初めてわかること、っていうのも、もちろんあるけどね」

「やっぱり、いざそういうことになったら、お互いのことを安心できる相手として認めてなきゃ無理ですよね」菫が言った。

「それは絶対条件だと思うわよ。行きずりの人とそんなことになったとしても、女は燃え上がることはあっても、癒されはしないからね」

「春菜おばさんは、どうだったの?」真唯が訊いた。

「私は健太郎おじさんが初めての人だったのよ」

「アタシたちといっしょだよね」

「そうね。でも、ケンと私がそんな風になっちゃったのは、つきあい始める前だった」

「ええっ?!」菫が驚いて口を押さえた。

「っていうか、それがきっかけで、恋人同士になったのよ」

「そういうケースもあるんだ……」

「その時は、実は私から彼を誘ったの。抱いて、ってね」

「ホントですか?」

「見かけによらず結構大胆だったんだね。春菜おばさん」

「ケンの水着姿に目がくらんじゃったのよ。プールサイドで彼の水着姿を見た日から、私もう、ケンの均整の取れたカラダが頭から離れなくてね。家に帰って私、彼の身体を想像して何枚もスケッチしたのを覚えてる」

「へえ、そう言えば春菜おばさんって、高校の時は、絵の達人だったんだよね?」

「達人ってほどじゃないけどね」春菜は照れたように笑った。「絵を描くのが大好きだった。それでね、ケンのヌードを描かせて、ってあなたのお母さんの真雪に頼んでもらって、彼の水着姿をスケッチしたの。それがきっかけ」

「やっぱり大胆。女子高校生がやることとは思えない……」

「私ね、その時自分のカラダが熱くなることに気づいたの。生まれてそれまで感じたことのなかった感覚。露骨な言い方だけど、この人に抱いてもらいたい、この人と一つになりたい、ってカラダが要求してたって感じがするのよ」

「わかる……ような気がする。アタシも」真唯が言った。

「私は、まだそんな感じになったこと、ない……ような気がする」菫が言った。

「それが普通なんじゃない? 女のコって、ビデオや映画みたいに、オトコの人のカラダを本当は欲しがっている、ってわけじゃないもの。もっと、何ていうか、身体の中からゆっくりと湧き上がる疼き、っていうか。うまく表現できないけどね」

「人を好きになって身体が熱くなるのと、同じようなものなのかなあ……」菫が言った。

「99パーセント同じ。でも、残りの1パーセントが違う。って私思ってる」

「残りの1パーセント?」

「それはきっとオトコの人も同じ。肉体的な快感を求める部分と、精神的にその人と一つになりたい、っていう欲求の区別はつきにくい」

「ちょっと難しいな……」

「その行為で身体が満足しても、心が通じ合ってないことはよくあることよ。オトコの人がよく誤解することなんだけど、極端な話、レイプしてる女の人が、感じちゃって、喘いだりしてるの見て、オトコは、なんだ、この女、犯されて喜んでるじゃないか、って思う。不幸なことだけどね」

「そうか……。なるほど」

「身体が気持ち良くなったからと言って、その人が好きになるとは限らない。でも逆にその人のことが好きで好きで堪らなくて、もっと一つになりたくてそういう行為に進むのは自然なことよ」

「そうですよね。アタシの思ってたとおり」真唯は目をくりくりさせて言った。

「ケンはね、私から誘ったにもかかわらず、野獣になることもなく、もう、すっごく優しく、最初から最後まで私をいたわりながら抱いてくれたのよ。私、感激したもの」

「さすが健太郎おじ」

「豪毅くんや健吾だって、きっとそうだと思うわよ。二人ともとっても優しいから」春菜はにっこりと笑った。

「そうですよねっ」真唯もまた目をくりくりさせて笑った。

「私からこんなこと言うのもなんだけど、菫ちゃんも、もし、イブの日にそんな雰囲気になっても、きっと健吾なら優しくしてくれるし、あなたがイヤだ、って言えば、それ以上のことを要求してくることはない、と思うわ」

「そ、そうですね……」

「ある意味、今までずっと10年以上もつき合ってきたわけでしょ? 大丈夫。彼のことが好きで、彼もあなたのことが好き、それだけで十分。お互いにきっとわかり合えるわ」

「ありがとうございました。春菜さん」

「ううん。勝手なことばっかり言っちゃって、ごめんなさいね」

「アタシ、ますますやる気出てきた」

「なんのやる気なんだよ」菫がまた赤面して言った。

「スミはどうなの?」

「わ、私も何だか……」

「よしっ! それじゃあ、ケン兄に予告しとこう」

「え? 予告?」コーヒーを飲み干したカップを持って立ち上がった春菜が真唯を見下ろした。

「クリスマス・プレゼントはア・タ・シ、って電話しなよ」真唯が楽しげに言った。

「ええっ?」菫は動揺した。

「何ならアタシが伝えてやろうか? ケン兄に。帰ってから」

「いい、いいよ、私が直接伝えるから」

「やっとその気になったね、スミ」